時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

晴れ間までの逢瀬

 ぱたり、と抱えた荷物の上に滴が落ちた時、ノリキは一瞬なにが起こったのか解らなかった。
 そしてその滴がぱたぱたと増え、肩や地面を濡らしだしたところで、ようやくこれが雨であることに気づく。
 常に雲よりも高く空を往く武蔵、そこに住む住人にとっては天気=晴れであることがほとんどだ。当然、傘などを持ち歩く習慣もない。
 久しぶりに味わう気まぐれな天の恵みは、どんどんその量を増やしていき、ノリキの眉間に皺を寄せさせた。
 手元に抱えていた荷物を見下ろし、一瞬考えてから作業ベストの懐に無理矢理突っ込む。濡れるのを完全に防ぐことはできないが、無いよりましだと考えたのだろう。そのまま、早足で駆けだした。
 IZUMOに停泊している間、忙しい時間の僅かな合間を縫って武蔵を降りた。目的は、今抱えている弟妹への土産だ。安物だが武蔵では手に入りにくい菓子を、幼い家族達は無邪気に喜んでくれるだろう。そう思えば、いつも引き下がっている口の両端も自然と緩む。
 しかし雨はどんどん大粒になり、髪や肩を容赦なく濡らしていく。ひとつ舌打ちをして、泥を蹴立てながら手頃な軒先に駆け込んだ。
「――ぇっ」
 僅かな息を飲む音と、俯いていた視界に入る両足。先客がいたのか、と思い姿勢を正すと、普段薮睨みの両目を大きく見開かざるを得なかった。
 同じように急な雨に降られ、ここで雨宿りをしていたのだろう。真っ直ぐな黒髪も、豊満な肢体を包む白絹も、しっとりと濡れていた。
 知っていた頃とは、随分と背も髪も伸びていたけれど、きめ細かい褐色の肌も、伏し目がちの瞼から覗く長い睫も、変わっていなかった。そうやってすぐに彼女の正体が分かってしまったことに、ノリキ自身が驚いた。
 忘れていた、とは言わないけれど、武蔵に移り住んでもう十年。過去を思い出すことは親の最期にも繋がる為、耽ることは少しずつ減っていった。
 それなのに、こうやって顔を合わせた途端に、訳の分からないほどの興奮と寂寥が、ノリキの胸を締め付けた。恐らくそれは、彼女も――北条・氏直も同じだったのだろう。
 彼女がここIZUMOに来ている理由が、恐らく武蔵であることはノリキにも解る。聖連との繋がりが薄い北条において、武蔵が敵になるか味方になるか、はたまた手強いか頼りになるか、見極めに来たのだろう。ここで目的が自分であるなどと自惚れることはない。
 だが、ここでの出会いは完全に彼女にとっても想定外だったのだろう。口元を手で覆い、戸惑ったように肩を震わせつつも、その視線はノリキから動かなかった。
 対するノリキも、なにを言えばいいのか解らない。たとえ自分が北条と敵対することになったとしても、今の己は只の一般生徒だ。総長である彼女とは、もう会うことなど無いだろうと思っていたのに。
 雨に閉ざされた軒先で、二人は暫し見つめあい――立ち直ったのは、氏直の方が先だった。すう、と一つ息を吸い、動揺を消して静かに言う。
「……もう少し、中へ。肩が濡れています」
 言われて、ようやくノリキも我に返ることが出来た。軒先に差し掛かったところで足を止めていたせいで、左の肩が屋根からこぼれる雫でずっしりと湿っていた。眉間の皺を深くして、軽く頭を降ると軒先に入り、店舗の壁に寄りかかる。
 氏直が、袂から手拭いを取り出してそっと差し出してくる。一瞬迷って、ノリキは首を横に振った。小さな布地では濡れそぼった体を拭ききることは出来ないだろうし、そこまで気を使って貰う道理もない。ほんの少しだけ眉尻を下げて、体を元の位置に戻す氏直に、僅かな罪悪感が疼くが撤回するつもりもない。
「……お前が、使え」
 ようやく言えたのはそんな一言だけで。驚いたようにこちらを向く気配がするが、正面から目を反らさなかった。他に誰かいたら、仮にも一国の主に不遜な口のききかたを、と怒られるところだったろうが、幸い見咎める相手もいない。昔から、彼女に対してもこういう喋り方しか出来なかったのだし。
「……大丈夫、ですよ。体も、丈夫になりましたし」
「……そうか」
「はい」
 やがて聞こえた声は、随分と柔らかかった。朴訥にしか聞こえないだろう己の言葉に対し、本当に嬉しそうで。
 何故だかやりきれなくなって、ノリキは空を仰いだ。雨はまだ止まない。空の端が明るいので、いずれ晴れてしまうだろうが。
 ――しまう、と考えた己に驚いた。
 この降って沸いた出会いを、幸運だと、離れがたいと、思っているのだろうか、自分は。
 ぐしゃりと自分の髪を片手でかき回し、心の中だけで己を叱咤する。
 今更、だ。
 彼女は認められて、自分は認められなくて。
 彼女は残って、自分は去った。
 誰かのせいにするのは容易いが、最後に選んだのは自分以外の何者でもない。
「――っ、くしゅ」
 僅かに息の詰まる音。それを聞いた瞬間、今までのぎごちなさが嘘のように勢いよく隣を振り向いた。
 自動人形の体が普通の風邪を引くとも思えないし、単純に僅かに冷えた故の反射だったのかもしれない。それでも、両手で口元を押さえたまま、どこか申し訳なさそうに俯く彼女は、ノリキに一瞬で過去を思い出させてしまって。
「――雨具を取ってくる」
「、え」
「待ってろ」
 それだけ言って、雨の中に飛び出した。近くの番屋までいけば、傘の一つも借りられるだろう。とにかく今は、彼女をこの寒空の下に置いておきたくなかった。
 泥を蹴立てるノリキの走りは、しかし唐突に止められた。軽い足音が近づいてきたかと思ったら、ぐっと左手首を握られ、引っ張られる。
「あの、大丈夫ですから……!」
 軒下から飛び出してきた氏直が、ノリキと同じぐらい濡れそぼりながらも慌てて告げた。咄嗟に雨を避けてやろうと思うものの、両手が塞がっていてどうにもならない。
「……すいません。お気を使わせてしまいました」
「いや……」
 心底申し訳なさそうな彼女の顔を見て、ノリキは冷静さを取り戻すことが出来た。そう、昔とは変わってしまったのに、彼女も、自分も。
 それでも、彼女のことを守りたいと、思ってしまった。
 ずっと幼い頃、体が弱くて、自分の後をついてくるだけでも大変そうだった少女に、今や全力疾走でも追いつかれるようになってしまったというのに。
 ばつが悪くてひとつため息を吐くと、咎められたと思ったのか、氏直が慌てて手を離す。そんな仕草だけが、昔と変わらなかったりするから。
 だからノリキは、離されようとする手を自分から掴んだ。
「え、ぁの」
「……番屋まで、走るぞ」
 これ以上濡らしてなるものか、と思い、それだけ言って彼女の手を引いて走り出す。戸惑いは一瞬だけで、彼女の足音もちゃんと後ろからついてきた。




 番屋に着いた頃には、雨は止んでしまった。
 お互いびしょ濡れになった顔を見合わせると、自然と口元が綻んでしまった。かなり苦みの混じったものであったけれど、笑えた。
 そして、ぎごちなく互いの手を離す。いつの間にか、絡んでいた指を、名残惜しさを堪えて解いた。
「……あの」
「……」
「もう一度。会って、頂けますか」
 俯いたまま、氏直が囁く。
「三日後、朝に。場所は、走狗で知らせます、から」
「……大丈夫なのか」
 彼女の立場では、そんな時間すら取る事は難しいのではないか。尚且つ、袂を分かった筈の自分と会うのだから。案じたつもりだったが、彼女は拒否を感じたらしい。一瞬だけ、きゅっと眉根に皺を寄せてから、「どうか一度だけ」と呟く。
 そして生憎、その言葉を拒否する理由も意志も、ノリキは己の中からとても見つけることは出来なかった。
 番屋の中から誰か出てくる気配を感じ、ノリキが一瞬気を取られた瞬間、氏直は駈け出してしまった。咄嗟に伸ばそうとした手を、心の中だけで叱咤して降ろす。
 これが最後ではないという希望へ縋ってしまう自分に腹が立ち、ノリキは己の開いた掌で拳を作り、思い切り頭を打ち下ろした。