時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

わかれはいつもつゆけきを

 極東唯一の固有領土、巨大戦艦"武蔵"が停泊しているドックは、沢山の人が慌ただしく動いていた。交易用の荷を降ろし、また積み、数刻後に迫った出航に備えている。
 その忙しい様を見ながら、ノリキは桟橋からやや離れた荷物の隅に腰掛けていた。
 今日、彼は両親とともに、相模を離れる。
 共の者などおらず、個人が持てる僅かな荷物を抱えただけ。一国の重臣である一家の旅立ちとは思えぬほど、ひっそりと隠れるような出で立ちで。
 両親は何やら船上で交渉があるのか、先に乗り込んでしまった。ノリキも来るようにと言われていたが、もう少しだけという条件で、まだ此処にいる。
 傍目から見れば、幼い少年が故郷から離れることを惜しんで拗ねているようにも見えただろう。だが、彼はそこまでこの出発を疎んじていたわけではない。
 己の意志ではどうしようもない、政争と言う名の奔流に流されることしか、彼には出来ない。諦めとも少し違うが、これで全てが丸く収まるのならば、そうするべきなのだろうという決心があった。
 生まれたときから己の立場を知っていた少年は、その程度の覚悟ならば決めることが出来た。
 それでも、まだ年端もゆかぬ少年には違いない。名残惜しさから、流体光に包まれた船の上に足を運ぶことは、少しだけ躊躇われた。
 別に、待っていたからといって、誰が来るわけでもないのに――
 ぱたぱたと、人いきれに混ざって聞こえた軽い足音。聞き覚えのあるその音に、ノリキは自然と俯いていた顔をはっと持ち上げた。
 大人達の間をくぐり抜け、おぼつかない足取りで走りながら、あたりを見回す少女。どれだけ走ってきたのか、すっかり息が上がっている。生まれつきその肌は褐色で、頭にはまだ短い鬼族の角が生えていた。
「っ――」
 とっさに立ち上がり、彼女の名前を呼ぼうとして、ノリキはぎりぎりで息を飲み込んだ。
 彼女の出で立ちは、まるでそこらの町娘のような上掛けを一枚頭から被った、どう見てもお忍びとしか見えない格好。その彼女の名前をこんなところで出してはいけないと、幼心にノリキも気づいた。
 しかしその僅かな息の音が聞こえたのか、少女の伏し目がちな視線がこちらを向き、乱れた荒い息がは、と吐かれる。そして、彼女はまっすぐ、ノリキに向かって駆けてきて。
「ノリキ様っ……!」
「!」
 己の胸にすがりついてきた少女を、ノリキはとっさに引っ張って荷物の陰に隠れた。本来なら、誰よりも一番、この場に来てはいけないのだ、彼女は。
 相模を治める北条印度諸国連合にて、次期総長にして生徒会長の座が約束されている少女。北条・氏直の名をいずれ襲名する彼女が。
「……どうして、来た」
「ごめんなさい……」
 それでも、どちらからともなく、しがみつくように絡めた両腕を、離すことは出来なかった。そして、悲しそうに俯いてしまった少女に対し、咎めるような事を言ってしまったことをノリキは悔やんだ。ただ、彼女のことが心配だっただけなのに。
「……ちがう。怒って、いない」
 ぎゅっと細い腕を掴んで、どうにか言えたのはこんな言葉だけ。うまく動かない自分の頭も口も嫌になるが、少女は安心したように息を吐いてくれた。
「どうしても……お会いしたかったのです」
 そう言って伏せられる瞼の端に、いっぱいの滴が溜まっていた。次に何かを言えば、すぐにこぼれ落ちてしまいそうなくらい。
 それを防ぐために、何を言えばいいのか、ノリキには解らない。彼女を慰めることも、安心させることも、彼には言えない。出来ない約束などするものではないと、良く解っているから。
 武蔵は一年単位でこの極東を巡る。いずれはこの地にも戻ってくるだろう。だが、ノリキが彼女と会うことは、恐らく二度と無い。
 政争に勝った者と、破れた者。破れた者は、この地を去らなければいけない。命が助かっただけ行幸とも言えるだろう。――彼も彼女も、決してそんなことを望んだわけではないのに。
「あの……お見おくり、に。もう……これで……」
 さいごですから、と彼女の唇が動いた気がした。しかし音はその口から漏れず、代わりに褐色の頬を滴が伝い落ちる。
 怪我をしたわけでもないのに、心臓がぢくんと痛み、ノリキは堪らず手を伸ばす。氏直の頬に手を押しつけ、親指でぐいと涙を拭った。
「のりきさ、ま」
 こぼれ落ちる滴は、どんどん落ちてくる。ただそれを止めたくて、ノリキはひたすらそれを拭い続けた。
 じりじりと、自分の目頭が熱くなる。視界が歪むのが不快で、頭を振った。両手は彼女の滴を拭うだけで精一杯だ。すると、まるで小枝のように細い彼女の指が伸びて、目尻に触れた。
「泣かないで、ください」
「おまえが、言うな……」
 笑おうと思ったが、失敗した。上手く口の端を持ち上げることが出来ない。彼女もそれは同じのようで、震える唇を何度も開閉させながら、一生懸命言葉を紡いだ。
「私……、いつかこの国を、りっぱに、おさめてみせますから」
 互いの頬を両手で包み、鼻先が触れ合うほどに近づけて。まるで内緒話のように、彼女は囁いた。
「まっています。あなたがかえってくるのを、まってますから――」
 それは約束できない願いだった。答えることは愚か、聞くことすら出来ない己が腹立たしくて、ノリキは臍を噛む。
「だから、だから――ぁ、」
「っ!」
 ぐいと彼女の顔を引き寄せ、まるで塞ぐように口同士をぶつけた。息を飲む音が吐息ごと聞こえて、互いの歯がぶつかった僅かな痛みも気にならなかった。
 固まっていた少女の手が、ゆっくりと降ろされ、まるで全てを委ねるかのようにすがりついてきたので、ようやくノリキは唇を離し、ぎゅうっと相手の背中を抱きしめた。
「わかっているなら、言わなくて、いい」
「あ……っ、」
 これ以上彼女に、自分すらも傷つけるような言葉を発して欲しくなかった。
 口下手な己の思いがどれだけ伝わったのかは解らない、だが、彼女の手はノリキの背にそっと回った。
 ノリキも、彼女も。その生い立ちから、子供らしい夢を見ることなどついぞ出来なかった。自分達はどうしようもなく無力で、もしかしたらと言う希望は、有り余る多数の壁によって潰される。
 僅かに震える細い肩と、濡れていく己の肩口を、彼はもうどうすることも出来なかったのだ。
「まもなく、準バハムート級航空艦・"武蔵"出航15分前となります――」
 女性の声でアナウンスがドック中に響き、ノリキも氏直もはっと我に返った。ぎごちなく、名残惜しく、体を離す。もはや、どんな言葉を交わせばいいのかすら、二人には解らない。
 離れた肩に、無意識のうちにもう一度伸びかけた両手をぐっと握りしめ、ノリキはきびすを返した。はっと彼女が息を飲んだ音を聞きたくなくて、無我夢中で駆け出す。
「ノリキさま――!」
 名を呼ばれても、振り向くことなど出来なかった。己の無力がただ腹立たしくて、ひたすらに駆けることしか。


 ――そして、武蔵の地で、ノリキは王と出会う。どうしようもない馬鹿であったけれど、己の願いを叶えてくれるだろう王と。
 残された家族を守るだけで精一杯の己に、どれだけ出来るか解らなかったけれど。自分に残された唯一の武器である拳を、捧げようと誓った。
 だから。
 目の前に立っている、褐色肌の少女に。あの頃の儚さは見せず、ただただ強く、美しくなった娘に。――己の事を忘れていなかった彼女に、背を向けることしかできなかった。
「待ってますから――」
 その言葉を聞いて、一瞬止まりそうになった爪先をどうにか動かす。
 きっと彼女は、己が約束できなかった筈のその言葉を胸に、戦い続けてきたのだろう。何も出来なかった自分を、ずっと待っていてくれたのだろう。
 だが、振り向くことは出来ない。もう既に、彼女と自分の道は、分かたれてしまって交わらない。
 きっと振り向けば、伏せられたあの瞳には、滴が満たされているのかもしれない。そうだとしても、もう自分には、それを拭ってやることは出来ない。
 両の拳を爪が食い込まんばかりに握りしめたまま、ノリキはゆっくりと歩き去っていった。