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雪の間にまに

 こん、こん、と喉を突いて出た咳で、氏直は目を覚ましてしまった。
 ぼうっとした頭で、寝ころんだまま辺りを見回す。いつも通りの殺風景な、己の部屋の天井だ。ふ、と細く息を吐くと、また咳が暴れ出す。
「んっ、こんっ」
 あまり音を響かせてはまずいと、とっさに枕へ伏せて咳を殺した。ひゅうひゅうと鳴る喉をどうにか宥め、柔らかな布団の中に潜る。
 ここ数日、急に冷えてきて、ついに今朝雪が降った。元より丈夫でない氏直は、その寒暖差に耐えきれず、すっかり熱を出して床に伏してしまった。喉と関節は痛みを訴え、目眩も手伝ってとても起きあがれない。
 部屋の温度は常に快適に保たれている筈なのに、酷く寒く感じる。鼻先まで布団に潜り込みながら、氏直の心に浮かぶのは。
 ……また、父上を失望させてしまいましたね。
 北条・氏直を襲名するべくこの家に生まれた彼女は、しかし女性として生を受けてしまった。それだけならば、確実性が減るだけでまだ望みがある、と思うところだろうが、更に彼女は体が弱かった。
 この戦国乱世、いずれ総長となる者がおのずから剣をとって戦うことも出来ないなど、愚の骨頂。稽古の度に寝込み、すぐに病を得てしまう娘を、父がどう思っているのか、彼女は恐ろしくて聞くことが出来ない。
 早く体を治さねばという義務感は、いっそこのまま病を持って儚くなれば良いのでは、という不安に流されかける。
 こんな事では駄目だ、と解っているのに、逸る心に体はついてきてくれない。
「んくっ、ごほっ、ぁ――」
 体を縮め、喉を突く咳を必死に堪えていると、不意にぽす、と布団の上から背を叩かれた。苦しさも忘れ、はっと氏直は息を取り戻す。どうにか寝返りを打つと、そこには。
「っ、あ、」
「しゃべるな」
 自分より僅かに年若いだけの少年が、いつのまにやら部屋に入ってきていた。体調を崩している間は、面会謝絶の筈。恐らく、庭に生えている樹から屋根を伝って、窓を潜ってきたのだろう。
 また無茶を、と思うし、どうして、とも思う。本当ならば彼は、ここにいてはいけない相手だからだ。
 彼は本来、氏直の許嫁として襲名を受ける予定で――しかし男児として生まれてしまった。
 氏直が女性として生まれたのだからそれで良しとする派と、襲名出来なければ何の意味もないとする派。そもそも氏直の襲名を取りやめ彼を押し立てるべきという派すら加わり、二人の子供を巡り、北条は現在様々な派閥に分かれていた。故に、迂闊な刺激とならないようにと、正式な手続きを踏まなければ、会うことすら叶わないのだが。
 彼は、こうやって近従達の目を盗み、氏直の部屋にやってくる。氏直が体調を崩し、寝込んでいるときにはいつもだ。
 優しいひとだ。氏直は、思う。いつも口の両端を大きく下げた仏頂面で、それなのに瞳は心配に満ちている。布団の上から己の胸を撫でてくる手が心地よくて、氏直はほうと息を吐いた。
 それが合図のように、少年の手は布団の上から退き、氏直が少し残念に思う間もなく、今度は彼女の額の上にぺたりと乗せられた。ひんやりとした感触に一瞬身を竦めるが、熱で茹だった頭にはかえって有り難い。
「外、さむかったのでしょう」
 細く、それでもどうにか言葉を紡ぐと、少年はばつが悪そうな顔でそっぽを向き、手を引いた。解っているなら言わなくていい、という体に、氏直は我慢できずにくすくすと喉を揺らす。また咳きこみそうになる体をどうにか堪え、これだけは言わなければと口を開く。
「かぜがうつってしまいますよ。早くおもどり下さいませ」
 嬉しさや感謝を堪え、それだけを伝える。もしも自分のせいで、彼にまでこの苦しみを与えてしまったら、どう詫びて良いのか解らないからだ。
 少年はやはり不満そうだったが、あまり長居が出来ないのも事実なのだろう。僅かに引かれた膝に、沸き起こる寂寥を表に出さないようにして――不意の寒気に、氏直はぶるりと肩を震わせた。
「……さむいのか」
「いえ、平気で――」
 す、と言いかけた言葉は、近づいてきた彼に止められた。布団の中に外気をあまり入れないように、僅かにめくると、なんと彼はその中に身を入れてきた。あまりにも唐突な行動に、氏直は目を白黒させる。
「あ、あの、」
「さむいんだろう」
 止める間もなく、何も言えず。ぎゅう、と細いが強い腕の力で抱きしめられた。
 相手の胸に顔を押しつけられる形になり、かっと全身を熱が駆け巡る。彼の外気で冷えた体も全く気にならない。
 相手の心臓の音が間近に聞こえ、己の心臓も忙しく駆動している。このままならぬ身のせいで、父は愚か母にすら、物心ついてから抱きしめられた記憶など無いのに。
「……いなく、なるな」
 小さく、小さく。旋毛の上で呟かれた囁きに、氏直の目頭が熱くなる。
 彼がどんな思いを持って囁いた言葉なのか、彼女には解らない。口下手な彼は、必要なこと以外何も語ってくれない。
 だが、少なくとも彼は、この、未だ何者にもならぬ己の身を惜しんでくれているのだと、そのことだけは理解できたので。
「……はい。はい。氏直は、ここにいます」
 震える声で、どうにかそれだけ伝えた。
「そうか」
 僅かに少年の肩から力が抜け、身を離されるのかと思った氏直は、とっさにその胸にすがりつき、着物をぎゅっと掴む。
 一瞬後に自分の不作法が恥ずかしくなり、少年の僅かな戸惑いも感じ取れたのに、その手を離すことだけはどうしても出来なくて。
 また少年の腕がぎごちなく、自分を守るように包んでくれたことに、氏直は安堵して、目を閉じた。