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ミッドナイト2

金波宮の奥の奥、王とその側近しか入る事が叶わない一室にて。
「じゃあ本当に偶然に、祥瓊もその楽俊って人に会えたんだ」
円机の上にある菓子壷から小さな饅頭をつまみながら、はしゃいだように言う少女・鈴は、海客にして仙籍に入り、今は慶国の王に仕える女御である。
「ええ。彼に会えなかったら今、きっと私はここにいないわ」
上品な手つきでお茶を一口飲み、笑顔を見せる少女の名は祥瓊。彼女も王に仕える女史であり、元は芳国の皇女であった。
しかし彼女も先述の鈴も、王宮内にも関わらず凄く寛いだ表情を見せており、喋り方も凡そ女官らしくない。まるで気安い友人と、お茶を飲みながらお喋りに興じている、まるきり普通の少女達にしか見えないのだ。
しかも。
「私も楽俊がいなかったら、王になんてなれなかったと思う」
祥瓊の言葉に深く頷く赤い髪の少女は、紛れもなく景王赤子、真名を陽子と言う。自分の部下である娘達にも気さくな笑顔を向け、宵闇の茶会を催したのは彼女に他ならない。きっと他国の者が見たら―――否、自国の民でもこの光景を見たら呆然としてしまうだろうが、彼女達は違和感も何も無く、美味な菓子とお茶に舌鼓を打ちながら和やかに話をしている。
と、陽子の顔が不意に強張った。それに気付いた鈴と祥瓊が唇を閉じると、かつ、かつ、と規則正しい足音がこちらの部屋に近づいてくる事に気付いた。時刻は夜、こんな宮の奥まで入り込める者はそう多くない。
娘達の動きは速かった。菓子壷と茶器をさりげなく棚の上に移動させ、布をかけて誤魔化すと、別の卓の上に置きっぱなしになっていた竹簡を無造作に円机に広げた時、こつこつと扉が叩かれた。
「景麒か?」
『…はい』
「入っていいぞ。鍵は開いてる」
長い沈黙の後、最早彼のトレードマークとなってしまった長い溜息が聞こえ、この国の麒麟である景麒が部屋に入ってきた。無表情のまま――その手に珍しく、似合わぬものを携えて。それを発見して、さてまた今日はどんな説教を受けるのかと眉を顰めていた陽子は、その不機嫌を全て吹き飛ばして顔を輝かせた。
「主上。いくら宮の奥と言えど警戒を怠っては「鶯! 戻ってきてたのか!」
自分の麒麟の言葉をすっぱり無視し、笑顔で駆け寄る。性格には景麒にではなく、彼の持つ鳥篭―――その中に大人しく収まっている一羽の鳥に。
「それって、楽俊さんに出した返事?」
「ああ、今回はいつもより早いな。忙しいなら無理しなくていいって言ってるのに」
身を乗り出して目を瞬かせる鈴に答えて困り顔の陽子だったが、その口調に滲み出ている嬉しさは隠せない。
彼女にとって右も左も解らないこの世界で、出会えた初めての友人。今は遠い雁国の大学で勉強している、鼠の半獣・楽俊その人からの便りを携えた鳥の入った籠を、陽子は大事そうに持ち上げて円机の上に運んだ。籠の扉を開けると、ちちち、と小さく鳴いて青い羽の鶯が出てくる。
「ところで、台輔。如何して貴方がわざわざこの鳥を?」
全く自分に目もくれず小鳥に夢中な主上を無表情のまま見つめていた景麒に、当然の事をこそりと祥瓊が問う。本来こういうものには直属の部下がついていて、恐れ多くも国の宝・麒麟にそれを持たせるような不届き者がその中にいるとは思えない。景麒はやはり無表情のまま、あっさりとその理由を話す。
「こちらへ伺う途中、浩瀚殿にお会いしまして」
それだけで理由を察した鈴と祥瓊が、同時にくっと目線を逸らす。吹き出しそうになったのだ。王とは違った意味で傑物なあの宰相は、とことん合理主義なお人だ。丁度宮に向かう者がいるのならばそれが例え台輔であろうと、「ではついでと言っては申し訳ありませんが、こちらをお持ちください」とにっこり笑って差し出すだろう。逆らおうものなら今宮殿内の、どうしようもない程の労働力不足をとつとつと説教されるに決まっている。立ってるものは麒麟でも使え、と決して口には出さないが絶対そう思っていると思う。
「どうしたんだ3人とも? ほらほら、早く」
話を全く聞いていなかったらしい陽子が、ひらひらと手で他の皆を招く。そこには銀の粒を与えられた鶯が自分の仕事を成そうと今か今かと待ち構えている。
「えっ、私達も聞いていいの?」
てっきり今日はもうお開きだと思っていた鈴が声を上げる。祥瓊もそれは失礼ではないかしらと言うように首を傾げている。景麒は無言だがその温度のない目線が思い切り反抗している。
「構わないさ、本当は皆にすぐ会わせたいぐらいだけど、流石にそれは無理だから。せめて声だけでも聞いてくれないか?」
尚も笑顔で促す洋子に、鈴と祥瓊は顔を見合わせ――うん、と同時に頷いた。どちらにしろ楽俊の声を聞きたい、聞いてみたいと思っていたのに二人ともかわりはないのだ。景麒だけがやはり不満げに、「主命とあらば」と頷いてから娘二人の後に続いた。
満を持して、陽子は鶯の喉を優しく擽る。一瞬の間の後、どこかのんびりとした声が嘴から零れた。
『陽子、おいらだ。久しぶりだな。おいらも最近は試験試験で忙しいけど、陽子ほどじゃねぇ。大学生と王様じゃ、比べるのもおこがましいってやつだけど』
久しぶりに聞く、こちらの心をほっこりと包んでくれるような暖かい声に、陽子と祥瓊が同時に安堵の息を漏らす。鈴も僅かに身を乗り出し、自分が二人から聞いた話によって思い描いていた人柄にあまり差異はないのだろうと納得できて何度も頷いている。景麒だけはいつものように無表情だったが。
『おいらでも、国を作り直すってぇのが大変だって事は解る。陽子はその上胎果なんだから、こっちの事がまだ良く解らなくて当たり前だ。やれるとこからやっていきゃいい』
うん、と言葉には出さず、小さく陽子は頷いた。楽俊の声はいつだって優しい。決して厳しくなく、それなのに何時の間にか曲がっていた背中をしゃんと立たせてくれるような言葉だ。ちらりと横を見ると、景麒の眉間に皺が寄っているが、これは私を甘やかさないで欲しいと思っているんだろうな、と陽子はこっそり納得して苦笑する。
『陽子は真面目すぎっから、すぐ無理してんじゃねぇかって心配になる。寝る時間も惜しいんだったら、無理して返事しなくてもいいんだぞ? …ああ勿論、返事するななんて言ってねぇ。寧ろ、陽子のことが解るのが嬉しいし、陽子の声を聞くのも嬉しい。ちゃんと元気だって解るからな。心配性って言われるかもしんねぇけど、本当の気持ちだ』
真摯な言葉に、きゅうと喉の奥で変な音がしたような気がした。いつもだったら飲み込んで蓋をしておける壷の中から、じんわりとその感情が浮かんでくる。
――――会いたい。
甘えたいわけでも、弱みを見せたいわけでもない。自分に与えられた役目をきっちりこなす事こそが、楽俊に報いる事になるのも解っている。それでも、どこかで寂しいと思ってしまう。友人達とこの声を聞こうとしたのも、それを抑えるためでもあったのに。
他の人では埋められない穴は、楽俊の形をしている。こんな気持ちは初めてで、どうしたら良いのかわからない。
其処まで考えて、陽子は駄目だと首を振る。こんな事楽俊が聞いたら、きっと怒るだろう。いや、彼なら怒らないかもしれないけれど、戸惑って、困るだろう。これでは親に縋る子供のようだ。情けない、と自分を叱咤しようとして―――ふと、鶯の言葉が途切れている事に気付いた。
いつもの楽俊なら、必ず最後に別れの言葉を入れてくれるはずだ。不思議に思ったのか、他の面々も鳥に顔を寄せる。陽子も勿論、耳を欹てるように近づけた時―――嘴が動いた。
『………会いてぇ、な』
時間が止まった。
少なくとも陽子の時間は完全に止まった。鈴がえ、と思わず呟き、祥瓊がまぁ、と言いたげに口元を押さえ、ぴくっ、と景麒の眉間の皺が深くなった。
『あ』
まるでその沈黙に答えるかのように楽俊が―――正確には鶯がぽつ、と呟き。
『…ぅ、わあああ! い、今のは無しだ無し!』
鳥の声とは思えないほど大声で、焦りまくった楽俊の声が部屋中に響いた。
『すまねぇ! 戯言だ、忘れてくれ! け、けど陽子の事心配してんのは本気だからな! 愚痴でも何でも、おいらにゃ言いたいこと何でも言ってくれ…そんだけだ!』
混乱したまま無理矢理返事を終わらせたらしく、唐突に鳴き声はちちっと可愛いものに戻った。
全員、我知らず詰めていた息を吐き、所在なげに顔を見合わせる。
「…びっくりした。…ね、楽俊さんってこういう事すんなり言える人?」
じゃないよねぇ、と言外に込めて鈴が誰にともなく問う。祥瓊はうん、と一つ頷き、
「私もびっくりしたわ…こういう事には縁の無い人だって勝手に思ってたけど。ねぇ陽―――」
同意を求めようとした祥瓊の言葉が止まった。何故かと思い、彼女の目線を追った鈴と景麒も固まった。
そこには。
翠色の目を真ん丸に見開いて。
口元を押さえて何も言えないまま。
その豊かな髪に負けないぐらい、自分の頬を真っ赤に染めてしまった―――景王がいたのだから。
思い切り不意打ちだった。彼が自分と同じように考えていてくれたこととか、うっかり近づきすぎてまるで耳元で囁かれたように感じてしまったこととか、それで連想して雁国にて、後ろから抱き締められた時のことまで思い出してしまい。
顔どころか耳まで真っ赤にしてしまった陽子を、暫し呆然と皆見遣り。
「…ええー! 陽子と楽俊さんってそうだったの!?」
「なっちっ、ちが……!!」
驚きと嬉しさとからかいで丁度3分割されたような鈴の叫びに、はっと意識を取り戻した陽子は思うさま動揺する。椅子から降りて慌てて後退る陽子の後ろに、何時の間にか回ったのか祥瓊が立ち、にっこり笑って両肩を押さえる。
「そんな、恥ずかしがらないで? もう陽子ったら、早く教えてくれれば良かったのに」
「違うって! 楽俊はそんなんじゃないんだ!」
「でも、楽俊さんはそんな感じだったよね?」
「うぐ………や、それはっ」
前門の鈴、後門の祥瓊。逃げ場を失った陽子は、最後の頼みの綱とばかりに景麒に視線を飛ばすが、それはいつにも増してひんやりとしたそれで返された。
「……主上。この件に関しては後日、ゆっくりとお話する時間を頂きたいのですが」
「待て、お前まで何勘違いしてるんだ景麒ーッ」
「暫くはこちらの鳥も延王にお返しいたしましょうか。書簡のやり取りに感けて市政を蔑ろになされては困りますので」
「――――――!!」
その一言に、ぷちっと陽子のどこかが切れた。元々追い詰められるほど強くなるのが陽子の底力、尚且つ自分と楽俊を繋ぐ唯一の手段を無くすわけにはいかない。
陽子はうろたえを無理矢理抑え、ふんっと胸を張って景麒にこうのたまった。
「何だやきもちか。大人気ないぞ景麒」
ぴしり。
鈴と祥瓊が息を呑むほどに、見事に景麒は凍りついた。溜飲を下げた陽子は、素早く祥瓊の戒めから脱出すると、鶯と鳥篭を抱えて部屋から逃げ出した。
「これから返事を出すから邪魔するなよ! 鈴、祥瓊お休み!!」
ばたばたばた、と王らしくない足音が遠ざかり、娘二人は顔をもう一度見合わせ。
「残念、聞き出せなかったか」
「まぁ、まだ機会はあるでしょうから、今日は勘弁してあげましょ」
元々、本当に嬉しそうに楽俊のことばかりを語る陽子に、そんな想いが芽生えている事にはとうに気付いていたこの二人。でもこちらは曲がりなりにも王だし、片思いなのかしらと気を揉んでいた矢先の騒動。
「でも良かったわね、望みはあるわよ」
「寧ろ自覚は楽俊の方がありそうだわ。これなら何とかなるかも…」
きゃいきゃいと本当に年頃の娘のようにはしゃぐ二人に対し、未だ固まったままの景麒はそのまま放っておかれ、次の日部屋を通りかかった虎嘯に発見され怯えられるのだが、それはまた別のお話。