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ミッドナイト

大学の寮に帰った頃には、もう日もとっぷりと暮れていた。
ずっと机に向かっていたせいで凝り固まった肩をくりくり回しながら、楽俊は自分の部屋の戸を開ける。
闇に沈んだ部屋の中に滑り込み、灯篭に灯りをつけると、こつこつと何か固いものを叩く音がした。
「おっと」
楽俊は大きな眼を一回瞬き、いそいそと―――彼の足音はやはりほたほたと、だったけれど、兎も角板戸の填められた窓に近づいてそれを押し上げた。
ちち、と小さな鳴き声とともに、夜目にも美しい羽色をした鶯が部屋の中に入ってきた。ぱたぱたと大人しく文机の上に舞い降り、何かを強請るようにつぶらな瞳を楽俊に向けてくる。
「ちっと待ってな」
苦笑して楽俊は戸棚の中をごそごそと漁る。奥の方から銀の粒の入った巾着袋を取り出すと、それを持って机に取って返し、何の躊躇いも無くその粒を一つまみし、鳥の嘴に啄ばませた。
嘴の下を指で軽く擽ってやると、満足げに喉を仰のかせて、その鳥は人の言葉を語りだした。――紛れも無い、女性の声で。
『楽俊、久しぶりだ。元気か? こっちは相変わらず忙しい』
はきはきと、どこかぶっきらぼうだが押さえきれぬ親しみが滲み出ている凛とした声に、楽俊は満足げに口角を上げ、きちんとその言葉を聞き逃さぬように鳥の前に椅子を引いて座った。
『内紛も収まって、周りに頼りになる人も増えた。やらなきゃいけないことは山積みだけど、一つずつやっていかなきゃいけないと思う』
「ん、そうだな」
思わず相槌を打ってしまい、そんな自分に楽俊は苦笑する。別にここで喋っても、彼女に直接届くわけではないのに。
この贅沢な鶯は、本来ならば国の「王」が他の国へ届ける伝達手段だ。本来なら一介の学生如きが扱える代物ではないし、養う事だって出来そうに無い。それを自分が出来るのは、他ならぬ「王」と自分が友人である、からだ。
今自分がいる雁より遠く離れた巧国で出会った、赤い髪の海客。ひょんなことから彼女と共に旅をする事になり、その途中で彼女が胎果、しかも慶国の王である事が判明し。
その時感じた衝撃を、楽俊は今でも覚えている。
知らないとはいえ、とんでもない不敬を犯してしまったこと。勿論それが大部分であったけれど、その奥底にもう一つ。
ただ彼女が、凄く遠い存在であったこと。
彼女が海客でも、自分が半獣でも、大した事はないと楽俊は本気で思っていた。彼女自身もそう思ってくれていると、短い旅の中で感じていた。
それでも。自分にとって「王」というのは、誇張無しに雲の上の存在で。
それが、とても。胸の奥にずんと来た。
『新しく禁軍に、半獣の人が入ったんだ。とても力が強くて、気さくでいい人だ。きっと楽俊とも気が合うと思う。…まだ宮にはそれを認めない者が多くて、申し訳ないけれど』
僅かに鶯の声が低くなった事に気付き、楽俊は物思いから帰ってくる。その詫びはきっと、その半獣であるという軍人の人と同時に、自分にも向けられているのだろうと楽俊は気付いた。
『そんな偏見を、出来る事なら今すぐ取り払いたい。…ああ、そんな事を言う奴に楽俊を会わせられればいいのになぁ。きっとすぐさま前言を撤回するだろうに』
「…そりゃ買いかぶりすぎだぞぉ」
低い声の後、冗談交じりだろうけれどそんな事を言われて、楽俊は困ったように自分の髭を撫でた。鼠の顔には幸い、朱が昇る事は無かったし、もし見えたとしても鶯だけだったけれど。
『すまない、愚痴になってしまったな。もっと話したいけど、流石に眠くなってきた。明日からまた朝議があるからもう寝ないといけない。慌しくてすまない。今度はもっと時間があるときに返事をするよ。それじゃあ、楽俊も元気で。勉強を頑張ってくれ』
それで言葉は終わり、ちち、と鶯が本来の声で鳴く。楽俊はもう一度銀の粒を摘んで与えてやると、一つ息を吸って鶯に向かって「返事」を話し出した。
「陽子、おいらだ。久しぶりだな。おいらも最近は試験試験で忙しいけど、陽子ほどじゃねぇ。大学生と王様じゃ、比べるのもおこがましいってやつだけど」
話す相手は鶯だけ。それでも言葉を、遠い国にいる友へ伝えようと、一生懸命紡ぐ。
「おいらでも、国を作り直すってぇのが大変だって事は解る。陽子はその上胎果なんだから、こっちの事がまだ良く解らなくて当たり前だ。やれるとこからやっていきゃいい。陽子は真面目すぎっから、すぐ無理してんじゃねぇかって心配になる。寝る時間も惜しいんだったら、無理して返事しなくてもいいんだぞ?」
そこまで言って、これでは返事を拒んでいるように聞こえると思い直し、慌てて訂正する。
「ああ勿論、返事するななんて言ってねぇ。寧ろ、陽子のことが解るのが嬉しいし、陽子の声を聞くのも嬉しい。ちゃんと元気だって解るからな。心配性って言われるかもしんねぇけど、本当の気持ちだ」
唐突に自分の運命を突きつけられて、惑っていた少女。重すぎる重責から逃げる事すら出来ず、必死に唇を噛み締めていた。
何とかしてやりたかった。だから、あの月の美しかった雁の宮廷で、今にも崩折れそうに見えた背中を抱き締めた。不敬とか、はしたないとか、そんなものは頭から吹っ飛んでいた。自分に出来る事なら、支えてやりたかった。
また、あんなふうに苦しんでいないだろうか。そう思うと、たまらなくなる。今すぐ側に行って、大丈夫だと言ってやりたかった。
「………会いてぇ、な」
ぽつり、と自然に楽俊の唇からその言葉が漏れた。何の奇もてらいも無い、素直な心の言葉。
「あ」
そしてはたと我に返った。目の前には、真ん丸い眼をしてく?と首を傾げている鶯が一羽。
「…ぅ、わあああ! い、今のは無しだ無し!」
びびっ、と髭と首筋の毛を逆立てて大慌てで楽俊は叫んだ。とんでもなく恥ずかしい事を言ってしまった。
「すまねぇ! 戯言だ、忘れてくれ! け、けど陽子の事心配してんのは本気だからな! 愚痴でも何でも、おいらにゃ言いたいこと何でも言ってくれ…そんだけだ!」
わたわたしながら無理矢理言葉を結び、きょとんとしている鶯を両手で包み、窓に駆け寄って話した。鶯は躊躇いもなく、夜の空を飛んでいく。
「…あああ〜…」
それが見えなくなるまで見送って、へなへなと楽俊は部屋の床に崩れ落ちた。きっと陽子は不審に思うだろう。怒るかもしれない。もしかしたら大爆笑するかもしれない。
「勘弁してくれぇー…」
頭を抱え、ごろごろじたばたと床で暴れる音が聞こえたのか、「何かあったのか文張ー」と鳴賢が尋ねてくるまで、楽俊は我に返ることが出来なかったりした。
まだはっきりと実にはなっていないが、少しずつ蕾が綻びかけた、そんな思いのお話。



ちなみに、やはり夜の窓を叩いて鶯が帰ってきた時、大喜びですぐさまその声を聞いた慶の王様は。
しっかり残っていた楽俊の言葉に、彼の予想と裏腹に顔を真っ赤にして黙り込んでしまい、たまたま一緒にいた友人達にかなりからかわれ、自分の麒麟には悋気混じりの嫌味を言われたりするのだが。
それはまた別のお話。