時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

Courageous messenger.

「それじゃ、行くぞ」
「ああ、いつでも来い」
目の前で歯を食い縛り、真剣な表情でこちらを見てくる親友に。
――――がっつっ!!
心の中だけで謝りながら、拳を叩き込んだ。





全速力でホテルを駆け抜け外に出ると、頬に当たる風の冷たさが心地良い。
どの辺まで演技を続ければいいかと考えながらふらふらと歩いていると、突然目の前を人影に遮られた。前に二人、後ろに二人。
―――こいつらがMMか。
勿論顔にはおくびにも出さず、相原は出来る限り表情を無くして彼らを見遣った。
「―――、――!」
何やら訛りの強いドイツ語で言われ聞き取り辛かったが、やはり脳が暴走したと思われる自分を回収に来たらしい。両腕を掴まれて、移動を促される。勿論抵抗などしなかった。
―――まず第一段階は成功か。
安堵の溜息を喉で押し殺した。
中世の亡霊に取り憑かれたMMという組織に対抗する為に、敢えて身中に入る。提案したのは安永だったが、実際には相原がやることになった。
菊池も安永も、本当に脳の暴走が起こる危険性がある。仲間達の中では一番その危険性が少ない自分が行くのは当然の事だ。
しかし、それ以上に他の仲間を―――何よりも菊池を、危険な賭けに乗せるわけにはいかなかった。
いつもなら彼のアイディアと提案は実行するに相応しいものであったけれど、今回は分が悪すぎる。自分達の行動ですら信用できないというのはかなりのストレスだ。遅々として進まない状況に、皆多かれ少なかれ痺れを切らしていた。そろそろ反撃に転じなければならなかった。
ふと、じんと右手が疼いた。手袋をしていない手が冷えるだけでなく、痺れて痛い。
―――手加減無くやっちまったからなぁ。
芝居といえど手を抜けば違和感に気づかれるかもしれない。それは理解しているからこそ拳を思い切り振るった。
…そう思っても、生まれて初めて彼を殴ってしまった手が、酷く重く感じるのは変わらないけれど。




どこへ連れていかれるのかと思ったが、意外と近くの民家に足を止めることになった。出迎えた太り気味のおばさんも、ただの善良そうな人にしか見えない。ここは中継地点で、ここからまたどこかへ行くのだろうと何となく相原は予想した。
不思議なくらい乱暴はされず―――脳が暴走状態にあれば刺激するのは危険と考えているのかもしれない―――部屋の一室に通された。ソファに座らされ、男達は少し離れた所で何やら会話をしている。
―――ヘクスター…。…冬の旅の、ライエルマン?
漏れ聞こえる会話に良く出てきた単語を拾い上げる。ヘクスターにはオットーの図書館がある。恐らく、あそこにあるとされる解呪の呪文を見つける為だろう。「冬の旅」はシューベルトの曲。ライエルマンはその曲の一節だ。意味が解らないが、口ぶりからしてかなり重要な代物らしい。ポケットに忍ばせていたメモ紙とペンで、その単語を書き込む。勿論日本語で。万一この男達に見つかっても恐らく意味は解るまい。掌の中でくしゃくしゃに丸めて、さりげなくソファの上に置いた。
男達が不意にこちらを向いた。メモがばれたかと一瞬緊張するが、どうやら再び移動するらしい。立たされる時、無意識のうちに再び拳を握った。
服の中の発信機は見つかっていない。必ず、皆が―――菊池が来てくれる。
そう考えるだけで、逸る心がすぐに落ち着いた。




車からボートに乗り換え、ヘクスターまでやってきた。
流石にもうメッセージを残すのは難しい。谷本の発信機の性能を信じるしかない。
オットーの図書館に連れ込まれ、さてどうするかと相原は逡巡する。
旅の途中に男達が喋っていた彼らの信条や行動を思い返し、こんな奴らに負けるわけにはいかないと決意を新たにする。
幸いな事に体の拘束はされていない。しかし周りにはそれなりに屈強な男が4人。切り結んで勝てるとは思えない。
―――もう一度芝居を打つか。
向こうは相原の脳が既に暴走していると思い込んでいる。それならば多少異様な行動を取れば切り抜けられるかもしれない。
何かきっかけとチャンスがあれば―――…そう考えていた時、相原が座っている椅子の隣に備え付けてあった電話がベルを鳴り響かせた。
男達の間に緊張が走り、一人がゆっくりと受話器を取る。静かな家の中、耳を澄ませば相原にも電話の向こうの声が聞こえた。
『グーテンモルゲン』
発音の危なっかしいドイツ語の挨拶が聞こえ、相原は思わず浮かびそうになった笑みを必死に噛み殺した。聞き違える筈がない、間違いない、この声は。
―――菊池…!
体の奥から勇気が沸いてくる。仲間達の中心、いたずらの天才。彼が傍にいる限り、自分が負ける筈が無い!
『だるまさんがころんだ、だるまさんがころんだ、だるまさんがころんだ』
続いて聞こえてきた声に、流石に堪えきれずに噴出した。蹲って隠すが、肩が揺れるのを抑えきれない。
「――――!? ―――!!」
男達が上擦った声をあげて自分の肩を揺さぶる。どうやら彼らは受話器から吹き込まれた日本語を、何某かの呪文だと思っているらしい。
それならば、いくらでもやりようがある。
相原は張り切って、「だるまさんがころんだ!」と叫んで飛び上がった。男達はすっかり慄いて、パニックに陥っているようだ。呪文を信じ、武器とする奴らだからこそ意味の解らない言葉を深読みして怯える。
躊躇わずに走り出し、ドアから冷え込んだ外に飛び出した。しつこく「呪文」を叫んでいると、木立の茂みから頭を出した誰かが手を振っている。
―――ああ、菊池だ!
雪を思い切り蹴飛ばし、相原は彼に向かって全速力で走った。見る見るうちに彼が近くなる。待ちきれずに腕を伸ばすと、その手はしっかりと掴まれた。
勢いが殺せず、そのまま菊池の体にぶつかる。一瞬だけ抱きしめて、すぐに離れた。
―――戻って、これた。
この世で一番自分が安心できる場所に戻ってくる事が出来た。
きっと今の自分の歓喜がどれほど強いものか、目の前で安心したように笑う彼には解らない。それで構わない、解らなくていい。
「やつら、どうだ?」
「だるまさんがころんだ、ですっかりパニックだ。すげぇ呪文だと思ってる」
顔を見合わせて、堪えきれずに笑った。
―――こうやって、一緒に笑えるのなら、それだけでいい。


×××


瑤子とヘルマンの対決が終わり、皆で陽気にドイツの町を歩く。これからホテルに帰り祝杯の一つも挙げようとする中、列の一番後ろを相原と菊池は歩いていた。
「よく見つけてくれたな」
「谷本の発信機と、メモを見つけた天野のおかげさ。俺は何にもしてねぇよ」
謙遜ではなく、菊池は本気で思っていた。首を振る彼に対し、相原はにやりと口の端を上げる。
「何言ってんだ、呪文で助けてくれたじゃないか」
「「だるまさんがころんだ」」
また、顔を突き合わせて噴出した。
「どうやってあの作戦を思いついたんだ?」
「まず、間違いなく相原は俺達が追ってきてるのに気づいてる筈だから」
「うん」
それは当然のことと頷く相原に、菊池は照れ臭そうに笑った。
「で、中尾に『これから、相原だったらどう行動するかを考えろ』って言われて、お前なら狂ったふりをすると思ったから一芝居うったんだ」
自信はあったんだぞ、と笑って胸を張る菊池を見て、相原が一瞬眩しそうに目を眇めた。
「そう、か」
ぽつりと呟いた相原は、本当に嬉しそうに笑い―――右手の指の甲で、ごく自然に、菊池の頬を撫でた。もうとっくの昔に腫れは引いている、芝居によって彼が殴った頬を。
菊池がぽかん、とした隙に、相原は足を速めて皆の中に紛れていった。
その仕草が不思議であったけれど、その後直ぐに柿沼にひとみの話を振られたので、その違和感を頭の隅に追いやってしまったのだった。