時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

スイート・コハビテーション(未遂)

 帰宅としては割と遅めな時間で、そんなに混んでもいない電車に揺られながら、絵里は小さく溜息を吐いた。
 高校を卒業して、目標の大学に危なげなく合格してからもう三か月ほど経つ。大学生活は中々に忙しく、同時に魅力的だったが、絵里の顔には僅かに憂いが浮かんでいた。十人に聞けば十人が美少女だと答えるだけの美貌を持っている彼女にとっては、そんな感情すら魅力を引き立てるスパイスにしかならないが。
 大学での勉強やゼミ、アルバイト等による目まぐるしい日々に対する疲れも無論あるが、彼女の憂いはそれが直接の原因ではない。速足で家路を辿り、女性用にそれなりの防犯設備が整っているマンションに入り、一息。5階へ登り、一瞬迷ってから、時間を鑑みてチャイムを鳴らすのは止める。ドアノブに鍵を挿し、そろりと隙間から中に――
「おかえり〜、えりち」
「っ、希!」
 入った瞬間、笑顔と柔らかい声で出迎えられた。既に家でくつろいでいたのだろう、部屋着に着替えていた高校時代からの親友が、にこにこと笑って両手を差し伸べてくる。一瞬困った顔をして、自分の鞄をそっと渡した。
「今日もお疲れ様」
「希……遅くなるから、先に寝てていいって言ったのに」
 困ったような、怒ったような、嬉しいような。何とも複雑な感情たちを噛み締めつつどうにか言葉を絞り出すと、絵里の鞄を抱えたまま、希はんん? と首を傾げて。
「だって、うちまだご飯食べて無いし、お風呂も入ってへんから寝られないわぁ」
「え!? なんで――」
「何となく食べるの忘れてたんよ〜。今丁度支度してたから、一緒に食べよ」
「……」
 にこにこ笑って告げられる事実が、何ともわざとらしい。そう解っているのに、咎めることが出来ない。
 進学に当たって、夢を追いかけ続けた仲間達とも離れ離れになった。それは目の前の彼女も例外ではない。彼女も危なげなく目当ての大学に進学したが、それが決まった時点でルームシェアを提示してきたのも彼女だった。
 大学からは学費以外、親の手は借りたくないから出費は抑えたい。曲がりなりにも嘗てスクールアイドルだった身分、あまり治安の悪い、家賃の安いところには住めない。何より、大学が分かれてもえりちと一緒に居たい。
 次々とメリットを提示し、最後には頬をほんのり赤らめてそう言葉を結んだ希に対し、絵里は頷く以外の選択肢を見つけられなかった。主に、一番最後の理由によって。
 結果、互いの大学から丁度中間地点に当たるこの町で、二人暮らしを始めたのだが。
 前述の通り、絵里の大学は一年生からカリキュラムが中々厳しく、更にゼミでも既に頭角を現し出している。必然的に忙しさは増していき、ここ数日は帰るのがかなり遅くなっていた。
 対する希は新生活に慣れた後は、まだまだのんびりと過ごしており、家に帰るのは大抵希の方が先だ。すると彼女は当然のように家事を全てこなし、絵里が帰ってくるまで待っている。先刻のように、なんだかんだと理由をつけて。
 お互いに助け合うのが共同生活の理由なのに、随分相手に負担をかけているのが、どうにも心苦しいのだが。
「えりちー?」
 靴も脱がずに俯いている絵里をどう思ったのか、ひょいとその顔を希が覗き込んでくる。近い距離に絵里がはっと我に返ると、彼女はふにゃんと眉尻を下げ、僅かに瞳を潤ませて。
「うちのご飯、食べたくないの……?」
「そ、んなわけないでしょう!」
「んふふ、良かった〜」
 あっさりと満足げに微笑まれて、やられたと思ったが時既に遅し。彼女の好意は柔らかくて容赦がなくて、いつも絵里は絡め取られて反撃出来なくなる。
「じゃあ先にお風呂入ってな〜。準備できてるから」
「うん……」
 このままでは駄目だと思っていても、心地良さがこの上なくて、身動きを取りたくなくなってしまうのだ。


×××


「……で? こんな暑い日に呼び出した理由は、うちの嫁がこんなに健気すぎて生きるのが辛いっていうノロケなのかしら?」
「嫁!? のろっ……!」
 目の前に座る、同い年とはとても思えないほど幼い容姿をした友人は、その愛らしい顔立ちを心底不機嫌そうに歪め、まるで咥え煙草のようにジュースのストローをぴこぴこと動かしながらそう言った。色々と反論したいことはあったが、とにかく単語に動揺して頬を赤らめる絵里に対し、目の前の少女――矢沢にこは呆れたように溜息を吐いた。
「いいじゃないの、どうせアンタ高校時代みたいに、自分のキャパ限界までスケジュール入れてるんでしょ? 取りこぼしちゃいそうなところは、希のフォローが入るの前提で」
「そんなこと……」
 無い、とは言い切れないのが事実で、絵里は俯いてしまう。高校時代、常に自分の全力を出すことを己に課してきた彼女は、その上で完璧に捌き切れない部分を全て希に任せてしまっていた。しかも自分から頼むのではなく、無意識に。勿論、希自身がそれを承知の上で、更に望んでそうしていたことが事実であるのだが。
 その位置が居心地良すぎて、離れられなくなってしまった――そういう気持ちは、ただの傲慢だ。彼女がどれだけ自分に対し、骨身を惜しんでくれたか、高校を卒業し彼女と離れ、同時にプライベートでは距離が近くなることで、漸く気づいたのだ。
 生来の生真面目さから、きゅっと口を結んで俯いてしまった絵里に対し、にこは呆れたように天井を仰ぐ。
「もう! あの子が好きでやってるってことは充分過ぎるほど解ってるんでしょ! なら気にせず甘えれば良いじゃない、あの子もそれを欲しがってるんでしょうから」
「気持ちは、嬉しいわ……でもこんなの、不公平よ」
 にこの言葉ももっともだ。何度も、自分の負担が軽すぎる、何か出来ることはないのかと聞いたけれど。希はいつものように笑って、誤魔化すようにからかって、最後には泣き落としまで使って、絵里のまっすぐな追求からはいつも身をかわしてしまう。うちが好きでやってるんやから、気持ちだけで十分やで、とお決まりのように告げて。
「充分なわけ、無いじゃない。こんなに一杯、私、貰ってばかりなのに」
 膝の上で両手を握り締め、まるで祈るように。
「知恵を貸して欲しいの。私一人だと、また甘えてしまうから」
「……ふん。今日もレッスンで忙しい、天下のにこにーを捕まえて言うぐらいなんでしょうから、切羽詰まってるのは解ったわ」
 と、唯一進学せずに己の夢をさらに高める為、アイドル養成所に通っているにこは薄い胸を張って、ずばり告げる。
「簡単よ。あんたが希に対して、どうしても反論できなくなっちゃう時の言葉と仕草で返せばいいのよ」
「……。……!?」
 言われた言葉の意味を吟味して。ぶわ、と一気に頬が熱くなる。
 笑顔も、誤魔化すようなからかいも、何とか躱して伝えようと頑張ると、最終手段として彼女は――
『うちのご飯、食べたくないの……?』
 うる、と僅かに目を潤ませて、小首を傾げてそんな風に言ってくる。アイドル時代に培った殿下の宝刀を抜き放たれると、もう絵里には何も言えない。元々長女である故に、甘えられる仕草や言動には反射的に大丈夫だと答えてやりたくなってしまうのだ。
「無理! 無理よそんなの!」
「へえー、随分と慌てるわねぇ。何、おめめうるうるに小首傾げられて『駄目なん?』とでも言われた? ――図星のようね」
 どうして解るのよ、と反論すら出来ずに絵里はずぶずぶと机に突っ伏した。普段色々な部分で勝てない絵里に対し、明確に白星を挙げられたのが上機嫌らしく、にこは笑顔でジュースを飲み干すと一息吐いて言う。
「いい? 媚と甘えは違うのよ。前者は相手に対する見返りを求めてすることで、後者は己の素直な気持ちを吐き出すだけ。どちらが良いとか悪いとかじゃないわ、適材適所に使えばいいのよ。今回は、後者ね」
 きびきびといつになく真面目に告げるにこに、恐る恐る絵里が頭を上げると、ずいと顔を近づけられた。藪睨みのまま、にこは更に告げる。
「あの子は、見返りを求めないことに対して慣れすぎちゃってるのよ。だから、あんたから貰えるものなんて勿体ない、おこがましいと思って――最終的には、見返りっていう概念すら無くなってるかもね」
「そんな、」
「聞きなさい。そうなっちゃったのは確かにあんたのせいもあるけど、あの子自身が望んだ形でもあるの。私にいわせりゃどっちもバカよ。それを変えたいなら、気合入れて、時間かけなさい。あんたのすることはそれだけの価値があるんだってこと――ちゃんと思い出させてあげなさいよ」
 不機嫌そうな顔のまま一気に言い捨て、僅かに上気した頬を手で仰いでいる、我儘でいつも空回りしているように見える彼女が、その実、自分達のことをちゃんと理解してくれていることに絵里は驚いていた。意外だ、と告げてしまうのは失礼過ぎるので、この店に来てから漸く微笑んで。
「――ありがとう、にこ。勉強になったわ」
「ふふん、感銘して崇め奉りなさい。……折角同棲してるんだからもうちょっと甘い生活を満喫しなさいよ全く」
「同棲って、何! 同居よ同居」
「あーはいはい」


×××


 そしてその日、絵里は思い切って午後の授業を休むことにした。幸い昔より人当たりが良くなったおかげか、代返を心得てくれる友人は居る。真面目な彼女にとってはそれだけで、かなりの大冒険ではあったけれど。
 希は今日、夕方まで授業の筈だ。互いのスケジュールは居間に貼ったカレンダーで管理している。自分の方があまりそれに従った動きが出来ていないのが辛いところだが――そこも改善していかなければならない。
「本当に、甘え過ぎなのね私」
 シチューの材料を綺麗に切り揃えながら、溜息を吐く。彼女が笑ってくれるから、それでいいのだと思い込んできた。進学が決まり、彼女にルームシェアを打診された時、やっと気が付いた。
 初めて会った時、話しかけられて。冷たくしてしまった融通の利かない自分に、怯まず傍にいてくれて。
 二人の関係が、彼女の努力によって成り立っており、自分はそれに乗っかっていただけなのだと。不安そうに俯いて、それでも望みを告げてくれた彼女の姿を見て、漸く気づくことが出来た。
 だから何か、今までの分とこれからの分、返しきれない恩をどうすればよいのかとぐるぐる悩んで、にこに相談してしまった。また自分が焦っていることを見抜かれて、諭されてしまったけれど。
「少しずつで、良いのよね」
 料理の味見を終えて、一息。だってこれから、自分達の道がどうなるかは解らないけれど。
「これからもずっと、一緒に居るんだから」
 そうしたいという望みだけは、きっと彼女も同じだと思うから。
 食器の配膳が終わったところで、鍵を回す音がした。チャイムは鳴らない。自分の方が先に返ってくるのが当然だと思っているからだ。そんなことすらどうにもいじらしく見えて、絵里は逸る心を抑えて玄関へ向かう。丁度、玄関に入って靴を脱ぎ終えたところだった。
「……えっ? え、えりち? なんで? 今日も遅いんじゃ……」
「えっと、急に休みになったの。だから――」
「ごめん! すぐご飯作るね! えっもしかして準備してくれたん!?」
「希、聞いて」
 おろおろと慌てたように、キッチンへ向かおうとする希の行く手を遮る。戸惑ったように足を止める彼女の顔は、随分と不安そうで。
 ……私が、そうさせてるのよね。
「どうして謝るの? 別に当番を決めずに、早く帰った方が作るって約束でしょ?」
「そ、そうやけど!」
 最初にこの条件を希から提示された時は、何も気にせず了承してしまったけれど。確実に彼女の方が自分よりも早く帰る確率が圧倒的に高いからこその提案だったのだろう。そうでなければ、彼女は言いださなかった筈だ。
「本当、貴女。私を甘やかし過ぎだわ」
「えと、あの……」
 困ったように俯いてしまう彼女を見て、チャンスだと思う。ここはラブライブのステージだと思おう。舞台上に立っているのだと思えば、いくらでもアピールが出来る。
 そうっと、希の顔を覗き込み。精一杯の、自分が可愛いと思う声と顔を作って。
「……私のご飯、食べたくない? 希」
 恥ずかしい。顔から火が出るほど恥ずかしい。時間にして三秒、彼女の目を覗き込んで、それが限界だった。ぱっと顔を伏せ、食事の支度をして誤魔化そうと踵を返しかけた瞬間、
 つん、と袖口を小さく引かれた。
「……」
「……」
「……の、希?」
「……る」
「え?」
 俯いたまま、絵里の袖を指先で摘まんでいる希の、髪から覗く耳は真っ赤だった。顔を覗こうとするとますます体を縮めてしまうので叶わなかったが、限界まで小さく呟いた声は、
「……たべ、る……」
 普段の飾った仕草も言葉も全部取っ払われた、どうしようもなく恥ずかしそうな、それでも嬉しさが溢れた言葉だった。
「……うん。ありがとう、希」
「な、なんでえりちがお礼言うの? うちが言わなきゃあかんやん」
「色々、沢山のことに関してよ。これから、覚悟しておいてね」
「えっ、えっ」
 元々逃がすつもりは無かったが、どうにも絵里の方が耐えられなくなり、袖から離れそうになった希の手をすぐさま取って、温かい食事が溢れた室内へとエスコートすることにした。