時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

其れはまだ幸せなとき

午後の日差しが降り注ぐ軽子坂高校の屋上で、長い黒髪の青年が煙草をふかしている。
制服で大胆な行為を、と感心するべきか、それとも怒るべきか。
どちらにしろ、どんな批評も叱責も彼には通用しないだろう。
何か、世の中全てを拒絶しているような強い光が、彼の目にはあった。
煙を一息吸い、吐き出す。
この一瞬の酩酊感が、青年は好きだった。
階段を上ってきた屋上の扉の上にある、貯水槽の影。
ここは青年のお気に入りの所だった。
たまに屋上まで来る奴がいても、ここまでは気づかない。
しかし、今日は違った。目を細めていた青年が、ふと眦をきつくする。
タン、タン、タン、とリズミカルな足音が聞こえる。
女生徒だろう。男子だったら、随分軽い男だ。
ガコン、と思い鉄のドアを開ける音がした。
この位置からでは、誰が入ってきたのか目で捉えることは出来ない。
やがて、ギシッとここへ上る梯子が軋む音がした。
間違いない。ここに来る。
ギシ、キュッ、キシッ、タン。
「―――――んっ…」
小さく、伸びをしたような声がした。女子だ。
溜息と共に煙を吐き出す。
やれやれ、入学以来お気に入りの場所だったのに、変えなければいけないかもしれない。
…いや、女子ならちょっと睨んで脅かせばもう来ないだろう。
噂が広がって誰も来なくなればしめたものだ。
と、中々物騒な考えに思考を持っていった青年は、足音がこちらに近づいて来るのを悟った。
タ、タ、タ……
貯水槽の影から、小さな人影が頭を覗かせる。
「えっ? ―――うわぁ!」
小柄な女子だった。背丈など青年の胸の辺りまでしかない。
綺麗な栗色の髪を短く切り揃えている、中々の美少女だ。
彼女による最初の「えっ?」は誰も居ないと思っていたところに人影を見つけた疑問、次の「うわぁ!」は純粋な驚き。
そして、その驚きを肉体でも顕著な反応で示した。吃驚して、ぴょんと飛び退って……一段高くなった屋上から、落ちかけた。
「なッ……!」
これには、青年も慌てた。驚かす前から驚かれてしまったのもなんだが、ここから落ちたら……死ぬとは言わないだろうが、怪我は免れない。
「わあぁっ!」
「―――ちっ!」
考える暇はなかった。
素早く立ちあがり、ぐらりとバランスを崩した彼女の手を取り、思いきり自分のほうへ引き寄せた。
どさぁっ!
「……び、びっくりした……」
「…そりゃこっちのセリフだ……」
青年の力が強すぎたのか、コンクリートの床の上に二人、折り重なるような形で倒れた。
青年の胸の上で、少女が安堵の溜息をつく。ぱっと身体を起こし、にっこり笑った。
「へへ、ありがとう。助けてくれて」
「……別に助けたわけじゃねぇよ」
ばつが悪そうに青年が言い返す。そんな風に、はっきり礼を言われると居心地が悪い。
彼も身体を起こし、定位置に腰掛けた。
「でも、びっくりしたなぁ。こんなところに人がいるんだもん」
すると少女が、その隣にぺたんと腰を下ろした。
青年は動揺した。彼は今まで、人と付き合うのを避けてきた。
周りにいる連中が、どうしても馬鹿に見えてしょうがなかった。
世の中全てにいらついて、喧嘩を繰り返しているうちに人は寄り付かなくなった。
高校に入学しても、そんなのは変わらないと思っていた。
それなのに。
「…お前……」
俺のことを知らないのか、と言おうとして、躊躇った。
名前を出せば、きっと彼女も気づくだろう。それほどまでに、中学の彼は荒れていた。
そう考えると、何故か次の言葉が喉に引っかかって出なくなった。
「あ、別に君に驚いたんじゃないんだよ。もう放課後でしょ? 誰も居なくなるから、学校の中探検してたの」
彼の止まった言葉をどう捉えたのか、少女が再び話し出す。
「…探検?」
「うん。まだ入学したばっかりだからさ、地理よくわかんなくって。でも面白いんだよ! 校長室の鍵開いてたからこっそり入ったら、机の上の壁に『食欲』って書いた紙が貼ってあったの!  笑ってたら用務員のおじさんが来たから逃げちゃったけど」
「………………」
自分一人でぽんぽんと話していくので、青年は口が挟めない。
手持ち無沙汰で、無意識の内に煙草の箱に手を伸ばし、取り出して火をつける。
「あ―――!」
それを横目で捕らえた少女が振り返って叫ぶ。咎められようと恐れられようと構わないつもりだったのだが……彼女はあろうことか、目を輝かせて言った。
「君、煙草吸えるんだ…ねぇっ、煙のわっか作れるっ?」
「………はぁ? …ぐっ、ゲホゲホゲホッ!」
一息吸った瞬間、そんな突拍子もないことを言われて噎せた。
「わぁあ、だいじょうぶっ?」
「ゲホ! ……っお前なァ……」
うっすらと涙まで浮かべて青年が非難の目を向ける。
「いきなり何言うかと思えば……煙のわっかだぁ…?」
「うん……できる?」
「出来ねぇよ!」
「そっかぁ…」
しょぼん、という形容詞がぴたりとはまる顔をされて、青年の胸が少しだけ疼いた。
(…って何で俺が罪悪感感じなきゃいけねぇんだよ)
「…そんなに落ち込むことかよ、それが」
でも、思わず声をかけてしまう。
「うーん……ほら、マンガとかでよくやってるよね。でも実際作ってる人って見た事ないの。どうしても一回見てみたくって、自分でやろうとしたんだけど……」
「自分で煙草吸って、か?」
「うん。お父さんのこっそり持ち出して。小学生の頃だったんだけど…煙吐く前に、吸って思いっきりむせちゃって…出来なかったの」
頭にぺたんと垂れた耳が似合いそうな顔で、少女が呟く。その内容に、青年の頬が緩んだ。
「っ……くく…」
「だ、だってすっごく苦しかったんだもん!」
「…くくくくっ……!」
笑いは止まらず、少女は頬を膨らませて横を向く。
笑いながら、青年は自分がこんなに笑ったのが久し振りだと気がついた。
今だ細く煙を棚引かせているものに、ちょっと少女が目をやる。
「…それって、そんなにおいしいの?」
「……別に美味かねぇよ。他の理由で吸ってんのさ、俺も他の連中も」
「他の理由って?」
「子供にゃ解んねぇよ」
「む。じゃあ君、何歳?」
「15」
「同じ学年だよ。誕生日は?」
「……6月」
「ぐ。……あたし、3月」
また、青年が吹き出す。
「語るに落ちたな、きっと学年一年下だぜ、お前」
「う〜」
こんなに他人と喋ったのは久し振りかもしれない。何か…そうさせてしまうような引力が、彼女に……
「ふぇ…へっくしゅん!」
日の暮れかけた空に向かってくしゃみを一発。
「………」
(コイツがガキ過ぎるからだ…多分)
そうかもしれない。
「ふー、春って言っても日が暮れると寒いね。もう帰ろ。…君はどうする?」
「…いや、もうしばらく居る」
「そっか。風邪ひかないようにね」
「お前の方だろ」
「だいじょーぶ! あたし丈夫だから」
そう言って、ぴょん、と空に向かって飛び出す。あまりにも突発的だったので、手が出せない。
「おい…!」
身を乗り出した青年の目に映ったのは、下の床に着地する少女。彼女が振り向いて、にこっと笑う。
「あたし、1−Dの橘みかる! 橘は木の名前そのまんま、みかるはひらがな! …君は?」
尋ねてくる。最初見たのと変わらない、笑顔で。
「……宮本明。E組だ」
すんなりと口をついて出た。
「わぁ、となりだったんだ! じゃ、また会えるね、アキラくん」
『また会える』
その単語に心が浮き上がってしまったのは何故だろう?
「じゃあ、ね」
身を翻そうとする少女に、声をかけた。無意識の内に。
「……橘!」
「ん? 何?」
振り返って、もう一度自分を見た瞳。
不意に解った、彼女は目を逸らさない。
自分と話す時、誰もが目を逸らす。恐怖と嫌悪からだ。
彼女は、違う。
「……練習しといてやる」
「えっ?」
「………煙草の、わっか。出来るようになったら見せてやる」
その言葉に、彼女の顔に花が咲いた。まさしくそう形容するのが相応しい、笑顔で。
「…うんっ!」
もう一度、「じゃあね」と言って彼女―――橘みかるは帰っていった。
一人残されて、もう一度煙草を吸う青年―――宮本明。
「桂葉さんにでも聞いてみるか…」
どうやって煙の輪を作るのかとバイト先の先輩の名を思い出し、煙を溜息と共に吐き出した。
しかしそれはなぜか心地良い溜息だった。