時計+人形

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Schlange Wunde


この世界に
炎が落ち
この世界が
水で覆われ
やっと
全てが終わった




カテドラル。
嘗て、大天使と魔王が共に君臨して統治したはずのその地は最早廃墟となり、生き残った人間や悪魔の住処となっていた。
そう、数は僅かでも、生き残っていた。ヒトも、悪魔も。
どれだけ唯一神が躍起になっても、どれだけ愚を繰り返そうと、ヒトは生きる。ただ、それだけのこと。
果てしなく続く海原を崩れかけたテラスの上に立ち所在なげに見続けていた光は、そんなことを考えていた。潮混じりの風が僅かに癖のついた髪を遊ばせている。
横を見ると、感情の篭らない左右色の違った瞳が、ゆっくりと優しげに眇められる。その先の無骨な岩の褥に横たわっているのは、マリア。彼が見つけた自分の半身。
最初に出会ったのは、まだこの地が東京と呼ばれていた頃のこと。
その時は、ただ反発した。理想を掲げ続ける彼女が、欺瞞にしか見えなかった。
それでも。
共に死地を駈けぬけて、命を引き換えに助けられて。生まれ変わりまた出会って。
彼女が、自分にとって唯一の半身であることに気がついた時。たまらなく、嬉しかったのを覚えている。
光は、子供の頃から自分の感情というものが理解できなかった。「こういう時は嬉しいのだろう」「こういう時は悲しいのだろう」という知識は解るのだが、「嬉しい」「悲しい」というソノモノが解らない。多分これか? と思うモノはあるのだが、確信が持てなかった。母親が生きている間はそれでも、うっすらと理解していたような気もするが(楽しいわね、嬉しいわねと「教えて」くれたから)、彼女がいなくなってからは本当に解らなくなった。
マリアは、それを自分に与えてくれるヒトだった。
「嬉しい」時、彼女は笑う。桜貝のような唇をにっこりと引き上げて。
「悲しい」時、彼女は泣く。大きな瞳から、真珠のような涙をほろほろ零して。
「嬉しそうな」彼女の顔を見ると、光は「嬉しい」気持ちになる。
「悲しそうな」彼女の顔を見ると、光は「悲しい」気持ちになる。
自分に、「感情」を与えてくれるヒト。
自分を、「人間」にしてくれるヒト。
とてもとても大切で、なくてはならない存在。
彼女の長い髪をかきあげ、自分よりも華奢な身体をそっと抱き上げると其処に腰掛けた。
ふと空を見上げると抜けるように青く、どこに巣を作ったのか小さな鳥が空を舞ってゆく。
柔らかい安らぎが幸せで、光も黙って目を閉じた。





どれぐらい時が経ったのか。
ふと、光が目を開けた。ほぼ同時に、マリアも。
マリアは光よりも「変化」を顕著に感じたらしく、身体を起き上がらせると光の首筋にしがみつく。安心させるようにその身体を抱き締めると、先刻自分が立っていたテラスのほうを見遣った。
一瞬、空間が歪む。
ばさばさっ、という大きな羽音が、空気を揺らす。
気がつくと、金髪を風に靡かせた、この廃墟にはあまりにも不似合いなスーツを着こなした男性が、唇の端を少し上げる独特の笑い顔で立っていた。
「…ルイ・サイファー」
光が彼の名前を呼ぶと、面白そうにかの男はまた笑った。
「何の用だ?」
「ご挨拶だな。君に是非見て欲しいモノがいてね、連れて来た」
瞳に剣呑な光りを宿したまま光がルイを睨むと、やれやれと言う風に肩を竦めてこうのたまった。
「何を、見せに来たの?」
どこか舌っ足らずな喋り方で、男の腕の中からマリアが問う。その仕草をまた面白げに見遣って、ルイはばさり、と見えぬ翼を翻らせた。
「………ッ!!? ……あ…」
その場に現れた存在に、光は非常に動揺した。
裸の少女が、そこにいた。
身体を隠すための物は、布きれ一枚。それを隠すかのように、極太の蛇が細い身体に巻き付いている。感情の篭らない、ずっと虚空を見続けているその瞳は、まるで海のように深く青かった。
「どう、して」
ひくっ、と光の喉が引き攣る。
信じられなかった。
信じたくなかった。
目の前にいるのが、どうしても―――
「そんな顔をするな、救世主。お前の子供だぞ?」
「何を、言ってっ」
「お前の精を受け、お前を思う一念で、あの娘が産み落とした。触れてやれ」
そう、その娘は。確かに、幼い子供だったけれど。
存在のカタチが、あまりにも百合の淫蛇と似通っていたので、光は叫び出したい自分の口を必死に押えた。
愛したかった。
愛していた。
それでも。
道を違えた自分たちは、殺しあうことしか出来なくて。
耐えられなくなったのは、自分の方。
自分の手で、止めをさした。




「あっ……………」
気がついたら、涙が出ていた。
「ヒカル…」
マリアが、安心させるように名前を呼び、髪をすっと撫でると彼の腕から抜け出た。のろのろと光が立ちあがる。
一歩、二歩と彼女に近づく。
「やはり、不完全だったがな。お前を想う余り、お前に近くなってしまったのではないか? 彼女は何も言わず、何も動かず、何も感じず、何も望まない―――」
どこか揶揄するような、ルイの口調が止まる。
どうしても身体に力が入らず、途中から膝でいざるように彼女の前にひざまづいた光は。
震える指先を、白い頬に寄せ。
すると彼女は。
ゆるゆると。
花が開くように、笑ったのだ。
「……っ……俺が…全て終えたら…寿命が尽きたら―――、全部、全部アナタに奉げる―――、力も、体も魂もッ……全部、アナタの供物になる…。だから―――、だから頼む、待っていて、くれ…」
細すぎる身体を抱き締めて。救世主の嗚咽は続く。
ただ、愛しい人への詫びと、誓を。零れ落ち続ける涙にこめて。


「この、出来損ないのキモチが―――間違いでないと証明できたら―――何もかもかなぐり捨てて、アナタのモノになるから―――!!!」


「…やはりお前に見せたのは成功だったようだ。いつか彼女も蘇ろう、この身体を使ってな。それまでお前が生きているかどうかは、甚だ疑問だが―――」
言いながら、また無表情になってしまった蛇の娘をひょいと抱き上げる。
「せいぜい、父親らしいことをしてやれ、救世主」
笑いを堪えるようにそれだけ言い、ふっとルイは消えた。かの少女を抱えたまま。
呆然として座り込んでいた光の身体を、後ろからそっとマリアが抱き締める。
「良く言えたね。偉い。偉い」
よしよしと頭を撫でられて、光はもう一度涙を零した。







やがて、人にとっては数十年、悪魔にとってはほんの一瞬の時は過ぎ去り。
ヴァルハラというメシア教徒が治めるシェルターに住んでいた一組の老夫婦の妻の方が、老衰で天に召された日。
彼女の伴侶であった夫は、その次の日に無残な死体となって見つかった。
四肢をずたずたに切り裂かれ、内臓は食い荒らされ、首はどうしても発見できなかった。夫の方は、かつてこの街のコロセウムで優勝したこともあるほどの手練で、いくら年を取ったと言えど、彼をここまであっさりと殺せる悪魔がいるのかと、シェルターは一時騒然となった。
しかしそれ以上に人々が不審に思ったのは、恐らく悪魔に襲われたであろう時、彼が全く抵抗し無かったことを現場の状態が物語っていたことだった。
一体、何故なのか。
勿論、その理由を知っている者はこの世で最早ただ一人(彼を一人として数えるのは甚だ疑問だが)だったのだが。






太陽の光が降りてこない魔界の片隅で、少女が一人で遊んでいる。
少女から娘に変わっていく時のような、アンバランスなのに整った肢体に、まるで彼女を守るように巨大な蛇がぐるぐると
巻き付いている。少女は、本当に嬉しそうに、血に塗れた男の生首を抱き締めて笑った。






「これだけ時間が経って、漸く解った。アナタを愛しいと思う気持ちが。彼女がいなくなっても、俺には解るようになった。だから、頼む。連れていってくれ。首だけで、いいから」






彼の人のそんな最後の言葉の意味は、勿論この少女には解らなかったのだけど。