時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

永久に叶わぬ夢を見た。

「もっと話せよ。何かあるだろ」
「そうですねぇ」
いつの間にか分寮のラウンジには、荒垣と燐の二人だけになっていた。
普段、夜の僅かな時間を二人で過ごす時も、どこかへ食事に行くか、コロマルの散歩の途中でぽつぽつ話をするかぐらいだったのに、何故かその日の荒垣は、燐の話を聞きたがった。
春に転校してきてからの、学校や友人、部活、色々な事を話した。荒垣は黙って聞き、時たま相槌で促すだけだったけれど、その優しさが燐には心地良かった。
シャドウと戦う時の激しさと裏腹に、この人の魂は正しく、そのアルカナに相応しい月の如し静けさだと思う。最初は驚いたけれど、すぐに慣れた。寧ろ、魅せられた。
「…荒垣先輩、ちょっとヘンな話をしていいですか?」
「ん?」
「ちょっと有り得ない、ヘンな話です。私のお父さんと、お母さんのお話でもあるんですけど」
ほんの少しだけ、聞いてほしいという意志を込めて、じっと彼の眼を見詰める。若干卑怯な手だと解っているけど、話したいとも思ったのだ。生まれてから一度も、誰にも話したことの無い昔話を。荒垣は訝しげに一度だけ眼を瞬かせたが、この静かな空気を彼も崩したくはなかったのだろう、ああ、と吐息で応えて頷いた。
「ありがとうございます」
にっこり笑って、燐はソファから立ち上がり、足早に荒垣に駆け寄って、ぽすんと隣に座った。
「おい」
「いいじゃないですか、くっつかせて下さい」
「…お前なぁ…」
困った声、僅かな苛立ち、でも拒否は無い。そんな優しさに甘えて、燐は遠慮なくその肩に自分の体重をかけた。僅かに緊張した体が弛緩し切るのを待って、口を開く。
「―――私のお母さんには、親が決めた結婚相手がいました。それが、お父さんだったんです」
荒垣は黙って、横で小さく囁かれる昔話を聞く。仲間達を引っ張るリーダーである彼女が、こうやって二人きりになると子供のように懐いてくる様が、心地良いと思う。それは勿論、彼自身が許せない安らぎではあったのだけれど、振り解くことは非常に難しかった。
彼の葛藤に気付いているのかいないのか、燐は話し続ける。
「お母さんは本気で、お父さんのことを愛してたんだと思います。予想なのは、お母さんと私、直接話したことは無いからなんですけど。祖父に当たる人は、そっくりだって言ってくれるし、多分そうなんじゃないかと思います」
「…………」
「で、お父さんの方なんですけど。お父さんがお母さんのことを好きだったのかどうかは、はっきり言って解りません。お父さんがお父さんである為には、お母さんとは別の女の人が必要だったから」
「………?」
意味が解らなかったのだろう、荒垣が肩口の頭を見下ろす。今は聞いて、と言いたげに燐はその肩に頬を擦り寄せてから、なおも話す。
「結局お父さんはその女の人と一緒になって、お母さんはとっても悲しくて、お父さんを憎んで、それでもお父さんを嫌いにだけはならなかった。最期の最期に、お父さんに殺されても」
「――――っ…」
物騒な単語が出てきて、流石の荒垣も息を飲んだ。彼女に両親がいないというのは耳に入っていたが、そんな重い理由だったとは知らなかった。しかし燐の方はあくまで淡々と、寧ろ僅かに笑んで続ける。
「先輩は、馬鹿だと思います? お母さんの事。そこまで尽くして捨てられても嫌いにならないなんて。死んでも忘れられなくて、私を産み落としてしまうぐらいに」
「…あぁ?」
意味が分からず、荒垣はついに声を漏らした。比喩的な言い回しなのかもしれないけれど、先刻の言葉はどう聞いてもおかしかった。混乱する先輩の姿が面白いのか、燐はくすくすと体を縮めて笑った。
「だから言ったじゃないですか、ヘンな話だって」
「ん…あぁ」
つまりこれは、身の上話と見せかけた架空の話なのだろうか。しかしそれにしては、彼女の声音は随分と真剣だった。本気で―――その、哀れな「母親」を案じ、また慕っている声に聞こえた。それに合わせて何か伝えたいことがあるのだろうと、荒垣は彼女の顔をじっと見下ろし、次の言葉を聞き逃さないように集中する。
その真剣な顔が、燐には嬉しい。自分でも荒唐無稽な話をしていると解っているのに、茶化すことも馬鹿にすることも無く、ただ聞いてくれる。そんな風に真面目で優しいところが―――堪らなく、好きなのだ。
世界を律する男を愛してしまった母は、どんなに愛してもその伴侶になることは叶わなかった。ならばせめてとその男の手にかかり、その無念さと、絶望と、それに勝る愛を込めて、己の分身である赤子を産んだ。生まれた当初は、まだ形を成さない意識の欠片のようなものだったけれど。
それを戯れに拾い上げた母の父親に当たる存在は、戯れのままにその欠片に肉を付け、全く別の世界に落とした。名字は父のものをそのまま貰い、名前は母の名を少しだけ捩った。
そうして、藤沢燐は生まれた。別の世界の救世主と、原初の夢魔を親として。
勿論、そんな話の全てを語ろうとは思わない。これは全部、別の世界の話だ。正体不明の影と、己の側面を使って戦う自分たちには、何の関係も無い話だ。
それでも。
「ねぇ先輩、私、お母さんの気持ちが凄く良く解るんですよ。『シャドウと戦う正義の味方』には不似合いな考え方かもしれないんですけど」
順平が良く口に出すそんな台詞を、決して馬鹿にするわけではない。多かれ少なかれ仲間達も、そう思っているだろう。そう思わなければ、誰に気取られることもないこんな危険な活動を続けられるわけもない。自分だって、平凡で退屈だけれど平和な日常を、崩したいわけがない。
でも、もし、愛する人と世界が天秤にかけられることになったら。
「世界全て、愛する人自身を敵に回してしまったとしても、その人を愛することだけは貫こう、貫けるって、思っちゃうんです。その結末が、何であろうと」
ぴくりと、頬の下の肩が揺れた。ごめんなさい、と心の中だけで、この優しい先輩に詫びる。
母の血が濃すぎるせいか、燐は何となくその人の「魂の輝き」を嗅ぎ取ってしまう。例えば相手が何を求め、何を目指しているのか、譲れない心の指針が何であるか。それは仲間達をはじめ、大切な人達との絆を結ぶのに無くてはならない力ではあるが、同時に―――荒垣が、何を望み、何を思って嘗て己がいた場所に戻って来てしまったのか、それすらも何となくだけど、気付いてしまった。
いつかきっと、そう遠くない未来、彼の運命は終焉する。他の誰でも無い、彼自身の意志によって。
「俺の事は許さなくていい」。そう、残酷な彼は言った。
「他の全ては、許してやってくれ」。そう、優しい彼は言った。
本当にこの人は。優しくて、ずるい。
「先輩。私は先輩の行く道を、止めようなんて思いません」
「藤沢」
「その代り、先輩も、私の気持ちを否定しないで」
―――ああ、こいつはこれが言いたかったのか。荒垣も、漸く飲み込めた。
全てのけじめをつける為、此処に戻ってきた。昔は己を入れても3人だけだったこの場所は、いつの間にか後輩が増えていて、何故だか心地良くて。
何より―――不思議と目の離せない、この少女がいた。
未練を残すわけにはいかない。これ以上、他人に傷を残すわけにもいかない。
そうやって己を戒める度に、きつく締めたその隙間と罅割れに、彼女が滑りこんでくる。
何度も深く関わるなと、俺の行く道に干渉するなと、何度も言い放って離そうとしたけれど、それを見事に逆手に取られた。
ぎゅっ、と荒垣の膝の上で燐の拳が握られる。声を出すことは出来ず、しかし返事の代わりにその手を自分の掌で包んで、握った。そうせずには、いられなかった。
彼女は、荒垣が声で答えを返さないことは解っていて、それでもその掌が嬉しかったようで―――やはりくすくす笑って、もう一度体を擦り寄せてきた。
そのまま、言葉を発することなく、影時間が訪れるまで、二人で寄り添っていた。



猶予はたったの一ヶ月。月が欠けていって、また真円を描くまで。
不気味に緑色に輝く空の下、ひとつの命の灯が消えていく。
ひゅうひゅうと掠れる喉から、荒垣は何とか声を絞り出す。
周りで慌ただしく動く仲間達の声も、どんどん遠くなっていく。霞んでいく眼には、胸糞悪い満月と、もうひとつ。
それを背にして、泣いているであろう少女の影。
「……燐…」
「はい」
返事は何故かはっきりと聞こえた。彼女の声は震えてはいなかった。
「…泣くなよ」
それでも彼はそう言った。もう見えていない筈なのに、確かめるように影に向かって手を差し伸べて、微笑んで。
その手は、一回り大きさの違う白い両手でしっかりと包まれ、濡れた頬まで辿りついた。
「泣いてないですよ、先輩」
彼女は微笑んでいた。赤みがかった、兎のような両目から、大粒の涙を絶えず零しながら。
貴方の選択の合否なんて、誰にも付けられない。ただ今は、己の全てを賭けてその想いを果たした貴方が誇らしい。
そんな想いを込めて―――本当は言葉で伝えたかったけれど、喉が色々なもので詰まってどうにもならなかったので―――手指にぎゅっと力を込めて、温もりを伝え続けた。
その手の力が全て抜けて、少しずつ冷たくなっていっても、ずっと。