時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

うちのこいちばん

ぱち、ぱち、とタイプライターを叩く不規則な音が静かな事務所内に響く。
やや危なっかしいその音を立てているのは、タイプライターの目の前に腰を落ち着け、その肉球のついた前足で小器用に
タイプを押している黒猫、ゴウトである。
「…ゴウト殿」
所在無げに横に立っている14代目葛葉ライドウこと桔禰真柴は、普通の猫にならば有り得ないほど仰々しい喋り方でその猫に声をかけ、
「駄目だ」
一刀両断にされて僅かに肩を落とす。ちなみにこのやりとりは既に3回目になる。ぱちん、と一行を入力し終わったらしいゴウトがふう、と息を吐き、胡乱気に隣に立つ青年を緑の瞳で見上げた。
「お前、この前コレを使おうとしてバネを三本ばかし飛ばしたのをもう忘れたか」
「…面目次第もございません」
悪魔退治から家事手伝いまで、何でもこなすこの探偵見習いにも苦手なものはある。笑顔を作る事の次に苦手なのが、このタイプライター。というより、近代機械の大抵が苦手の部類に入る。
「…釦が3つ以上或る機械を扱うのは、どうにも」
「まぁ、あの里じゃ滅多に見ないモノだからな」
それ故に、鳴海に対する報告書を書くのはゴウトの仕事になってしまった。否、勿論真面目なライドウは手ずから報告書を書き上げたのだが、巻紙に筆で書かれた達筆を鳴海が読める訳もなく、折衷案でゴウトがタイプを叩く羽目になったのである。
「しかし、ゴウト殿のお手をこれ以上煩わせるのは心苦しく」
「それなら埋め合わせに、今日の鯖は1匹丸侭貰おうか」
「畏まりました」
冗談交じりで言った交換条件に、真剣な表情で頷いたライドウは早足で台所に取って返す。鳴海は文句を言うかもしれないが、ライドウにとってヒエラルキーは自分<雇い主<葛葉の偉い猫、なので本日のおかずの優遇を行う事に全く躊躇いはない。役得にほくそ笑みつつ、ゴウトは改めてぱち、ぱちと報告書の作成を再開した。
「…遭遇した…雷堂と業斗、この表記で行くか便宜上」
長年魂としてこの世に留まっていた自分にとってもあの体験は初めてのものだった。平行世界とでも言えばいいのか、かなり似通っているのに全く別の世界に辿り着いてしまい、尚且つその世界の自分というものに出会ってしまった。全く同じ猫の体を見て、どんな場所でも自分の馬鹿さ加減は変わらないのか、と内心落ち込んだりもしていたが。
しかしあの雷堂と名乗った男も、その名に相応しい修練は積んでいると見た。立ち居振る舞いは傲慢とまで見えたが、あの余裕はうちの真柴にも見習わせたいものだ、と密かに頷く。
「あいつは少々遠慮に過ぎる」
喧嘩っ早いというか、力には力を持って応える割には自分の実力に対して謙虚過ぎる。もうちょっと自信を持っても良いと思うのだが、いくら言っても聞こうとしない。
下手に発破をかけても頑なだしな、と眉間に皺を寄せたところで、自分の思考がすっかり保護者になってしまったことに気づいてやれやれと息を吐き、残りの文を出来るだけ早く打ち込んだ。
漸く完成した報告書に目を通し、ふむと満足げに髭をぴんと伸ばすと、丁度いい時間だったらしく煮汁の良い匂いが台所から漂ってきた。自分が腰を上げる前に、程好く冷ました煮魚を入れた深皿を持ち、ライドウが戻ってきた。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
「うむ」
差し出された皿に大仰に頷き、遠慮なく顔を突っ込む。甘すぎず辛すぎず絶妙な味付けに舌鼓を打ちつつ、この器用さを何で別に生かせんのかと内心首を傾げることしきりである。
あらかた身を食べつくして満足げに前足を舐めていると、傍に立っていたライドウがタイプライターからはみ出した報告書に目をやっているのに気がついた。僅かに眉と眉の間に谷が出来ている。彼がこうやって表情を変えるのは珍しいので、ゴウトにも興味が沸いた。
「如何した? 何か付け加えたいのなら追記するが」
「いえ…そういう訳では、無いのですが」
それでも眉間の皺が緩まない。何かを言いあぐねて、躊躇っているようだ。ゴウトはせかすことなく言葉を待ってやる。見詰めてくる緑色の視線を心なしか避け―――その仕草も彼にとっては非常に珍しい行動だった―――、漸くライドウは重い口を開いた。
「…あの世界の雷堂殿も、その名に相応しいとお思いですか」
「ん?」
いまいち意味が理解できず、瞼を大きく一回瞬かせる。ライドウはやはり気まずげな空気を崩さず、ぽつぽつと言葉を繋げる。…まるで、拗ねた子供のように。
「確かに、自分は生霊送りの術を習得しておりませぬが、既に祝詞は心得ました故、今してみせろというのなら直ぐにでも行う所存です。剣技も封魔術も遅れは取りませぬ」
「あー…。つまり、あれか」
漸く彼が何を言いたいのか察しがつき、ゴウトがにんまりと猫の悪い笑みを浮かべる。
「ライドウとして認められるのは自分だけで良いと?」
「…不遜と理解しておりますが、そう思う次第です」
頭を下げるが、その口調にはまだ不機嫌が残っている。ゴウトはこみ上げてくる笑いを堪えきれず、くつくつと喉の奥を振るわせた。
―――あのダークサマナーに感謝せねばならんな。
迷惑は多大に被ったが、「もう一人の自分」に出会ったことが彼にとっては良い傾向になったようだ。
お前は俺が出会った中で最高の「葛葉ライドウ」だ―――とも言ってやりたかったが、流石にそれは贔屓のしすぎかと思い。
「真柴。屈め」
「は」
訝しげな声は一瞬、すとんと片膝を床に下ろして向かい合う高さを合わせたライドウの、普段は帽子の鍔に隠れた額をぺろりと舐めてやった。この手では、頭を撫でるのは中々難しいので。
「次に出会う機会があれば、遠慮なく手合わせの一つでもしてみろ。慢心しなければ、お前が負ける道理が無い」
「…勿体無きお言葉、有難うございます」
ほんの僅か、唇を引き攣らせる不器用な笑顔を見せたライドウにゴウトも笑い。
「やはり猫の手でタイプライターは少々辛い。お前が追記しておけ」
「…全力を尽くします」
立ち上がり、肩に力を入れすぎつつ機械に向かう青年の横顔を、気づかれぬようにこっそりと優しい瞳で見詰めることにした。


×××


「…少しは落ち着いたか?」
「ああ…もう大事無い」
多聞天の石段に腰掛けて呼気を整えていた雷堂は、横から声をかけてきた猫に低い声で返事を返した。
「全く、天津金木に碌な力も溜めずに術を使うからだ。無茶をしおって」
「成功する目算は有った」
「それで倒れていては苦労はない」
呆れたように言葉を紡ぐ業斗に、さしもの雷堂もぐっと言葉を飲み込む。幼い頃から葛葉雷堂の名を受け継ぐ為に修練を続ける自分に、親代わりといって良いほどに付き従ってきた猫の言葉は、雷堂にとっては何より重い。
「何度もお前に教えた筈だ。人の心の繋がりというものは決して馬鹿には出来ん。時には未来を切り開く力となることすら有る。そのことを忘れるな」
言いながら、業斗はふと先刻元の世界へ帰っていった来訪者の瞳を思い出す。自分が選んだ弟子と同じく、整っているが動かない表情をしていたが―――恐らく目の前の青年より、彼の方が思いの力が何たるかを知っている。その魂は孤立していたが決して孤独では無かった。それは、彼自身が世界に対し垣根を作っていないからなのだろう。
対して雷堂は自分を揺らがせぬよう、自ら垣根を作って自分を律している。その在り方が間違っているとは決して言わない。ただ、強くあろうとする分、いつか折れてしまうのではないかと不安になる。
「…業斗。何を考えている」
そうならぬように導かねば、と密かに心を新たにしていた業斗の意識を雷堂の声が遮った。顔を上げると、いつになく不機嫌そうな青年の顔がある。その顔に浮かんだ傷を僅かに力を込めた指で撫ぜながら、雷堂は憮然と言葉を続ける。
「確かにあの『ライドウ』はこのような不覚は負ってはおらん。恐らく剣技も我と同等、あるいはそれ以上。だが決して遅れを取る気も無い」
言葉はあくまで重厚だが、その中身はある意味子供の駄々のようで、くつくつと業斗は笑う。自覚はあるらしく憮然と眼を逸らせた雷堂の膝の上で握られた手に、ぐるりと柔らかな毛玉が擦り付けられた。
「14代目葛葉雷堂はお前以外に有り得ない。そう拗ねるな」
「拗ねてなど、おらん」
ぐいぐいと擦り付けられる業斗の頭をやや力を込めて撫でてから、雷堂は立ち上がる。いい加減閉め出された事務所の前で途方に暮れているであろう自分の上司を回収するために。当然、その後に黒猫が続く。
「…業斗。かの14代目と我の差とは何だ」
「そうだな。背負っているものの重さの差といったところか」
「雷堂の名も、この帝都も背負うは同じ。他に差があるというのか」
「少なくともお前より―――あの『ライドウ』は、自分が背負うものが何であるか、解っているようだ」
使命だけではない。この帝都で平凡に、苦しみながら、それでも笑顔で生きていく者達がどれだけ尊いものであるか、きっとあの14代目は知っているのだろう。紛れも無く自らの経験によって。
前を歩くこの背中にも、いつかその重さが解れば良いと思う。それは辛い道であろうけれど、それでこそ強くなれるのだから。
「ならば、我も背負って見せよう」
「期待しているぞ」
後はもう振り向かぬ背中を追い、業斗も走り出した。