時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

Sehnsucht

「あーウソ! 化学の宿題って今日までだったっけ!?」
「馬ッ鹿で〜、上杉」
周りの囃したてる声を無視し、ガサガサガッタン! と自分の雑物が大量に詰まった鞄と机から、漸くくしゃくしゃになった目的のものを探し出し、上杉は一息ついた。机の上で皺を伸ばし、ざっと問題を読み……後の時間内職しても自力での解答を呼び出すことは不可能であると悟った。
あーもー、と溜息を吐いて机に突っ伏した上杉の前の席が引かれ、そこにやっと登校してきた青年が腰掛けた。
左右に刎ねた癖のついた髪。左耳に付けられた小さなリングピアス。深い色をした瞳、すっと通った鼻梁、引き結ばれた口。どのパーツも、彼の『美しさ』というものを引き立てる要因になっている。
男子生徒にその形容は間違っているかもしれないが、その表現が一番しっくり来るのだから仕方がない。
その容姿から女子生徒に騒がれているのは、上杉も知っている。そして同時に、それらを全て拒絶していることも。彼が見る限り、その青年が誰かと喋っているのを見た事は、ない。
(……辛くないのかな)
俺だったら。
一人でいることなんて耐えられないのに。


くいくい、と学生服の裾を摘まれて、青年が振り向いた。
「とかげ〜、化学のプリント見せちくり〜」
「…………」
彼の名前は、都 とかげ。十の影と書いてとかげと読ませている。ひんやりとした視線が自分に降り注がれるのに内心怯みながら、手は離さない。
「プリーズ愛情! 俺様助けると思って〜」
もう片方の手で拝む様にすると、一瞬だけ困惑した色がその瞳に浮かんだような気がしたが…
ぱしん。
軽い音が響いて、手が振り解かれた。十影は鞄を持ったまま立ち上がると、早足で教室を出ていった。
ざわざわと、教室がざわめく。その中には、冷徹な十影を非難する声もあり、上杉は眉間に皺を寄せた。
―――そんな風に言うなよ。
―――悪いのは俺様なのに。
そう言いたいのに、声が出ない。誰かを怒らせるのかと思うと、唇が動かない。嫌われるのが―――恐い。
―――――そんな自分が、少しだけイヤだ。
もうすでに彼が出ていってしまった扉に目をやり、ほんの少しだけその態度を分けて欲しいと思った。


2時間目になっても、3時間目になっても、十影は帰ってこなかった。彼のボイコットは良くあることなので、教師もあまり気にしていない。
上杉は何となく、他の人に頼ることをせず、こっそり内職をしていた。もちろん、ちっとも進まない。
(…俺が怒らせちゃったかなぁ)
昼休みになっても、彼は戻ってこない。耐え切れなくなって、周りの昼食への誘いを無視して十影を捜し出した。
何となく、予想はついていた。同じクラスになってからまだ間がないとき、彼が屋上にいるのを良く見かけていたからだ。他に心当りもない、上杉は階段を駆け上がった。


「ジャンジャジャーン、俺様登ッ場ー!」
バターン、と扉を蹴り開けて飛び出したはいいものを、リアクションはない。フェンスに寄りかかっていた彼は、驚いた様子もなく、目線を手に持っていた紙に再び落とした。
「…も〜、なんかリアクションくれよー」
とたとたと側まで歩いていって、腰掛ける。また、ちらりと目を向けられるが、すぐ伏せられる。
「………………」
「………………」
沈黙が痛い。
特に上杉はこういう間に耐えられない。
「あ、あの! ……ごめんな」
突然出てきた謝罪に、何か、という視線が向けられた。
「いや、だからっ、無理やり頼んだりして……」
最後の声は細くなる。彼と話していると、自分の「造られた仮面」が剥ぎ取られる様だ。
無言のまま、十影は持っていたシャープペンを手もとの紙に走らせ、
「……出来、た」
と言ってその紙を上杉の腕に押しつけた。
「え? …これって……」
中身が殆ど埋まった化学の問題が連ねられた、紙。
「ぁ、忘れて、て…僕、も」
無理矢理口の中から搾り出したような、声。吃音の気があるのは知っていたし、それでも声を聞いたのは久し振りだった。
―――要するに…?
自分も課題忘れてて…ずっとここでやってて…出来たから……
「い、いいの? 俺様見ても」
慌てて自分を指差すと、がくん、と首全体で頷いた。
―――あぁ、何か………
心臓の辺りがふわふわしてきて、頬が緩むのを止められない。
「とかげ〜! お前ってイイ奴―――!!」
ばむばむと背中を叩いてやると、ちょっとだけ眉を顰めたが。
多分、見間違いではないと思う。
ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。


にこにこ笑いながら、プリントを眺めている上杉を見ながら十影は思った。
―――今まで何度も、人を信じて信じて、裏切られてきた。
―――その度に治らない傷を付けられるのに、僕はまだ懲りていないらしい。
―――この人の、ようになりたい。
―――自分の感情を全て吐き出せるように、強く…なりたい。


「…ぇ、杉」
「ん?」
名前を呼ばれたような気がして振り向くと。
何の前触れもなく、抱き締められた。
相手の顔の中で最も柔らかな部分が頬に触れ、それを確認する間も無く離れた。
「き、教室、戻る…から」
それだけ言って、腕も離れる。
しばし、呆然として。
一気に顔に血が集まった。
「ぇ…、うぇえ!? ちょ…とかげぇぇっ! 今、何……」
慌てて上杉も後を追う。

季節は、まだ春。先はまだまだ――永い。