時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

Purification.

「子供の頃から、喋るのが苦手だった。
どもったり、黙ったりすると、両親はすぐに怒った。
何度も何度も、怒鳴られた。
何度も何度も、叩かれた。
怖くて、そのうち喋れなくなった。



小学校の頃、担任の先生が庇ってくれた。
喋り出すまで、じっと待っていてくれた。
その人のことが、とても好きだった。
でも、その人が自分のことを本当は持て余していることを知ってしまった。
ますます、話すのが怖くなった」







全てが、終わった。
自分の身体を持て余し、自分の世界に逃げていた少女の殻はぱりんと割れて。
平凡で単純で退屈な、幸せな日々が戻ってきた。
放課後のピースダイナー。いつものメンバーで、何気ない話を続けて行く空気。
それが凄く心地良い。自分には絶対に手に入れられないものだと思っていたから。
「何、パンドラの箱から最後に出てきたものを思い出しただけだ…」
何気なく笑ってそう言った南条の言葉に、その左斜め前に座っていた十影はふと瞳を揺らめかせた。
「都ぉ、どうしたの?」
隣でストローを咥えたままの綾瀬が不思議そうに聞いてくる。
少し驚いたように十影はそちらを向き、何か言おうとして―――、
何でもない、という風に首を左右に振った。そお? と言及もせずに綾瀬は視線を前に戻す。
―――言葉が上手く紡げなくても、誰も何も言わない。
無視でも同情でもない、彼の誠実さは、あの戦いを潜りぬけた同士達ならば皆解っている事だから。
「………あけな、きゃ」
だから、ぽつり、と呟いた都の声に、思わず全員そちらを向いた。
「なんか言ったか? 都」
全員の言葉を代弁して、稲葉が口を開く。
8対の視線を当てられて、十影は戸惑ったように辺りを見回し―――意を決したように、口を開いた。
「…箱を、あ…けな、きゃ」
震えそうになる声で。
やっと、それだけ、呟いた。




「中学の時、春樹に会った。
初めて会ったその優しい人は、どんなに邪険にしても自分を見捨てなかった。
本当は、ずっとずっと苦しんでいたのは春樹のはずだったのに。
好きだったのか、と聞かれればYESと答える。
愛していたのか、と聞かれればYESと答える。
でも、それだけじゃない。
自分にとって、唯一無二の存在。
自分が自分であるための全ての雛型を教えてくれた人。
嬉しいこと。楽しいこと。笑うこと。怒ること。
全部全部全部。
春樹から、貰った」






一部心配そうな仲間の視線を振りきって、家に戻ってきた。
良い成績と引き換えに親から手に入れたマンションの一室。
鞄を部屋の隅に起き、唯一の家具である机の一番下の引き出しをしゃがんで開けた。
そこには、何やら継ぎ足したり破いたりして、ごわごわになっている一冊のノートがあった。
中学生の時僅か1年弱、彼女と紡ぎ続けた日記。
彼女がこの世界から存在を消した時、これも消したかったが出来なかった。





「喪失はいつも唐突。
昨日まで自分の隣に居た少女が、あっという間に掻き消えた。
耐えられなかった。
もう無くしたくなかった。
だから、全部無くしてやろうと思った。
元に戻ればいい。彼女のことを知らない昔へ。そうすればこんなに苦しくはないはず。
出来るわけがないと解っていたのに」






ぱらり。
ノートのページを、ゆっくりと開く。
他愛のない数行から始まっている日記は、途中で完全に破り捨てられて止まっている。
破け目をついと指でなぞり、きゅっと唇を噛む。
「…なんっ、で」
引き攣ったような声が漏れる。今にも泣き出しそうな声なのに、何故か瞳はちっとも潤んでいなかった。
「なん、で、な、泣けないんだろッ…! 
こ、こんな、こんなに、かな、悲しい、のに、悲しい、の、にぃ…!」





「それは。
諦めきれないから。
自分に与えられた事実は、
水を吐き出す廃車、
水で膨れた春樹の両親、
車の中の春樹のサンダル、
それぐらいで。





誰もが、もう諦めろと言った。
誰もが、もう彼女は「 」んでいると言った。
だって証拠なんて何も無いんだ生きてるよ生きてるよあんな
にあんなに楽しそうだったのにいつも笑ってたのにいつも嬉
しそうだったのに逃げたんだきっとドアは開いていたし穏や
かな海だし脱出すれば泳げれば助かるよ助かってたんだいつ
かいつか必ずびしょ濡れでも怪我しててもきっと戻ってきて
くれるって帰ってきてくれるって絶対絶対絶対!!!!!!






そうやって、3年が、過ぎた。

早くて、遅くて、短くて、長かった。

信じられない。
信じたくない。
でも、信じるしかない。
答えが出せない。
終われない。

どんな解答でもいい、どうか、どうか、
この想いを、救ってください」









やがて、また春が来る。
春樹と出会って5年目の、春樹と離れて4年目の春が来る。
いつも通りの桜のわずかに甘い匂いが、十影の鼻を擽る。
もうすぐ、卒業。
高揚感があるわけではないが、僅かな充足感がココロを満たす。
ひとつのことを、やり遂げることが出来たから。
決して、一人では無くなったから。




『もう、大丈夫だよね、とかげ』






「――――――?」
風が。耳元を擽った。
驚いて耳を擦ると、中に桜の花弁が一枚入っていた。
ほんのちょっと笑って、それを風にもう一度乗せ―――
ピリリリリリリ…!
「!?」
電話が鳴った。前を歩いていた仲間たちが、一斉に十影を振り向く。
彼の電話が鳴る事なんて、滅多に有り得ないのだから。
「…………はい」
僅かに震える声で、通話ボタンを押す。
一方的に紡がれる言葉を頷きながら聞くうちに、どんどん十影の白い顔が更に青ざめていく。
「………ぁか、りました…」
ようやっとそれだけ言って、がくりと携帯を握っていた手を下ろす。
誰かに声をかけられたような気がしたが、頭の中に入ってこなかった。
―――――瞬間、ばね仕掛けのように、唐突に十影は駆け出した。
「オイ、都!」
「十影くん!」
仲間達も顔を見合わせ、我先にとその後を追って走り出す。
「ちょっとアンタ達―――! これから式のリハなのよー!?」
慌てた冴子先生の声を聞き流し、9人は走った。



電話は、本当に久しぶりの、母からのものだった。
『十影? 私よ。…簡潔に言うわ。貴方にもその方がいいでしょうし』
何、と聞こうとしたが、声が出なかった。
親の前(電話の前、だけれど)ではやはり、ますます舌と唇が凍りついて。
『遺体が上がったの』
だから、咄嗟に反応できなかった。
『春樹さんの』
答えが返らないことも、向こうはいつものことだとしか思わなかっただろうけれど―――



「――――ッ」
息が苦しい。膝が笑う。心臓があっちこっちに飛び跳ねて皮膚を突き破りそう。
ちゃんと自分は地面を走っているのか。
もしかしたら、とうの昔に宙に浮かんで空回りしているのかもしれない。
それでも、前には進んでる。それを信じて、ただ足を動かした。
「―――ハ、ァ―――ッ」
息をする時間さえ惜しい。何でしてないと死んでしまうんだ、今死ぬわけにいかないのに。
目の前が、急に開けた。



海だ。



4年前、自分が空っぽにされた海。
4年前と同じく、そこには沢山の野次馬と、テレビカメラと、警察が来ていた。
「っぁ―――、!!」
呼ぼうとしたけど、呼べなかった。がくがくする足を必死に振り上げて、人垣の中に飛び込んだ。
「何だね君は!」
「関係者以外立入り禁止です! 下がって!」
「っ、る、きっ…!!」
両手を拘束され、身体を持ち上げられる。
思い切り振り解く。手を伸ばすけど、届かない。前すら見えない。
どんっ!
と、身体が急に軽くなり、前につんのめる。
「悪ィな、ケーサツさんよぉっ!」
「ちょいと通してくんな!」
漸く追いついた稲葉が、勢いに任せて人垣にタックルしたのだ。続いて十影を抑えていた腕を、黛がひねり上げる。
「な、何だお前ら!」
「マジスイマセン、通してくださいよぉ!」
「ごめんなさい、お願いしますっ!」
上杉と園村が、縋りつくようにいきりたつ警官の前に立つ。
「どけ、邪魔だっ!」
「ごめんあそばせ!」
騒ぎを聞きつけて集ってくる者を、城戸と桐島が追い散らす。
「都ぉ! 何ぼさっとしてんのさ!」
「…行け、都っ!」
綾瀬の煽りと、南条の力強い声が後押しする。
仲間が作ってくれた隙間に、全力で飛びこんだ。
人垣は、比較的あっさりと途切れた。


あの時と同じ。
ブルーのシートが、奇妙な盛り上がりを作っている。
あの時より、少し小さかったけれど。
制止の声が聞こえる前に、砂を蹴散らしてそこに飛びついて座りこむ。
「や、止めたまえ!」
誰かの声が聞こえたけど、届かなかった。
何の躊躇いもなく、シートを思いきり剥がした。


最初に感じたのは、異臭。
「―――――――ぁ」
ぐにゃりと、柔らかい感触がした。
それはもう、ニンゲン、と呼べるものではなかったかもしれない。
半分以上、魚に啄ばまれて骨が見えて。
どす黒い青紫に変色している腐肉。
もはや人の姿を留めていない肉片。
それでも。
「………ぁ、った」
それはまるで、奇跡のように。




「見てこれ、キレイでしょ?」
「…ん、これ…ど、した?」
目の前に差し出されたのは、何の変哲も無い銀のピアスが一個。
「とかげ、穴開けてたよね? あたしもつけたんだ、ほら見て見て」
僅かに癖のある髪をちょっとかき寄せて、耳朶を見せる。
「これ、目印にしよう」
「…………?」
「もし、どんなことがあっても、これをつけてれば、すぐあたしだって解るよね?」
そう言って、春樹は笑っていた。
もしかしたら。
その時、もう覚悟していたのかもしれない。
それから1週間も立たないうちに、両親と共に海へ向かったのだから。






残っていた。
とっくの昔に流されて、無くなっていて、おかしく無いもののはずなのに。
鈍い光を僅かにはなち、そこに輝いていた。
右耳に。
自分とは、逆の耳に。
残っていた。
彼女はこのために、これをつけたのだろうか。
どんなことになっても、
自分の死を、彼に知らせるために。






「…あっ!! あ、ああ゛!」
ぼたぼたぼたっ、と雫が、嘗て人であったものの上に降り注いだ。
積が切れた、それが一番正しい表現だったと思う。
溢れた。
5年分の、想いが。
「あ゛あ゛あアあっ! あ゛っ! あッああ゛あ゛ああ〜〜〜〜ッ!!!」
咆哮に近い、嗚咽。
搾り出されたようなそれに、誰もが動きを止める。
亡骸を何の躊躇いもなく抱き上げ、しっかりと抱きこんで。
彼は泣いた。初めて、泣いた。
泣いて、泣いて、泣き続けた。
涙はいくらでも零れた。
何もかも吐き出すために、零れ続けた。






何もかも解っていた彼女が最後に彼に与えたのは、
涙と言う、自分の浄化方法。
彼がこれから一人でも生きていけると解ったから。
彼女は、最後まで、笑っていたのだ。
少なくとも、彼は、そう想った。