時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

はじまりのたまごがわれるとき

むかしむかしあるところに、ひとりの少年とひとりの少女がおりました。



少年と少女は、ひとつの卵の中に二人で暮らしていました。
その卵の殻はとても厚く、透き通って外を見ることは出来ても、外に出ることは出来ません。
しかし二人とも、外に出たいと思ったことは一度もありませんでした。
少年は外の世界がどんなに危険なことか知っていたし、
少女は少年の話を聞いて外がとても恐ろしかったし、
何より、この卵が割れてしまえば自分達が自分達でなくなることを良く知っていたからです。
そして、ここより居心地の良い場所など知らなかったからです。
だから二人は、卵の中で、毎日毎日一緒に過ごしました。
二人で裸の身体を寄り添わせてまどろみ、
うとうとと目を覚ますと、少年が色々な話を少女に聞かせ、一緒に遊びました。
遊び疲れると少女が優しい歌を歌い、また二人で眠りました。
そうやって、ずっとずっと二人は一緒に生きてきたのです。


ある日。
卵の外に誰かが立っているのに気付き、少年は目を覚ましました。
前から、この卵の外に誰かが来ることはありました。
それは羽根の生えた人間であったり、また恐ろしげな怪物であったり、金色の髪を靡かせた男であったりしました。
誰もがこの卵を割ろうとして、しかし諦めて去っていきました。
また誰が来たのだろうと、少年はまだ眠ったままの少女を起こさない様に身体を持ち上げました。
声をかけようとして、なぜか少年は言葉を発することが出来なくなりました。
透き通った卵の外に座っていたのは、ひとりの女でした。
長い黒い髪が身体全体を覆っていました。
少年は少女の髪より長くて綺麗な髪を見たことがありませんでした。
黄金色の瞳は少年の方を真っ直ぐ向いていました。
少年はここまで自分を見つめる瞳を少女以外から向けられたことがありませんでした。
柔らかそうな唇は酷く真っ赤でした。
少年は少女の唇は薄紅色をしていたので、酷く驚いたようでした。
そう、少年は、その女にずっと見蕩れていたのです。
その視線をどう捉えたのか、女はうっとりと笑いました。
「きみはだれ?」
ようやっと、少年は問い掛けました。
「あなたを待っているのよ」
女はまた笑って、こう言いました。
「あなたも、このたまごをわりにきたの?」
少年の問いに、女は首を振りました。
「私は待っているわ。あなたがこの殻を破って出てきてくれるまで。ずっとずっと、待っているわ。今までだって待ち続けてきたのだもの」



それから、毎日女は卵の側までやってきました。
何をするでもなく、ただ外に腰掛けて、少年だけをずっと見ていました。
たまに少年が話しかけると、嬉しそうに答えてくれました。
少女が話しかけようとすると、はっきりとした憎悪の視線を向けて、少女を怯えさせました。
二人が眠るまで女はそこにおり、夜が明けると帰って行きました。
「きれいなおんなのひとだね」
少女が言いました。
「うん」
少年が答えました。
「でも、すこしこわいの」
また、少女が言いました。
「うん」
また、少年が答えました。
少年は後はただ黙って、女の座っていたところをじっと見ていました。




少年は、よくあの女のことを考えるようになりました。
美しくて、少し怖いあの女のことを、いつもいつも、考えるようになりました。
どうしてなのか、少年には解りませんでした。
だから、少女に聞きました。
自分が解らないことは、少女に聞けば良く解ったからです。
「ねているときもおきているときも、あのひとのことをかんがえているんだ」
ゆっくり言った少年の言葉に、少女は少しだけさびしそうに笑いました。
「あなたは、あのひとのことがすきなのね」
「すき?」
少年は首を傾げました。
その言葉は、少年が理解できるものではなかったからです。
「わからないよ」
「うん」
「でも、あのひとのそばにいきたいんだ」
「うん…」
「あのひとのこえをききたい。あのひとのからだにふれたい」
「うん…」
「どうしたら、いいんだろう」
「…わかんない」
ふたりの力を合わせれば、卵の殻を割れることはふたりとも知っていました。
でも、出来ませんでした。
ふたりとも、お互いと離れることなど考えつかなかったからです。
少年と少女は、ふたりのまま、ひとつになって、生まれなければいけなかったからです。
それなのに。
はじめて、少年の考えと少女の気持ちが、別の方向を向いてしまったのです。




そんな日でも、女はやってきました。
ただ何も言わず、唇を自分で噛み破り、血のついた唇をそっと卵の殻に押し当てて行きました。
少年は卵の内側から、残された紅い刻印の上に自分の唇をそっと押し当てました。
はじめて少年は、自分たちを護るこの卵の殻が分厚く、鬱陶しいものだと思いました。
そんな少年をみて、少女は決心しました。
「はなれるのはいやなの」
「うん」
「でも、あなたがくるしいのはもっといやなの」
「くるしい?」
それも、少年にはわからないことでした。
「あなたのくるしみは、わたしのものだから」
「うん」
それは、解りました。
「だから、かいほうしてあげる。ここからでよう。でも…」
そこで少女は言葉を切って、涙を一粒流しました。
「また、わたしといっしょにいてくれる?」
「あたりまえだろ?」
少年はすぐに答えました。少女と離れることなど考えつかなかったからです。
「やくそくよ。どんなにはなれても、またあおうね」
「やくそくする。ぜったいに、ひとりにしない。ひとりにならない。きみといっしょにいるよ」
「やくそく」
「やくそく」
きゅっ、と指を絡ませて手を握り、ふたりは目を閉じました。



一瞬の静寂の後。



ぱり、んと。




思ったより軽い音を立てて、卵の殻は割れてしまいました。