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嚆矢

「惇。お前、張遼に何をした?」
「は?」
 全てにおいて破格の男といえる曹孟徳が、唐突な物言いをするのはいつもの事であったが、夏候惇は訝しげな一声しか返せなかった。否、返す気が無かったと言った方が良いかもしれない。下手に噛み付けば却って話がややこしくなるか、逆におちょくられるかという事をよく知っていたからだ。
 それでも、彼が曹操の臣下である以上、告げられた問いには答えねばなるまい。天をも射抜く、とされる強い両の眼が、好奇心と疑念を湛えて彼を見ている事にも気付いた。
 今この場は、曹操私宅の一室。臣下の夏候将軍としてでなく、旗揚げの時より共に歩んだ僚友夏候惇に聞いているのだと彼も理解し、ふんと鼻を鳴らして不遜に答えた。
「何だ、薮から棒に。あの豪快かつ実直な武人が、俺の何を噂していたと?」
「ほう、随分と褒めるな」
 夏候惇の張遼評が気になったのか、曹操は一つ膝を乗り出して興味深げに聞いてくる。人間離れした才を持ちながら、誰よりも人らしく人を愛する男の探るような視線。それを無造作に手を振って往なしてから、当然のように夏候惇は言う。
「あの大ヒゲに勝るとも劣らぬだけの武を持った男だ。悔しいが、褒めざるをえん」
「はっは」
 面白そうに膝を叩き、曹操はにやにや笑っている。彼がこんな笑いをする時は、昔から碌なことが無いと知っている夏候惇は、俄然警戒し丹田に力を込める。もしふざけた事を言うのなら、怒鳴りつけてやろうと。
「今度それを張遼に直接聞かせてやれ。きっと喜ぶ」
「はぁあ?」
 茶を一口飲み、面白そうに言ってきた言葉の意味が、今度こそ全く理解出来ず夏候惇の声がひっくり返る。
「何、この前錬兵の際に顔を合わせてな。何やら思うことがありそうだと尋ねてみれば、お前のことばかり根掘り葉掘り聞かれたぞ。故郷にいた頃は何をしていただの、武器はどこぞの鍛冶屋の物を使っているのかだの。ああ安心しろ、無論一言一句違えず、お前の武勇伝を揚々と語ってやったぞ」
「孟徳!! 一体何を吹き込んだァ――ッ!!」
 がっちゃん、とそれなりに高価である筈の茶器を蹴倒して夏候惇が叫ぶ。あの他者に興味を持たぬように振舞う武将が何を思って己の事を問うたは知らないが、どうせこの奸雄のこと、あることよりもないことを多めに、滔々と語ったに違いあるまい。
 並みの男では腰を抜かしてしまうであろう、怒りに任せての怒鳴り声を涼しげに交わした曹操は、膝を濡らそうとする茶をひょいと避けつつ、心底面白そうに笑う。
「指摘はしてやらなんだが、あれはまるで、惚れた女の趣味を聞き出さんと息巻く男のようでもあったな!」
「阿瞞――ッ!!!」
 今度こそ完全に、堪忍袋の緒が切れて、夏候惇は全霊を込めて主を幼名で怒鳴った。



 ただそれだけのやりとりだったら、夏侯惇は憤懣やる方なくても、次の日には戯言と忘れていたことだろう。
 しかし当日のうちに、別の人間からこう問われたら、不本意にも忘れようが無くなってしまった。
「なぁなぁ、惇将軍。張遼将軍に、なんかしただか?」
 もし彼以外から問われたら、不機嫌のままに怒鳴りつけていただろう。
 だが、その問うてきた相手が、曹操が召し抱える一の護衛であり、且つその純朴さがどうにも憎めぬ許チョであったからこそ、反射的に怒鳴りつけるのは堪えた。
「あぁ? お前までなんだ」
「今日、偶然張遼将軍に会った時、聞かれたんだよぉ。ええっと、許チョは惇将軍を見たらどうなるかって」
「あいやー、正確には『許チョ殿の慧眼なる人物評を以ってお尋ねしたい。貴殿が見る夏候元譲将軍とは、如何なる見目であるのか』でしたねッ」
 丁度その場にいたらしい荀ケが、ひょいっと会話に混ざってくる。うんうん、と許チョが肯いている所と、彼の聡明かつ純真な脳髄を考えれば、その事実に偽りは無いのだろう。
 しかしそうなると、夏侯惇にはますます張遼の言動が謎になってくる。どんなに聞かれても、かの武将が自分に感ける理由が解らない。先刻の曹操の言だけなら彼のいつもの謎じみたからかいだと思いそれで終れたのが、更に頭を悩ます破目になってしまった。
 すっかり眉間に皺を寄せ、鬼のような顔で考え込む夏候惇をどう思ったのか、荀ケと許チョは顔を見合わせて首を傾げてしまう。
「そういや、私も郭嘉も何やら聞かれましたよ。戦場で夏候将軍が如何なる働きをしてきたのかと」
「なんだとぉ?」
 次々と訳の解らない事実が明らかになり、いよいよ夏候惇の額に青筋が浮いた。己の居ないところで己の話が不気味に広がっていくなど、誰でも気分のいいことではない。苛立ちを堪え、兎にも角にも疑問を解消すべき、と無造作に許チョに向かって尋ねた。
「で? お前はどう答えたんだ、張遼に」
「えッ」
 不意に問われ、許チョはきょときょとと丸い目を動かし、助けを求めるようにちらりと荀ケの方を見る。荀ケは視線に気付くも、あいやいや、と慌てて顔の前で両手を振り、己には言えぬと言いたげに振舞う。その二人の姿に、夏候惇の目がぴしりと座るのも、まぁ無理は無い。
「何だ。俺に言えん評か」
「う、う、だって、言ったら怒るよぉ」
「怒らん。怒らんからほれ、言ってみろ。んん?」
「も、もう怒ってるよおおおお!」
「待てい、許チョおおおお!!」
 逃げるが勝ち、とばかりに、巨体には似合わぬ速さで脱兎の如く駆け出した許チョを、負けじと追っていく夏候惇。それを呆然と見送りながら、荀ケは仕方ないよね、と苦笑するしか無かった。
「媽……だなんて、とても夏候将軍の目の前じゃあ言えないよなぁ」




 一日の間にそんな事が立て続けにあり。夏候惇は大変苛立っていた。
「つまり、お前が原因だ! そんなに聞きたいことがあるのなら、真っ先に俺に来い!!」
 ので、その苛立ちの赴くままに、厩舎に足を運んでいた張遼を捕まえて叫んだ。丁度愛馬の鬣の手入れに勤しんでいた張遼は、あまりにも唐突な来客とその言に、流石に目を瞬かせていた。
 滅多に戦以外で気を昂ぶらせる事をしない武人の、どこか人間染みた様を見て、夏候惇はある程度溜飲を下げた。ふんッと鼻を鳴らし、僅かに自分よりも高い身の丈を隻眼で睨み上げる。
 嘗て呂布に仕えた猛将。降る意志など無い、只、最強の武を跳ね除けた天命とは何か。そう曹操に問うて、彼は此処に来た。
 幕下に加わっても、あまり他者と積極的に関わる気風の持ち主ではなかった。錬兵と馬の世話以外では、ろくに都城すらしない。
 ただ、戦場に出れば、その苛烈且つ真っ直ぐな武を以って、相見える敵を悉く斬り捨てる。
 それは将軍の地位を得た今も変わることなく、相容れぬと思う将も決して少なくない。
 だが――夏候惇は決して、この男が嫌いではなかった。
 西涼の生まれらしい奇抜な髪型と、呂布の元にいた頃から手放さぬ無骨な鎧。それらと彼の立ち居振る舞い全てに、どこか不器用さすら感じられて、頼もしいと共に好ましく思っている。
 そうやって僅かに思考を逸らしているうちに、張遼の方も何某か思うことがあったらしい。いつも通りの無表情であったが、恭手して軽く頭を下げて見せた。
「いらぬご迷惑をおかけしたようで、申し訳ない」
「詫びなどいらん。理由を言えと言っとるんだ」
 かの武将に同僚として頭を下げられる事など滅多に無いだろうと解っているので、夏候惇は僅かに慌てる。張遼の方はあくまで姿勢を崩さず、訥々と言葉を紡いで見せた。
「私は無聊者ゆえ、言葉を重ねるのは不得手だ。戦場で斬り結ぶ方が余程他者を理解し易いが、同じ幕下ではそれも出来ん」
 唐突な語り口に夏候惇も目を白黒させるが、張遼の言は止まらない。
「尚且つ、この身は敵より降った身だ。それを曹操殿幕下、古参将軍である貴殿に迂闊にも刃を向ければ、あらぬ疑いをかけられるだろう」
「……ほぉ」
 何を今更、と言いたいのを堪えて、呆れた吐息だけを一つ吐く。使えるものなら敵だろうが流民だろうが、賊だろうが何だろうが、全て己が元に置くのが曹操軍だ。そして其処にずっと尻を据えていた己だからこそ解る、彼の気遣いが全くの杞憂であることなど。
「なればどうするかと及ばずながら知恵を絞った結果、この始末となってしまった。全く以って、言い訳の仕様が無い」
「解らんな」
「は?」
「全く解らん! 言葉を重ねるのが苦手だぁ? 重ねすぎて何も響かんわ!」
 ぐりぐりと耳を小指でかっ穿り、心底馬鹿にした口調で夏候惇は告げる。僅かに戸惑う空気を纏う張遼にずいと近づき、互いの鼻の頭が触れそうになる位置で告げる。
「一言で言え。何故俺の事を聞きたがるんだ、お前」
 問われた言葉に、僅かに色の薄い目が瞬き――恐らく、彼自身も理解していなかった答えに辿り着いたのか、其処に納得の色が沸く。たった一つの目でその二つの輝きを真っ向から受け止めていると、綺麗に整えられた口髭に彩られた唇から、言葉が漏れた。
「貴殿という男に。夏候元譲という男に、興味を持った」
 僅かに夏候惇の唇が捩れ、むぐ、という声が聞こえるが、張遼は続ける。
「幾百の至弱の戦を打ち勝ち、乱世の奸雄に最も近く立つ忠臣であり、また武勇を持つ一人の武将として。貴殿の事を知りたかった」
 己に言い聞かせるように、その低い声はそう締めた。
「……」
「……」
 沈黙が続く。放って置かれたままの張遼の馬が、不満げにぶるんと鼻を鳴らした。
「……こぉの、阿呆がッ! うわ言を抜かすな!!」
 その瞬間、耐え切れず爆発したのは、やはり夏候惇の方だった。苛立ちをそのまま足の運びに変え、どすどすとその場から歩き去る。
 怒り以外の理由で紅潮していく頬と耳に、必死に気付かぬ振りをしながら。
 ――あれほどの猛将が。己が認めざるを得ないほどの男が。
 あんなにも、己を認めていたという事実が――面映くて仕方が無い。今突撃を命じられたら、砦の一つや二つ、一人で落せると思うほどには、浮かれてしまっている。
 だから、悔しいが我慢できず。振り向いて、何事も無かったかのように馬の世話に戻っている張遼の背に腹が立ったのも合わせて、叫んでやった。
「――手合わせなら、手が空いてる限りいつでもやってやるわ!! いらん気を回してややこしい事をするな!!」
 その時、思わず振り向いた張遼の顔は、彼が溜飲を下げるほどには驚いて見えたので、よしとする事にした。



 
「――全く以って、元譲殿は許チョ殿の見立て通りでしたな。感服致した」
「ん? そうだ、張遼よ。許チョの奴は、結局俺を何と評したのだ?」
「それは――言っても宜しいか?」
「何なんだ、早く言え」
「……口煩くも優しい、決して誰も逆らえぬ。即ち、母君のようであると」
「許チョオオオオオオ!!!」