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のんべんだらりんごった煮サイト

揺籠

ゆら、ゆら、と身体が揺すられているのを感じ取り、呂蒙は意識をゆっくりと浮かび上がらせ始めた。
大河・長江に慣れ親しみ、船を自らの第2の手足として扱う孫呉の人間にとっては当たり前のたゆたい。慣れすぎて普通に行動するのには何の支障も無いが、こうやってじっとしている寝入りばなや寝起きの刻には、寝台の中ではっきりと感じ取る事が出来る。
「むが…」
元々血の気の多い呂蒙のこと、脳髄は自然と覚醒していく。もぞもぞと起き上がり、眼球にくっついた瞼をどうにか開きつつ手探りで自分の得物を探す。寝床に武器を引き込んで寝てしまうのは昔からの習性だ。こればかりは、自分には不似合いな地位を与えられた後も止める事が出来ない。
ぺたぺたと硬い寝台を彷徨う肉刺だらけの掌は、やがて敷布以外のものを探し当てた。がしかし。
…………ざり。
「………ぬ?」
触れたそれは、愛用の槍の滑らかな感触などでは無く、何とも形容しがたい―――剛毛と、それを生やしているしっとりと寝汗に濡れた肌の感触。当然だが勿論触り慣れた自分の肌ではない。余り起き抜けに触れたくない感触に、呂蒙はばっちりと大きな目を見開いた。
「…ぐわ!? たっ、わひゃっ!?」
がばぁっ!と体ごとその身を翻し、慌てて飛び退ろうとして―――慌てすぎて寝台の広さの目算をつけることを忘れた。べたん!!と床板に背中から落っこちてしまい、痛みに身悶えた。
「ぬぐ、ぁ、あややっ…」
じたばたと再び身を起こし、自分が下帯ひとつ身に着けていない事に気付き、思わず顔を赤らめる。あや、あや、と慌てた時の口癖である意味の無い言葉を呟きながら、恐る恐る寝台の上を縁から覗き込む。どうにも餓鬼臭い上情け無い格好だったが、それが似合うところがまた物悲しい。
狭苦しい寝台の上には、どう見ても不可能なほどにきっちりと寝台に背を預け、両手を腹に置いて目を閉じ熟睡している―――元江賊の頭で現在孫呉の猛将・甘寧がいた。それなりに脇に寄ってはいるものの我が物顔に呂蒙の寝台の大部分を占領し、一体自分はどんな体勢で寝ていたのかと思わず呂蒙も考えてしまった。
敷布を腹にかけてはいるものの、呂蒙と同じく一糸纏わぬ姿で、普段綺麗に結い上げられている髪も下ろされ寝台に流されている。そんな姿を見て、呂蒙の顔面に血流が集中した。



―――昨日。合肥の地へと向かうこの軍船の、都督という地位を与えられたとはいえ狭苦しい呂蒙の部屋に甘寧が尋ねてきた。
呉の人間は中原の人間達よりも陽気で祭り好きな傾向があり、2人集まれば酒宴が、3人集まれば宴会が始まるのはそう珍しい事ではない。しかしこの甘寧という男は基本的に群れるということを好しとせず、同時期に仕官した無頼の仲間達の集まりにも滅多に顔を出さない。決して同僚達を嫌っているわけではなく、他人に行動を合わせるという事を絶対にしないのだ。
少々話がずれたが、とにかく甘寧が他人の部屋を訪ねるという行動はまさしく、呉の君主孫権が彼の愛虎・仁と喧嘩をするより珍しい、即ち絶対有り得ない事に近かったのだ。
だから呂蒙も大層驚いた。驚いたが、嫌な顔ひとつせずに甘寧を部屋の中に誘った。気難しく、気に入らない相手の首は容赦なく誇張無しに斬り飛ばす甘寧は兵士達の畏怖の対象になっていたが、呂蒙はそれ程彼の事が苦手ではなく、寧ろ好きな部類に入った。仕官時からの仲間だという事もあるし、何より―――
『司令官』
『おう、どうした甘寧?』
低い声でそう呼ばれ、こそばゆさを堪えて呂蒙は返事を請うた。偉大なる周大都督が若くして逝去し、その地位を受け継いだ魯粛が荊州の方に詰めている今、この合肥攻めの司令官に呂蒙が抜擢された。いくら周喩にその才を見出され、孫権自ら任命したといっても、粗暴な戦いしか出来なかった呂蒙の軍師としての腕はまだまだ未熟すぎる。それは自分でも解っているし、仲間内でも大抵は昔からの通り名で呼ばれ、「司令官殿」等とからかい混じりに呼ばれたことしかない。
それなのに、彼だけは。甘寧だけは自分のことを、司令官と呼んでくれる。無頼の徒にしては非常に礼を重んじる彼が、只儀礼に乗っ取った呼び方というだけだったとしても、それが凄く誇らしく嬉しかった。
『先日の用兵、見事だった』
『そ、そうか? あやっ、あれはお前が俺の思った以上に、動いてくれたおかげでもあるっ』
無表情の甘寧の鋭い猛禽の瞳から、感情を読み取る事は難しい。それでも褒め言葉に聞こえたその声に、呂蒙は照れながらも甘寧を褒め返した。先日進軍中に原住の江賊との小競り合いがあり、咄嗟に呂蒙が甘寧に軍を動かさせたのだ。結果的に呉軍の被害は殆ど無く、当初の予定通り航行を続ける事が出来た。
呂蒙の言葉に甘寧は何も気負わず軽く顎を引いて頷き、『ついては』と言葉を続けた。
『んむ?』
『褒賞を頂きたく』
言葉と共に吐息を、酷く近くに感じ。
あや?と首を傾げた時には、唇を塞がれていた。





「……ぐはぁっ!!」
そこまで思い出して、呂蒙は鼻血を吹いた。強烈な脳内の記憶に耐え切れず思考が煮え滾った。床に散った布で拭おうとして、それが甘寧の上着である事に気付いて慌てて放り出す。彼が自分の衣服について物凄く拘りを持っているのは軍内では有名で、下手に汚した従者が言い訳も許されず斬り殺されたのは一度や二度ではない。
「あややゃゃゃ…」
やむを得ず敷布に顔を押し付けながら、呂蒙はずぶずぶと床に突っ伏した。夕べの事は本当に、自分のそんなに多くない許容範囲を遥かに超えていた。
最中は―――、訳が解らないのと熱いのと痛いのと、で混乱しまくっていた。あの時鼻血を出さなかった事の方が信じられない。のぼせて気をやってしまってもおかしくない状況だったのに、そうはならなかったのは。
普段得物を付け、容赦なく敵を斬り殺すその掌が、驚くほど優しく自分の体を撫でていたり。
それによって触れられる自分の身体が、まるで姑娘のようにほどかれてしまったり。
間断なく与えられる痛みと同時の快楽に耐え切れず、自分よりも広い肩にしがみついていたから、かもしれない。
「ぐわああぁぁああ」
頭を抱えて呂蒙は野太い悲鳴を上げた。恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。出来るなら今ここで甘寧を斬り殺して自分も死にたい。多分、直前で起きられて返り討ちに遭うだろうけれど。
「…む………」
「!!!!!」
まさか殺気を感じたわけではないだろうが、その瞬間甘寧の細い瞼がぱちりと開いた。細い瞳孔がゆっくりと辺りを見回すために動き、ひたりと呂蒙に合わされて止まった。
「あっ、やっ、あやややややっ!!」
訳の解らない気恥ずかしさが全身を支配して、咄嗟に床に投げ捨てられていた自分の服をかき集めて頭から被った。頭だけ蓑虫状態になった呂蒙をどう思ったのか、甘寧は眉ひとつ動かさずゆっくりと視線を前に戻し、ぎしりと音を立てて寝台から降りた。するりと敷布が落ち、躊躇い無く晒された筋骨隆々の体を見てしまい、ますます呂蒙は沈没してしまう。
対する甘寧は憎らしいほどにいつもと微塵も変わらず、床に落ちていた上着だけを拾いばさりと羽織ると、そのまま部屋を出て行こうとする。
「ま、待て、甘寧!!」
思わず呼び止めると、予期していたのか自然にゆっくりと振り向かれ、呂蒙は固まった。何を何処から問えばいいのかさっぱり解らない。そんな器用な事が出来るほど混乱は収まっていないし頭の容量もやはり足りない。
「あやっ、あの…ゆ、夕べのあれ、は」
口をぱくぱく動かしながら、呂蒙は必死で言葉を紡ぐ。顔を振り向かせただけだが甘寧も何も言わず只待っている。その落ち着きぶりに少しだけ静まった心を以て、呂蒙は詰まった喉をどうにか動かした。


「あ、ああ、あれで褒賞にっ、なったのかっ!?」


…………沈黙が部屋に落ちた。僅かな河の流れる音だけが、耳を擽る。
「…あやや……」
叫んでから、呂蒙は再び床に突っ伏した。一体何を問うているのか、もうちょっと聞かなければいけないことがあるのではないか。もう自分ではどうしようもなくて、縋るようにそっと甘寧を見あげ…驚いた。
甘寧の細い目が、普段の1.5倍程大きく見開かれている。付き合いは長いが、初めて見る顔だった。驚いているのだ。と気付いてそのことに呂蒙の方が驚いた。
そして彼は更に驚く光景を目撃する事になった。
「…………無論」
す、といつもと同じぐらいに目が細められ。
言葉と共に、本当に本当に僅かだったが。
その口の端が、に、と上に持ち上げられた。
それはきっと、呂蒙程の洞察が無ければ気づかれない程のものだったけれど。
紛れもない、初めて見る甘寧の笑顔、だった。
ぽかん、と口を開けて固まってしまった呂蒙をどう思ったのか、甘寧は再び前に向き直り、低い声で呟いた。
「接岸は四日後」
「あ…? あやっ、そ、そうだがっ」
「身体を整えておけ」
「…ぐはっ!」
一瞬遅れて何を指摘されたか気付いた呂蒙が、一気に顔を赤くして鼻血を吹いた。
「案ずるな。着くまでは、もう行わん」
「ぅ、あ、あやや…」
言いたいことだけ言って、甘寧は部屋を出て行ってしまった。後に残された呂蒙は危うく気をやりかける頭をどうにか宥めるのに精一杯で、最後に言われた「着くまでは」との限定に気づくことは無かった。
それに気付かされるのは合肥にて張遼と激戦を繰り広げて後、城に駐屯してからの事になる。