時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

フィンガーチップ&リップ

手を繋いだのはボクの方から。
抱きついたのもボクの方から。
決して拒む事はされなかったけれど、
蛭湖は…ボクに、触れてこない。




「柳ちゃんは、烈火くんとキスしたことある?」
ぶぷぁっ!!
放課後のそれなりに込み合ったファーストフード店に、あまり相応しくない放射音が響く。自分に向かってきたオレンジ色の霧を、葵は予期していたのか素早く空のトレイを顔の前に立てて防いでいた。
「あ、あ、あ、葵ちゃんっ!! いいいいきなりなにー!?」
飲みかけのオレンジジュースを殆ど霧にしてしまった柳は、顔を真っ赤にしてトレイを戻した葵に食って掛かる。無論、迫力は全く無い。それを受ける葵の顔は、いたって真剣だった。
「したことあるんだ?」
「な、あ、う…」
「あるでしょ?」
「………………………………………………ハイ…」
静か且つ容赦の無い問いかけに、ぷしゅるるると音を立てて萎みながら柳は頷く。うっかり自分から仕掛けてしまった時のシチュエーションを事細かに思い出してしまい、顔は愚か全身真っ赤に染め上げている。
と、不意に葵の目が窓の外に逸らされた。声になる事は無かったが、その時僅かに動いた唇は確かに言葉を紡いでいた。
「…いいなぁ」と。
「葵ちゃん…?」
その事に気付いた柳がおずおずと話し掛けると、葵はうん、と一度頷いただけで、俯いてしまった。人形のような陶器の色の肌は、僅かに赤い。眉根が下がり、今にも泣き出しそうな子供のように頬が歪んだ。
「蛭湖は、ボクとキスしたくないみたい」
「葵ちゃん…」
「触るのはいいの。平気なの。でもボクの方からくっついてばっかりで、蛭湖はボクに手を伸ばしてくれない」
全ての頚木から開放されて後、死四天の生き残りである蛭湖と葵は、まるで寄り添うように二人で、密かに「普通の生活」を始めた。今まで深い海の底でしか生きてこなかった二人にとって、それは中々大変な事であったけれど、気のいい「仲間」達に支えられて、何とかなってこれた。
「やっぱり、ボクが……失敗作、だから駄目なのかな?」
俯いた顔に浮かぶのは、自嘲の笑い。まだ光の溢れる世界に完全に馴染む事は出来ず、戸惑いや畏れが先に立つ。そんな時一番そばにいて欲しい人間がいないのは、葵にとってかなり苦しい。未だ精神は不安定で、こういう僅かなきっかけによって容易く傾いてしまう。
「葵ちゃんっ!!」
びたん!
「っ! や、柳ちゃん?」
大声で名前を呼ばれたと同時に、両側の頬を同時に叩かれた。正確には、白くて小さな手で顔を挟まれた。そんなに痛くは無かったがその行為自体に驚き、葵は目を瞬かせる。
「そんなこと言っちゃダメ! わたしも烈火くん達も蛭湖さんだって、そんなこと思ってる筈ないんだからっ!!」
僅かに涙を浮かべてまで、柳はきっぱりと言い切る。その瞳は凄く真剣で、葵は呆然とした後――――笑ってしまった。
「ふ、あはは」
「あ、葵ちゃん?」
「柳ちゃんてさ、本当ヘンな子だよねぇ」
「ええええ!?」
手を引っ込めないままおたおたと慌てる柳に、葵はもう一度声を上げて笑った。作り物じゃない、心底おかしくて笑う笑顔で。
根拠なんて無い、希望的観測にしか過ぎないことを、心の底から信じて言い切れる強さ。こんなところに、自分は変えられたのだろう。
頬に触れたままの温かさが心地よくて、葵はその手をそっと自分の手で包み込んだ。
「ありがと。ちょっとだけだけど、元気でた」
その事を伝えたくて、そう呟くと、やっぱり彼女も嬉しそうに笑ってくれた。






大切な友達と別れて、葵は家路を急ぐ。あの後柳から、必殺技を教わったから。
『わ、わたしね。すっごい不意打ちだったんだけど…わたしの方から、烈火くんに……キス、しちゃった、の』
やってみよう。まだ少しだけ尻込みしてしまうけれど。
手に入れる為には、自分から足を踏み出さなければいけないと教わったから。
「―――葵?」
「えっ? …蛭湖!」
不意に横から声をかけられ、慌てて急ブレーキをかける。恐らく丁度仕事が終わったのだろう、ラフな格好に着替えた蛭湖がこちらに向かって歩いてきた。嬉しさのあまり自分から駆け寄り、途中ではっとなって辺りを見回す。―――この辺りは住宅街。もう日は沈みかけて、人影は、無し。
「如何した。何かあったのか?」
辺りを警戒しているととったのか、蛭湖の身体が僅かに緊張する。今まで自分達が身を置いていた世界にとっては当然の行動だが、葵は慌てて首を振る。
「ううん、違うの! そういう事じゃなくって…」
?と首を傾げる自分より結構高い位置にある顔に対し、一瞬躊躇し、うんっと頷き、不意に広い肩に両手を伸ばした。掌の下の筋肉がはっと緊張するのが解ったけれど、構わずそのまま背伸びをして―――
「っ!!」
唇を触れ合わせる寸前、慌てて蛭湖が顔を仰け反らせた。ぁ、と小さく葵の唇から吐息の声が漏れる。腕の力が抜けて、すとんと大人しく地面に降りた。
「……やっぱり、嫌?」
「葵、何の真似だ?」
俯いてしまった葵に、訝しげな蛭湖の声が被さる。ぎゅ、と胸元を掴んで、葵はきっと上を向いた。
「ボクとキスするのそんなに嫌!? 蛭湖もやっぱり、ボクが失敗作だと思ってるから!? それとも―――それともっ、」
感情が爆発した。他の人の前でなら―――柳相手でさえもコントロールできるそれが、彼の前ではあっさりと冷静さを失う。
こんなの駄目だ、ガキっぽい、馬鹿げてる、と頭の中でひっきりなしに警告が飛んでいるのに、やめることが出来ない。
自分は蛭湖に依存している。自分が絶望に塗れていた時から、蛭湖は自分の言う事を何でも聞いてくれた。無茶な望みも叶えてくれた。今だって、自分の我侭に付き合ってくれている。
甘えていたのだ、彼なら大丈夫だと。だからこそ、
「ボクのこと……キライ、だから…?」
声が弱弱しく立ち消えた。肯定されたら、立ち直れないと思ったから。
「違う」
間髪入れず答えが返ってきて、驚いた。また俯いてしまっていた顔をぱっと上げると、口元に手をやって眉を顰めている蛭湖の顔が見えた。
「…せめて、場所を考えてくれると有難かったのだが―――」
「え……? !」
疑問符は一瞬、見た目よりかなり力強い腕の中に抱き込まれた。なに、と示唆する暇もなく、蛭湖の切れ長の目が近づいてくる。思わずぎゅっと目を瞑った瞬間、唇に柔らかいものが触れた。
「ん、ぅ……?!」
驚く間もなく、ぬるりとしたものが口腔内に入り込んでくる。自分の舌を絡め取り、遠慮会釈無しに暴れ回る。容赦の無いその動きに、葵は臆して顔を引こうとするが、しっかりと蛭湖の腕で頭を押さえられているのでそれも叶わない。
「ん、ふ、ぅ―――…んん、ん、ひ、ぅこぉ…」
「―――、ん――…」
やがて、酸欠によってか、かくんと葵の膝が笑った瞬間、唇が離れた。完全に弛緩した葵の身体は、しっかりと蛭湖の腕によって支えられている。
「…理由はこれだ」
「………ぇ…?」
とろんと蕩けた目で見上げられ、蛭湖はばつが悪そうに目を逸らす。
「歯止めが利かなくなることが、解っていたからさ」
「ひるこ…?」
自分の事を遠ざけていたのではないのか。そういう意味を込められて名を呼ばれ、蛭湖はゆっくりと首を横に振った。
「惚れた相手に強請られて、舞い上がらない男はいまい。だが―――葵。君はまだ、これ以上の行為は嫌だろう?」
ぁ、と小さく声を上げ、葵は腕の中で困ったように身を捩った。
そう―――葵は恐れている。これ以上触れ合う事、即ち相手に自分の身を晒す事を。男でも女でもない、自分の体を。
「不必要に傷つけたくは無かった。―――それだけだ」
すまなかったな、と耳元で囁いてやる。不安にさせたかったわけではない、と。
「うん………ごめんね、蛭湖」
「気にするな」
「ううん、それだけじゃなくて、色々。わがまま言って、ごめん…」
きゅ、と蛭湖の胸にしがみ付くと、宥めるように頭を撫でてくれた。
馬鹿な勘違いをしていた、と葵は自分を詰る。蛭湖は絶対に、自分を傷つけたりはしない。偏に、柳の指摘は正しかった。
まだ、全部は無理かもしれないけれど、信じたい。このひとのことを。
腕の中に抱き込まれたまま、ゆっくり自分達の家に向かって歩き出した。
「ボクも、頑張るから…」
「無理はしなくていい」
「ううん、頑張る。だから…キスぐらいは、たまにして欲しいなぁ」
ちょっとだけ甘えるように語尾を上げると、一瞬ぎしりと蛭湖の身体が固まる。
「………努力しよう」
躊躇しながらも、やっと返ってきた答えに、葵は幸せそうに暖かい場所で笑った。