時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

朝の風が、湖から吹いてくる。
朝日に照らされて醜い姿を曝す瓦礫達は、酷く滑稽に見えた。
「…気持ちいい…」
他の瓦礫より頭一つ出た先端にちょこんと座り、葵は風を受けて眼を細めていた。
その姿はまるで全ての汚れた楔から解放されたように見えて、蛭湖の眼を癒した。
「…あれ? 蛭湖、何やってるのそんなところで?」
漸く気配に気づいたのか、くるりと葵が振り向く。蛭湖が返事に一瞬窮する間に、葵はぽんっと瓦礫の上から飛び降り、かなり泥まみれになってしまった衣装をぱたぱたと叩いた。
「…全部。終わっちゃったね」
「……あぁ。そうだな」
歴史の妄執に取り憑かれていた二人の男は死んだ。忌まわしき年月の呪いは解け、新しい時がゆっくりと刻み出そうとしていた。
「さっきね。柳ちゃんに、誘われちゃった。また一緒に、学校行こうねって」
困ったように、しかしそれ以上に嬉しそうな声音を隠せず、葵が言葉を紡ぐ。その姿を見て、蛭湖の口元も綻ぶ。それに後押しされたように、葵はどんどん喋り出す。本当に、嬉しそうに。
「烈火くんも、当たり前だろって。土門くんなんか、俺んちで働けば良い、なんて言ってくれたし。何かね…ゴメン、上手く言えないや。どうしちゃったんだろ」
笑っているのに泣きそうで、嬉しそうなのに苦しそうな笑顔を浮かべる葵の頬を、軽く蛭湖の指が撫でた。慌てるな、とでも言うように。
「良かったな。葵」
蛭湖が言ったのはたった一言。それでも、その言葉は葵の心に素直に染み込んだ。
「…うんっ」
しかし、次に言われた言葉で、一気に葵の笑顔は打ち砕かれた。
「もうお前は―――一人でも大丈夫だ」
「………えっ…?」
意味が一瞬呑みこめず、朴訥な答えを返してしまった葵に、蛭湖は淡々と言葉を紡ぐ。
「お前は強い。もう、心無い言葉に揺らぐ事もそう無いだろう。あの治癒の少女達が居れば。――――俺には何もない。俺は、人を殺す術しか知らない」
「そんなの…っ、そんなのボクだって…!」
「お前は何度も、『普通の世界』に溶け込んで生活が出来ただろう。あれと同じだ、何も気負う事はない。俺には、そんな芸当は出来ないからな」
「だ、だって蛭湖っ…じゃあ、蛭湖はどうするの? どうなるの!? どこへいくの!?」
嫌な不安に掻き立てられて、葵は蛭湖の胸にしがみ付いた。それを振り払う事も抱き寄せる事もせず、蛭湖はただ少し困ったように笑った。
「気にするな。どうとでも生きてはいける。ただその道は、相変わらず光は刺さないだろう。―――お前は、もういい。深海から、光の当たる地上へ出ていけ」
物心ついた時から戦闘訓練のみを受け続け、生体魔道具「血塊」を移植された体。そこに感情を挟む余地など無く、ただ相手を倒す事のみに研ぎ澄まされた刃。それが蛭湖だった、魔道具が無くなった今でも、彼の生きる道は修羅しかない。少なくとも彼は、そう思っていた。
「や……」
「葵?」
「イヤだ…イヤだよ! せっかく、せっかく終わったのに! 蛭湖がいなきゃ…蛭湖もいなきゃ、イヤだよっ!! 蛭湖ぉ!!」
蛭湖の引き締まった胸板の上で、葵は何度も首を振って涙を流した。それはまるで幼児が駄々を捏ねる様と同じで、蛭湖は心底困った顔をして、ぎごちなくだが葵の濡れた頬を親指で拭った。
「子供か、お前は…相変わらず泣き虫だな」
「だ…だって、蛭湖が悪いからっ…しょうが、ないじゃないっ…」
事実、生まれてから数年しか経っていない葵は、情操に関しては「妹」である蓮華といい勝負だった。それでも蓮華よりはある経験から、余程の揺さ振りがなければそう感情が暴走することは今までなかった。



それは、葵が暴走しかけた時には常に蛭湖が側に居たから。
自分の不安定さに、失敗作と呼ばれるたびに、誰かに見捨てられるという恐怖に、部屋の隅で怯えて泣き出した時には、いつも。
蓮華に対する森のように、自らを愛させようとする小癪な言い方はせずに。
ただ何も言わず、葵が泣き止むまで待っていた。
立ち直った葵が「行こうか」と声をかけると、何も聞かずにただ隣に立った。
それは、ただそれだけのことだったのだけれど。
本来なら無心に庇護の愛を求めるだけの年齢の葵にとって、それがどれだけの支えになったのかは計り知れない。



「どうして一緒にいてくれないの…?」
恥も外聞もなく、本格的に泣き出してしまった葵に、蛭湖は降参の溜息を吐いた。
とうに気づいていた。自分がこの存在から離れられないことは。
思慕や情愛など、今まで一度も感じた事はない。
ただ、目の前のこの存在が、とても「尊い」と思った。
死四天という地位についた時、自分の前で無邪気に笑った子供。あからさまに感情を出す人間に等それまで会った事のなかった彼にとって、それは充分過ぎる衝撃だった。
剥き出しになって自分にぶつかってくる感情が、心地良かった。
側にいるべきだと思った。
だから。
「――――!? ひる、こ?」
何の予備動作もなく、蛭湖は葵の身体を抱き包んだ。涙に濡れた頬を、自分の服に押しつけさせた。
いつもなら慌てて振り払い、距離を取るはずだった。どんなに心を許したように見えても、肝心な部分に壁を作り、根本的に人を信じていなかった今までの葵ならば。
しかし葵は戸惑ったように声をあげただけで、身動ぎ一つしない。最後に残っていた殻を、かの火影の頭領が粉々に打ち砕いた為だろう。それを思うと、蛭湖の心中に安堵と同時にどこか落ち着かない気が浮かぶが、今はそんな小さな揺らぎにかかずらっていられなかった。
今なら。
今なら、きっと届く。
「葵」
「な…何?」
「お前は、今までずっと『人間性が欠落している』と自分を卑下していたが」
耳元で囁かれる言葉に、葵の身体が硬直する。宥めるように腕をもっと強く抱き締めて、蛭湖は続けた。
「お前はいつでも、自分の意志で笑い、泣き、怒ってきた。それを起こすきっかけがどんなものであろうと、それを吐き出せるのが『人間』なのではないのか? 私には、そんな事は出来ない―――否、そうするという概念が無かった。私のほうが余程、人間性が欠落している」
「そ…そんなことない! そんなことないよ!! だって蛭湖は、蛭湖はっ、作り物じゃないじゃない…!」
しっかりと筋肉のついた蛭湖の腕の中で、葵が暴れるが当然振り解けない。
「作り物だろうと、母親の腹から出ようと、生きていく方法はどうにでもなる。そんなことでは、本質など何も変わらない」
「だ、だけどっ…」
目の前の男からかけられるのは始めての言葉に、葵が必死に反論の言葉を探していると、不意に両肩を捕まれて身体を離され、眼をひたりと見据えられた。思わず固まってしまった葵に、真摯に蛭湖は言葉を紡いだ。

「お前は、葵という名前の一人の人間だ。―――言えば、嫌味に聞こえてしまうだろうと思ったから、黙っていたが」

ぽろりと。
もう一度、新しい涙が葵の瞳から零れた。
無くなっていた表情が、じわじわと戻ってくる。―――堪えきれない、笑顔に。
「…ずるいよ、蛭湖。何で今更そんなこと言うのさ」
ぽろぽろと、涙が零れ落ちる。それと同時に、顔がくしゃくしゃに歪んでいく。
綺麗とはとても言えないはずの泣き顔を、やはり蛭湖は「尊い」と思った。それ以外にその感情を表す語彙を、蛭湖は持っていなかった。
「もたもたしてるから、烈火くんに先越されちゃったよ? ――――嬉しかったのに。烈火くんに言われて、すごくすごく、嬉しかったのに。蛭湖が先に言ってくれれば―――っ」
首に飛びつくように抱きつかれたので、もう一度しっかりと抱き締め返した。
「もっと、もっと嬉しかったのにっ…!!」
「すまない―――」
「う…わああああああああああんん!!」
蛭湖の肩にしがみついて、赤ん坊のように葵は泣いた。
多分これは、この子供が始めてこの世界で上げた、産声だったのだろう。
「蛭湖ぉ…おねがい……ボクと一緒にいて…もうこれ以上、大好きな、人を、無くしたくなんかないよぉ…っ!!」
小さな子供が涙と共に零した、真摯な願い。蛭湖にそれを拒否する事が、出来るわけがない。
「承知した。引き受けたからには、お前が望む限り―――――、命を賭して、お前の側にいよう」
耳元で小さく、誓いの言葉を囁き。もっと力を込めて葵がしがみついてくるのに任せ、しっかりとその体を両腕で支えると。
光に向かって、二人で一歩を踏み出した。