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der Geburtstag

カロン。
小気味いいドアベルの音を立てて、手塚は兄の店に入った。
「あ、光くん? ちょうど良かった、これ君のかい?」
「…?」
手渡されたのは、銀色に鈍く光る何の変哲もないシャープペンシル。
「違うけど」
「そう? 君がこの前来た日に忘れてあったから、君か君の友達かどっちかだと思うんだけど」
「………」
そういえば。
練習メニューやその他部活のことを話す時、知っておいたほうが便利だろうと、自分の家の電話番号をノートの切れ端に書いて、それから――――
あいつがそれを仕舞っていた記憶がない。慌ただしく帰ったので、その時失念してしまったのだろう。
「多分、あいつのだと―――」
「やっぱり。それ、返しておいてくれる?」
「えっ……」
絶句した。
返す。当然だ、忘れ物は返さなくては。
しかし、自分は彼の家を知らない。学校まで行けば会うことは出来るだろうが、一応ライバル校の部長である自分が来て、変な勘繰りを受けたりするのは嫌だ。相手に迷惑がかかるかもしれない。電話をかけて呼び出せばいいが…たかがこんなことで呼び出すのも却って悪いのでは…
手塚はぐるぐると回る思考の袋小路に落ち込んでしまった。即断即決、問答無用と言う四字熟語が良く似合う彼にとって、これはすごく珍しいことだった。
「光くん?」
怪訝そうに自分の名を呼ぶ兄の声にはたと我に返る。
「…解った、返しておく」
そう言って踵を返しかける弟を、慌てて引き止める。
「待った待った、折角来たんだからお茶飲んでいきなさい」
不機嫌そうに振り返った弟を無理矢理椅子に座らせて。
「何か気になる事があったら、お兄ちゃんに相談しなさい」
ね? と首を傾げる兄に、弟は一つ溜息を吐いて。
しぶしぶ、といった感じで話しはじめた。
自分がここ数日、妙に考えてしまう一人の男について。



「……成る程」
ぽつぽつと話し続ける弟の言葉にいちいち頷きながら、国風は納得していた。
この自分にも他人にも厳しすぎる弟は、齢14だと思えないほどしっかりしすぎていて、手がかからないにも程がある中学生である。そんな彼が兄に頼ってきたことがまず嬉しく、その内容で更に嬉しくなった。
ライバル校の部長の存在が凄く気になる事。
先日来たのはその本人で、何故か良く会話が合って、意気投合してしまったこと。
しかし下手に仲良くなってしまえば、母校のテニス部員を裏切ることにならないかと。
それでも、自分は彼と仲良くしたいらしい……こと。
「どうすれば良いのか、解らない」
最後にそう言って俯いた彼の顔は、凄く年相応に見えた。どんなに大人びても彼は中学3年生で、まだ子供なのだ。
「うーん…老婆心でアドバイスさせてもらえば、君がライバル校の人と仲良くしたって悪いことはないと思う。部活とプライベートは別だろう? それとも君が、青学の不利になるような情報を流す?」
「まさか」
語気を強めてきっとこちらを見据えて言う弟に苦笑する。
「君の仲間だって、皆そう思ってるさ。そんなこと、勘繰る奴には勝手に勘繰らせておけばいい。事実じゃあないんだから」
カウンターに肘をついて、にっこり笑って断言する兄の言葉に、少し安心した。
「それと…光くんもうすぐ誕生日だね」
「? …はい」
いきなり話が飛んで、手塚の眉間に不審げな皺が寄る。
「誕生日って言うのはね、1年に一度だけ我侭を言っても良い日なんだよ。逢いたい人と逢って、プレゼントを強請っても文句は言われないんだから」




「手ー塚っ。誕生日、おめでとう」
10月7日。朝練に出てきた手塚を迎えたのは不二の第一声だった。
「あ、手塚今日誕生日だっけ? おめでとう」
近づいてきた大石が笑って言う。ベンチに腰掛けていた手塚は二人から見下ろされる形になる。
「あぁ…ありがとう」
「もう。手塚ってお祝いの言いがいがないよね。せめて少しぐらい笑って見せてよ」
「うわ〜よせよ不二! 想像出来ねっての〜」
けたけた笑いながら不二に覆い被さっている菊丸に一睨みかますと、さささっと逃げて大石の後ろに隠れられた。
「何だよ〜、ホントの事じゃん!」
「英二…手塚に失礼だろ」
「じゃあ大石、手塚の満面の笑みなんて想像出来る?」
「…………」
目を明後日の方向に向けて考え込む青学の母。
「はっはっは! どう考えても無理だなァ!」
ゲラゲラ笑っているのは河村。勿論手にはラケットを持っている。この状態は怖いもの知らずなので、部長の眼力もあまり効かない。
「少なくとも青学に入学してから、笑顔のデータは無いな」
ノートを小脇に抱えてやってきたのは乾。
「乾、それ本当?」
「このデータに穴は無い」
「いつも思うけど、どうやって調べてるんだ…?」
「無論観察だが」
乾、それはストークだ。乾除く全員分の心の呟き。
「お前等、そんな校庭を走りたいか」
「まさか」
「しかし表情は少し和らげた方がいいぞ」
「…………」
乾の言葉にふと、ある言葉が思い出された。


『たまには笑ってみろ。感じ良いぞ』


随分あっさりと言われた言葉だったけれど。
そんなことを自分に言ったのは彼が始めてだったので。
「そういう、ものか…」
脳裏に、自然に笑うあの男の顔が思い出された。
あんな風に笑えたら、確かに良いかもしれない。
ふと気がつくと、周りが全員固まって動きを止めている。
不二は思いきりその瞳を見開いて、
大石も目を真ん丸にさせている。
菊丸はぽかっと口を開け、
いつも煩い河村も唖然としている。
乾は少しだけずれた眼鏡をかけ直した。
その様子に不思議そうな視線を向けた後、ベンチから立ちあがり、
「………さぁ、いつまでも遊んでいないで、練習を始めるぞ」
そう言ってコートの方に歩いていく彼を五人は呆然と見送って。
「…………びっくりした」
長い沈黙をようやく破ったのは不二だった。
「………うん、驚いた」
大石がはぁっと詰めていた息を吐き出す。
「ふわ〜、すんげぇイイもの見たかも」
さっきあれだけこき下ろしていた菊丸だが、一番素直な感想を述べた。
「いやー、これで今年の運を使い切ったかもしれんなぁ!」
良く解らない結論を出す河村。しかしその顔は嬉しそうだ。勿論他の面々も嬉しそうだったが。
一生見ることが出来ないだろうかと思っていたものを、こんなにあっさり見れたのだから。
「うん、良いデータが取れた」
そう呟く乾の笑みに別口の嬉しさが混ざっているような気がして、そちらに視線を集めてしまった青学レギュラーだった。

 
ジリリリリリン、ジリリリリリリン……
ガチャッ
「はいもしもし橘です。……えっ? あ、はい! 兄さーん!」
「誰からだ、杏?」
「びっくりした、手塚さんよ、青学の」
「手塚から?」
驚いて、手渡された受話器を耳に当てる。
「もしもし?」
『手塚だ。いきなり電話をして済まない』
落ちついた声音が耳を擽った。間違いなかった。
「いや、別に構わんが…どうした? 何かあったのか?」
『……この前会った時…店に筆記用具を忘れていっただろう?』
僅かな沈黙の後、返って来る答え。心当りはあった。
「あぁ、やっぱりそこか! すまん、わざわざ知らせてくれたのか」
『いや……』
言葉少なに返し、沈黙が続く。
『これが無いと、不便か?』
ようやく向こうからかけられた声は、意図が解らないもので。 
「ん? …いや、替えはあるからそんなには…」
『そうか…』
また、沈黙。どうにも、電話は不便だ。
顔を見ればまだ、相手が何を言いたいかぐらいは解るのだ。元々そう言うことには敏かった。仏頂面にしか見えない彼の顔も。
そう考えると、無性に会って話したくなった。
「手塚」
『…何だ』
「今から、取りに行っても良いか?」
受話器の向こう側から、僅かに息を呑む音が聞こえた。
「勿論、迷惑ならやめるが」
『…いや、構わない。店に来てくれれば、良い』
「あぁ、解った。すぐ行く」
それだけ言って、電話を切った。
「どうしたの、兄さん?」
「悪い、これからちょっと出てくる。夕飯先に食べといてくれ」
「えっ、これから!?」
背中にかかる妹の驚いた声を無視して、上着を取ると着る間も惜しんで走り出した。



ゆっくりと受話器を降ろして、ふぅと息を吐いた。
しかしのんびりはしていられない。兄の店まで行かなければ。
両親はいつも遅いし、少しばかり無断で出ても何も言われない。
ずっと机の上に置いてあった銀色のシャープペンをそっと手に取ると、こちらも店に向かって走り出す。
彼と自分を繋ぐ、もう一本の糸。…これを彼に返したら、その糸は切れてしまうのだろうか。
それがほんの少しだけ嫌で、手の中のそれをぐっと握り締めた。
冷たい金属で出来ているはずのそれは、何故か少し暖かかった。





「橘くん、…だよね?」
聞いた事のある声に名前を呼ばれてふと振り返った。そこにいたのは、
「あ、どうも…ご無沙汰してます」
慌てて止まって頭を下げる。勿論、手塚国光の兄だった。
「久し振り。どうしたの、そんなに急いで?」
「いえ、これから――あれ? 今日も店、休みなんですか?」
「もって…今日はちゃんと定休日…あれ?」
彼が向かうらしい方向が、自分が今歩いてきた方向らしいと気がついて。
「もしかして、店に行くの? 光くんに呼ばれて?」
頷く橘に、しばし黙考して。
「橘くん、良い事教えてあげようか」
「は?」
「今日、実はね…」






ようやく着いた店の前の階段に、人影がしゃがみこんでいた。
「手塚!」
名前を呼ばれ、ゆるゆると頭を上げる。
「…………橘」
「何で外に…鍵持ってるんだろ?」
「家を出る時、忘れた…」
「寒かっただろうに…スマン、いきなり勝手なことを言って…」
心底済まなそうに頭を下げる橘を、手塚は黙って見上げたまま首を振った。
「別に、構わない。俺も……」
お前に会いたかった。
その小さな言葉は風に攫われそうになったが、相手の耳にしっかりと届いた。
「手塚…」
「………」
「…今日、誕生日なんだって?」
「! 何で知っている…?」
「来る途中、お前の兄さんに会ってな」
「そう、か…」
また、沈黙。でも、居心地は決して悪くなく、寧ろ安心できた。
「誕生日、おめでとう」
少し笑ってそう言ってくれる相手に、笑いかけようとしたが、上手くいっただろうか。




不意に。
腕を掴まれ、引き上げられた。
何を、と思う前に、相手の腕が背中に廻された。自分よりほんの少しだけ太いその腕は、暖かった。
「冷えてるな」
耳元で囁かれたその声は凄く心地良くて、抵抗する気が失せた。
「橘」
「何だ?」
「我侭を、言っても良いか…?」
「……あぁ」
「…プレゼントをくれないか? これが、欲しい」
相手の目の前に差し出した、小さなシャープペン。
「そんなんで、良いのか? 使いさしだし、安物で―――」
「…これが、欲しいんだ」
「……あぁ、いいぞ」
後は、何も言わなかった。ただ、二人で立っていた。
お互いに支えられることが、此れほど心地良いことだと二人は知らなかったのだから。