時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

BRIND.

がちっ、ばきん。
部室に響くこんな音は、大抵何かの破壊音である。
今回の音源は、部室の中に入ろうと一歩踏み出された海堂の足の下の、…………分厚いレンズの眼鏡なわけで。
「っ…………」
「…あちゃあ……」
息を呑んだ瞬間固まってしまった海堂。
眼鏡の持ち主は視力は勿論低かったが、音とその声で何が起こったかを大体理解し、責めとも慰めともつかない溜息を洩らした。
「あぁーあ、海堂やっちゃった〜」
「菊丸……元はと言えばお前のせいだろうが」
「う。そ、そんなことねーもん…」
茶化す様に言った菊丸に、乾がじろりと良く見えない目で視線を送る。事実、ノートを纏めていた乾の眼鏡を隙を見て取り上げ遊んでいたのは菊丸で。何とかとり返そうとして目測を誤った乾の手が眼鏡を弾き、床に落ちたところに部室のドアが開き―――、
最初の音に繋がるわけである。
「と、言うわけだから。海堂、気にしなくていいよ」
「…………」
簡単に説明してフォローを入れようとした乾だったが、その声が聞こえているのかいないのか、海堂は未だ顔を青ざめたまま固まっている。
「…海堂?」
「っ! す、スンマセン!!」
慌ててしゃがみこみ、足の下にまだあった眼鏡だったものを拾い上げる。
「あ、いいよ拾わなくて! 怪我するからっ」
こちらも慌ててその行為を止めようとして、机に邪魔されてたたらを踏む。視界がぼやけてはっきりしない。いつも利用している部室なのに、あっという間に歩きにくい場所に変わる。
「乾、無理しないで。…ほら海堂、眼鏡こっちに渡して?」
今まで事態を静観していた不二がフォローに回る。言われるままに残骸を不二に手渡すが、その手は細かく震えていた。
どうしよう?
どうすればいい?
頭の中でぐるぐると回るのはそんな問い。
この世で一番尊敬する人物の必要不可欠なものを破壊してしまったという事実が、そう言うところに関して生真面目な海堂を責め苛んでいる。
―――弁償とか、するべきだよな…
そう言う風に考えると、少し前に『自分は視力弱すぎて特注なんだ』と言われたことを思い出してますます落ち込んだ。
中学生の小遣いではとても弁償なんて出来ないかもしれない。いや勿論どんな無理をしてでも払う気でいたが。
しかし、そんなことは問題ではない。
兎に角、『乾のモノを壊してしまった』というのが申し訳なくて仕方がない。
弁解も出来ず俯いてしまう。
そんな後輩の様子に気づいているのかいないのか、不二はフレームのひしゃげた眼鏡をそっと持ち上げて見た。
「あ、レンズ片方無事だね。でもフレームはもう駄目かな。もう片方もぱっくり割れてる」
「そうか…参ったな」
ぼやけ過ぎる視界をどうにかしたくて何度か擦り、無駄を悟って眉間に皺を寄せる。小学生の頃からやっていたパソコンと根を詰める勉強のせいで急降下していった視力は、必然的に眠る時以外の眼鏡の着用を余儀無くされていたので、素の視界で周りを見るのは久々だった。
髪が茶色いので恐らく不二だろうと解るぐらいの視界で、手渡された眼鏡のなれの果てを受けとってハンカチで包む。前述の通り眼鏡を使いすぎる生活なので、眼鏡ケースというものは持ち歩いていない。
「大丈夫? 替えの眼鏡とかないの?」
「家に帰れば、あるよ。部活終わった後なのが不幸中の幸いだな。只…」
「今日どうやって帰るか、だね?」
「そう言うコト」
「乾、そんなに目ェ悪いの?」
「あのな。俺は裸眼で小数点第一位無いんだぞ」
「え゛。ウソぉ!」
視力の良すぎる菊丸にとっては眼鏡というもの自体がピンと来ていないらしく、そんなに罪悪感を持っていなかったようだが、やっとコトの重大さを理解できたらしく……
「じゃあさ、じゃあさ乾。これ何本に見える?」
にゅっと乾の目の前にピースサインを突き出し。
「……………三本、かな?」
「マジでー!? おっもしれー!!」
……あんまり理解してないかもしれない。
「菊丸……諸悪の根源はお前だろうが」
「あ〜ごめんってば! ちゃんと弁償するよん」
声に不穏な空気が混じった乾にさすがに拙いと思ったのか、慌てて弁明する。
「ぉ、俺が弁償します!」
間髪いれず、海堂が叫ぶ。その声の大きさに、周りの3人が視線を集めるほどに。
「本当に、すんませんっした!!」
「ちょ、待った海堂。さっき説明した通り、俺も原因の一端なんだけど」
「そうだよ海堂、悪いのは主にエージと乾なんだから、キミが気にする必要なんてないんだよ?」
「不二……」
「だけどっ…」
「あ〜俺が言ったこと気にしてる? だいじょぶだって! 俺が悪いんだから!」
「でも、俺が壊したことは間違いないし…」
「海堂…弱ったな」
下げた頭を戻そうとしない海堂には、このままだと何を言っても自責しかしないだろうことは予測できたので、本当に困った様に乾が頭を掻く。それでも視界に入ってくるのははっきりと像を結ばない絵ばかりで、すっきりしない。
「じゃあ、こうしたら? 海堂は何か償わないと申し訳ないんでしょ?」
指を一本ぴんと立てて問うてくる不二に、ぐっと息を呑んで頷く。それはもう、償いになるならどんなことでもやりますと言ってるぐらいの勢いで。
「乾も取り合えず、今日無事に帰れればそれからの行動に支障は無いわけでしょ?」
「あぁ」
「だったら。今日の帰り、海堂は責任持って乾を家まで送り届けてね」
にっこり。と自分の考えが凄い名案であると疑うことのない笑顔で、不二はこうのたまった。





「…それじゃまぁ、宜しくお願いしマス」
「……うス」
何だかんだで数分後。身支度を終えた二人は校門の前まで歩いてきた。ここまでは人ももうあまりいず、広かったのでそんな支障はなかった。が、街中に出るとすれば交通量の少ない通学路でも、危険としか言えない。
「…どれぐらいなら、見えるんスか?」
おずおず、という形容詞が似合いすぎるような声音で問われ、笑いを噛み殺して答える。こんな弱気な海堂を見るのは(良く見えないのが残念だと思うくらい)滅多にないことなので、正直嬉しかったりしている。
「うん。この位置で、表情は全然解らない。ちゃんと目鼻が判るのは…」
ほぼ隣に立っていたが、身長差も手伝って結構距離は開いている。腰を屈め、恐らくぶつからない程度であろう位置まで顔を下げた。
「この辺かな?」
「ッ……!」
またしても、海堂は固まった。こんな間近で相手の顔を見ることなど無かったし、尚且つ目の前にいる先輩は常につけている分厚いレンズのベールが取れている。彼の目自体、滅多に見ることがなかった。それがすぐ側にあるという事実が、海堂の心拍数を飛躍的に上昇させた。
心臓が耳元に移動したんじゃないかと思うぐらい、音が煩い。
「どうした?」
流石にこの位置まで近づけば、表情も顔の赤みも良く判る。口元が緩むのに任せて問う。
「っ…判ってやってるだろアンタ…」
「何が?」
「…性格悪ィ……」
ぼそっと呟き、踵を返して本当に歩き去ろうとしかけたので、慌てて追いかけた。本当の話、ナビゲーターがいないと家まで帰りつけないかもしれない。
「悪い、海堂……っ!」
謝りかけた時、マンホールの段差に気づかなくて、がくっと転びかけた。毎日通る道にあったはずなのに、覚えがない。人間ってのは視界に入っているものの殆どは見ていないと言うのは本当だなぁ、とぼんやり考える。
「大丈夫ッスか!?」
先行しかけた海堂が慌てて戻ってくる。
「ゴメン、平気。ちょっと驚いただけだから」
「……スンマセン……」
本当に済まなそうにまた頭を下げる海堂に、まずったなぁと思う。本当に変に負い目を持って欲しくないから不二の提案に乗ったのに、これでは逆効果だ。
と、何かを決意したような顔を上げ、海堂が自分に近づいてきた。
がし。
「…っ海堂?」
「このまま進みますから。道、教えてください」
乾の長い腕に自分の片腕を巻きつけて、顔を赤くしたまま海堂が早口で言う。対する乾の方も僅かに赤面している。
人前でスキンシップを取るのは何より苦手な彼が、自分と腕を組んで往来を歩こうと言うのだから、まぁ無理の無いことで。
「……どっちすか」
「あ、このまま真っ直ぐ…です」
「うス」
鬼気迫るような海堂の声にしばし呆としたまま答え、そのまま不完全な二人三脚は歩き出した。



しばしの間の後。
だむ、と乾は我が家であるマンションの一室のドアに手をついた。
「あー着いた………」
「大丈夫スか…?」
「ん、平気」
肉体的には。精神的には色々な意味で凄く疲れたが。
「それじゃ…」
する、と解けそうになる腕を、慌てて自分の方から掴んだ。
「え……」
「上がってきなよ。お礼したいし」
「そんなの…」
「いいから」
自分はお詫びとして来ただけで、と言い募る海堂を無理やり家の中に引きずり込んだ。まだ、離れたくなかったから。
簡素なリビングに通されて、海堂は所在なげにソファに座っていた。どうにも腰が落ちつかない。
友人の家に来る事自体、始めての経験だ。
ふと、自分の左腕に手を置く。熱い。二人とも大して体温も高くないのに、触れ合った所だけが酷く熱を持つ。
「おまたせ」
この家にいる自分以外の人間の声にはっと我に返る。扉を開けて入ってきた乾は、いつものトレードマークである黒縁眼鏡で目を隠していたので、正直ほっとした。
「やっと落ちついたカナ」
「……俺もス」
「? 何で」
お茶がのったお盆をテーブルに置き、そのまま海堂の目の前の床に座る。視線の高さがいつもと違って新鮮だ。漸くしっかり相手の顔の像を捉えることが出来て、安心する。
「……………」
「……………」
気まずくない沈黙が落ちる。これは二人きりの時はよくあることなので、気にしない。黙って、相手が喋り出すのを待つ。
「……落ちつかないんスよ、アンタの目…」
「どうして?」
「……普段…見ねぇから……」
観念したのか、それでも目を逸らして海堂が言う。
普段見ることのない相手の一端を見ると、落ちつかなくなるのは当たり前で。
それは知らないところを見つけた自分の喜びかもしれないし、焦りかもしれないが。
ふと、悪戯心が沸いた。
「こんなんで良かったら、いくらでも見てくだサイ」
そう言って、眼鏡を鼻の頭辺りまでずらして、相手の膝に肘を置いて顔を近づける。
「やめっ……!」
あっという間に海堂は顔を赤くして仰け反った………らしいが、哀しいかな眼鏡がずれた視界でははっきり捕らえられなくて。
乾は始めて、自分の視力が低いことを後悔したりした。