時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

sich vermindern.

その日、菊丸英二は大変気分が宜しくなかった。
どれぐらい宜しくないかと言うと、彼の親友でありチームメイトである不二<天才>周助が、一瞬声をかけるのを躊躇うほどだった。一瞬だけだったのは流石だが。他のクラスメートはいつにない彼の落ち込みぶりにどことなく遠巻きにしている。こんな状態の気分屋に話し掛けられるのは彼の相方か不二しかいないだろう。
「…エージ。機嫌悪いけど、何かあったの?」
返事はない。周りにどうも、重たい空気が纏わりついている様な気がして、やれやれと溜息を吐いた。
目の前の机に突っ伏している親友を見下ろして、不二は彼の前の席に腰を下ろす。
「エージ」
ちょっと強く名前を呼んでみる。ぴくりと肩が動くが、まだ起きない。
「…キミが後ろでそういう空気醸しだしてると、すっごく勉強しにくいんだけど」
「…………う〜」
しぶしぶ、という感じでむくりと菊丸が身体を起こす。その動きすら随分と緩慢で、普段のアクロバティックプレイヤーの見る影もない。
「どうしたの?」
ん? と首を傾げて不二が優しく促す。こういう所は弟がいるだけある、と言える兄貴ぶる仕種だ。菊丸は沢山の兄姉に甘えて育った分、不二のこんな所に弱い。目を逸らして、ぶつぶつと何事か呟いていたが、不二の視線が動かないことに観念したのか、そちらを向いた。
「だってさ」
「うん?」
いきなり本題に入るらしい。こんな突発的な話題の飛び出しも菊丸には良くあることなので気にしない。にっこり笑って促した。
「今日……まだ一度も逢ってねーんだもん」
「あ、そうか。今日朝練無かったものね」
先日の対外試合で完全燃焼したレギュラー達は、朝練を免除されていたのだ。彼の不満は、それにより黄金ペアと銘打たれた自分の相方との接触が無かったことらしい。馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しいのだが、本人は真剣である。不二も半ば呆れ半ば羨んで、言葉を続けた。
「でも、朝は一緒に学校来たんじゃないの?」
いつも大石の方が菊丸を家まで迎えに行って、一緒に登校しているはず。その問いに菊丸はふるふるふるっ、とくせっ毛の頭を振った。
「家まで来たらしいけど…俺が起きなくて、大石も急いでたから先行くって」
「何だ。それはエージが悪いんじゃない」
「それは! …そうだけど、でもそれだけじゃねーもん…」
尻すぼみになる菊丸の声音に、本格的に落ち込んでいるらしいことを感じ取り、不二も姿勢を正した。目の前でまた俯いた頭をよしよしと撫でてやる。
「まだ、何かあるの?」
「……学校来て、すぐ2組行ったら…あいついなくて。何でって聞いたら委員会で、だから早く来てたんだってこと…知らなくて」
「うん」
「あいつ委員長だから、忙しいの知ってたけど。仕方ねーじゃん知らないの、だって何にも言わないから!」
「うん」
「クラス委員だってやってるから、休み時間とか全然会えないし! いっつもいっつも俺から行かなきゃ会えないのにっ!!」
段々声が大きくなって、大きな吊り目に僅かに涙が浮かんでいるのに気付き、不二は困ったように笑ってまた頭をぽんぽんと叩いた。
「つまり、エージは『大石不足』なんだね?」
「…うー」
うん、ともううん、とも言いたくなかったらしく、中途半端な答えを返した。
「大石は、エージに心配かけたくないだけだと思うよ?」
「それが嫌なんだよっ! だって俺、あいつに心配ばっかかけてんのに!」
不二の弁護をあっさりと一蹴する。
「…まぁ、そうだよね。大丈夫、次の休み時間に会いにいきなよ。今度はきっと会えるから、存分文句言ってくれば?」
「…うん」
しかし不二もどちらかと言うと菊丸寄りの人間なので、すぐ彼のフォローに回った。菊丸も叫ぶだけ叫んですっきりしたのか、こくんと肯く。
そこでちょうど担任が入って来たので、ここでこの話はお開きになった。



キーンコーンカーンコーン…
の、「キー」が聞こえた時点で教室の号令も無視し、菊丸は6組教室に向かって猛ダッシュを開始した。目的は当然、多忙な相方を捕まえることである。この学校、1組から5組と、6組から11組までは建て増しの為別棟になっている。割と遠いのだが、何の躊躇いも無く菊丸は全力疾走だ。
しかし。
行くたびに、やれ職員室に課題提出だの、やれ先生から呼び出されただの、本当に何かに呪われてるんじゃないかと思うぐらいすれ違う。毎時間よろよろしながらクラスに戻ってくる菊丸を見ながら、不二も流石に可哀相になってきた。
「本当に今日は縁がないねぇ」
「…もーやだ。疲れた。…手塚の馬鹿〜」
先程は手塚と共に竜崎先生の所まで行ったらしい。その後すぐさま職員室に行ったのに、もう居なかった。本当に完全にすれ違っているらしい。
「もう行かない。もー怒った。部活まで絶対会ってやるもんか〜」
「はいはい」
この台詞も、不二は毎時間聞いている。聞いているのに、終りのチャイムが鳴るとすっ飛んでいってしまうのだ。最早条件反射なのだろうか。
そして、昼休み開始のチャイムが鳴―――
「よっしゃあああっ!」
バタバタバタバタッ!
「あ、エージ!」
…った瞬間、既に菊丸の姿はそこに無し。
「…待ってたほうが、会える可能性高いと思うんだけど」
このすれ違いっぷりは、恐らくどこかで行き違いになっていると思って間違いない。つまり、大石も菊丸を探しているのだ。
事実、程無くして。
バタバタバタ!
「ごめん、不二! 英二知らないか?」
「…ほら、やっぱり」
「え?」
大石が6組を訪ねてきた。
「エージは今キミを探して校内を行脚してるよ」
「えっ…そうか。ごめん、ありがとう」
バタバタバタ…
いつになく慌てた風の大石は、礼を一言言うと身を翻して走っていった。
「大石! ……まったくもう、世話が焼けるなぁ」
お互いがお互いを探しているなら、どちらか一人が留まったほうが会える可能性が格段にあがるのだ。事実、少し待っていれば菊丸が帰って来ただろう。いつも冷静な大石が、其処まで頭を廻せていないらしい。
バタバタバタバタッ!
「不〜二〜! 駄目だーやっぱ掴まんねぇー!!」
「二人とも、少し落ち着いたほうがいいよ?」
最早涙目のクラスメートをよしよしとあやしつつ、不二は呆れて溜息を吐くのだった。





なんだかんだで放課後。
幾分鬼気迫った表情で菊丸は部室へ向かって荒い足取りで歩いていく。
しかし心の中は相当萎えていた。
こんなに、会えなかったのは久しぶりだったから。
足りない。大石が、足りない。
もっと側に居て抱きしめて俺の名前を呼んで。
あの居心地のイイ場所を俺にちょうだい。
…置いていかないで。



一方その頃、大石もかなり煮詰まっていた。
元々人に頼みごとをされると嫌とは言えない質で、そのせいでまた忙しくなるのにどうにも懲りないらしい。自分の性格に苦笑しか出来ない。
しかしそのせいで、一番逢いたい人間に逢えないとなると、流石に自分を呪いたくなる。
今日忙しくなるのは分かっていたから、本当は無理にでも、朝起こして声を聞きたかった。一緒に居たかった。
でも自分の我侭で菊丸に迷惑をかけるのは気が引けた。だから今、こんなに後悔している。
英二に、逢いたい。声が聞きたい。
一番大切なのは彼だから。一番好きな場所は彼の側だから。
どうやら、慢性的な英二不足、らしい。




バタン!
部室の扉をほとんど蹴り開ける。中にいたのは、無作法を咎めるような視線を向けて微動だにせず立つ部長と、…驚きは一瞬で喜色を思い切り浮かべる椅子に座っていた副部長。
「……………!」
間髪入れず、菊丸は大石に抱きついた。いつも最初は驚いたり戸惑ったりしてしまう大石が、しっかりと抱きしめた。
「手塚、ごめん、ちょっと外で話していい?」
菊丸の後ろからちょっと顔を出した不二が促す。手塚の眉間の皺が三割増したが、深く溜息を吐いて部室を不二と共に出た。
それにも気付かず、菊丸を自分の膝の上に乗せたまま二人で抱き合っていた。
ずっとずっと、黙ったままで。
「大石」
「うん?」
暫くして口火を切ったのは、やはり菊丸の方だった。
「何で今朝俺置いてったの!」
「あ、やっぱり…怒ってる?」
「怒ってる!」
怒っていると銘打ちながらも、声には笑いが滲んでいる。実際、相手を目の前にすれば、不機嫌なんてどこかにいってしまった。
「ごめん。気持ち良さそうに寝てたらしいから、起こしたら悪いかなって」
「置いてく方が、万倍悪いやい」
「うん。俺も後悔した。ごめん」
「……バカ大石。今日一生懸命探したんだからな」
「俺もだよ」
「マジ? ホントに、俺のコト探してくれた?」
「うん。探した。…逢いたかったよ、毎日あんなに逢ってるのにな」
「俺も! 俺も、逢いたかったよっ! 足りねーもん全然! ずっと一緒にいなきゃ、嫌だッ!」
枯渇したものには尚更焦がれる。喉を潤す甘露を、際限なく求めたくなる。
「…一緒にいようよ」
「うん…本当に、ごめん」
「俺のほうこそ…ゴメン」
お互い謝って、抱き合ってしまえば、渇きなんてどこかへいってしまう。


   


「…で? 一体何なんだ」
半ば無理矢理外に引っ張り出された部長はご立腹のようである。
「まぁまぁ、許してあげてよ。今日1日、二人とも『お互い不足』だったんだからさ」
「…いつまで待てばいい?」
「さぁ。気が済むまで二人でいさせてあげれば?」
「部活が始まるだろう」
「せめて部長権限でもう少し伸ばしてあげてよ。ま、今日は僕も結構振り回されたから、グラウンド30週ぐらいはやっていいんじゃない?」
「……………」
お前の機嫌如何であの二人の懲罰が増減するのか。手塚はそう突っ込みたかったが賢明にも抑えた。不二はにこにこと笑いながら、蜜月を護るように部室の扉に寄りかかって佇んでいた。