冷たい手
関節がぎしり、と音を立てたような気がした。
激痛。激痛。激痛。
あの時は、それしか考えられなかった。
それでも、必死に自分を奮い立たせた。
ここで自分が倒れれば、青学の勝利は無い。
仲間を信頼していないわけではない、信頼しているからこそ自分も、全力を出しきらなければならなかった。
そのことは、後悔していない。
肩が、痛い。
断続的に、鈍い熱さのような痛みが肩に篭って響いている。
治療の為九州へ行く旨を皆に伝えた後、手塚は一人で家路を急いでいた。
「部長」でいる間は張っていた気が、僅かずつ緩んでいくのが解る。
それと反比例して、明確に沸きあがってくるのは「恐怖」。
この腕がもう二度と、使い物にならなくなるのではないかと。
肩が熱を集めていく分、掌が冷えていくように錯覚した。
「…、……………!!」
誰にとも思わず、呼ぼうとして顔を上げ―――眼鏡の奥の眼が驚愕に見開かれた。
通学路の途中、所在無げに人待ち顔をしている男が一人。自分の気配に気づいて、こちらを向いた。
「手塚」
「…………たちば、な」
驚愕に喉が引き攣った。
何故、彼がここにいるのか。
何故―――、自分が呼ぼうと心の奥底で願った男が、ここにいるのか。
「ここで張ってたら、会えるんじゃないかと思ってな」
テニスバッグを背負ったまま、橘はばつが悪そうに笑った。
最寄の公園まで二人で歩き、どちらからともなくベンチに腰を落ちつけた。
橘は何も言わない。
手塚も何も言わない。
ただその空気が心地良くて安心した。
都大会の抽選会場で会ったきり、お互いの試合が完全に重なって顔を合わせることも出来なかった。それでも橘は、人づてに手塚と跡部の試合の様子を聞き、いてもたってもいられなくなりここまで来てしまった。
「…暫くは、治療に専念する事になった」
漸く、と言って良いのか手塚が口を開き、橘は横を向いた。僅かに伏目がちになったまま、手塚は淡々と言葉を紡ぐ。
「九州の、青春学園大付属病院に行く」
「九州か…」
「あぁ。…お前の、故郷だったな」
「覚えてたのか? まぁな」
驚きと共にどこか照れ臭く、橘は鼻の頭を軽く掻いた。
「これからもっと暑くなるところだが、食い物は美味いぞ。ゆっくり療養してこい」
「あぁ…」
どちらからともなく、空を仰ぐ。
青々とした葉が茂り、青空に映えている。
本格的な夏が、やってくる。
「手塚」
「何だ?」
「……触っても良いか?」
「………………」
普通に考えれば唐突な問いなのだが、手塚はほんの少し驚きに眼を見開いただけで、こくりと頷き、左手を差し出した。
美術室にあるような白い石膏の手のようだ、と橘は思った。触れると乾いていて冷たかったので、ますますそれに拍車がかかる。
「…お前体温低いな?」
「…そうか?」
それでも、掌に浮きあがっているラケットだこが、彼の手が生きていることを証明していた。
その事に酷く安堵した橘は、ゆっくりとその白い手を温めるように自分の両手で包んだ。
ゆるゆると、熱が移動して行くのが解る。手が温まっていく。肩が冷えていく。
まるで狂ってしまったバランスを橘が全て元通りにしてくれたようで、安堵により手塚はそっと瞼を閉じた。と、困ったような橘の溜息を鼓膜が聞き取り、すぐに顔を上げる。
「手塚、お前なぁ…誘ってんのか?」
「??? 何をだ?」
意味が解らず問い返すと、そうだろうなとまた溜息を吐かれた。流石にむっとして問い直そうとしたところ、ぐいっと身体ごと引っ張られ。
「―――――!」
自分よりやや太い腕の中に、抱き込まれていた。
唐突に与えられる他人の体臭と体温に、慣れていない手塚は完全に硬直する。
と、ぽん、ぽんと背中を軽く叩かれた。
まるで子供をあやすようなその手つきに、段々と手塚の緊張が解れていく。
「…大丈夫だ」
「………………」
「すぐ、治る。治して―――全国で、俺と戦え」
「! ………あぁ」
耳元で柔らかく、囁かれた言葉が嬉しくて、自分も橘の背中に緩く腕を回した。
と、静かに橘が僅かに身体を離した。そのまま、僅かに熱の篭った視線を手塚に合わせる。
その瞳を、手塚は前に一度見たことがあった。地区予選が終わった日、仲間達から離れて、こんな風にベンチに座って。
夕暮れの中、こんな目で見つめられて。
そこまで考えて、橘の顔が近づいてきたのが解って、手塚は何の躊躇いもなく瞳を閉じた。
ゆっくりと、唇に柔らかい感触。
かつん、と橘の鼻が手塚の眼鏡に当たった。
「ふ」
「……」
殆ど同時に眼を開いて、笑ってしまった。参ったな、とでも言うように苦笑する橘に、手塚は黙ったまま、開いている右手で自分の眼鏡を外した。
「手塚―――」
「……………」
もう一度、と乞うように眼を閉じられ、引き寄せられるように橘はもう一度、手塚の彫刻を思わせる美しさの唇に自分のそれを重ね合わせた。
この行為にどんな理由があるかなんて、多分二人とも良く理解っていない。
ただ、触れ合いたかった。凄く心地良かった。
お互いの左手を重ね合わせ指を絡ませたまま、二人は夕焼けの中でずっとそうしていた。
激痛。激痛。激痛。
あの時は、それしか考えられなかった。
それでも、必死に自分を奮い立たせた。
ここで自分が倒れれば、青学の勝利は無い。
仲間を信頼していないわけではない、信頼しているからこそ自分も、全力を出しきらなければならなかった。
そのことは、後悔していない。
肩が、痛い。
断続的に、鈍い熱さのような痛みが肩に篭って響いている。
治療の為九州へ行く旨を皆に伝えた後、手塚は一人で家路を急いでいた。
「部長」でいる間は張っていた気が、僅かずつ緩んでいくのが解る。
それと反比例して、明確に沸きあがってくるのは「恐怖」。
この腕がもう二度と、使い物にならなくなるのではないかと。
肩が熱を集めていく分、掌が冷えていくように錯覚した。
「…、……………!!」
誰にとも思わず、呼ぼうとして顔を上げ―――眼鏡の奥の眼が驚愕に見開かれた。
通学路の途中、所在無げに人待ち顔をしている男が一人。自分の気配に気づいて、こちらを向いた。
「手塚」
「…………たちば、な」
驚愕に喉が引き攣った。
何故、彼がここにいるのか。
何故―――、自分が呼ぼうと心の奥底で願った男が、ここにいるのか。
「ここで張ってたら、会えるんじゃないかと思ってな」
テニスバッグを背負ったまま、橘はばつが悪そうに笑った。
最寄の公園まで二人で歩き、どちらからともなくベンチに腰を落ちつけた。
橘は何も言わない。
手塚も何も言わない。
ただその空気が心地良くて安心した。
都大会の抽選会場で会ったきり、お互いの試合が完全に重なって顔を合わせることも出来なかった。それでも橘は、人づてに手塚と跡部の試合の様子を聞き、いてもたってもいられなくなりここまで来てしまった。
「…暫くは、治療に専念する事になった」
漸く、と言って良いのか手塚が口を開き、橘は横を向いた。僅かに伏目がちになったまま、手塚は淡々と言葉を紡ぐ。
「九州の、青春学園大付属病院に行く」
「九州か…」
「あぁ。…お前の、故郷だったな」
「覚えてたのか? まぁな」
驚きと共にどこか照れ臭く、橘は鼻の頭を軽く掻いた。
「これからもっと暑くなるところだが、食い物は美味いぞ。ゆっくり療養してこい」
「あぁ…」
どちらからともなく、空を仰ぐ。
青々とした葉が茂り、青空に映えている。
本格的な夏が、やってくる。
「手塚」
「何だ?」
「……触っても良いか?」
「………………」
普通に考えれば唐突な問いなのだが、手塚はほんの少し驚きに眼を見開いただけで、こくりと頷き、左手を差し出した。
美術室にあるような白い石膏の手のようだ、と橘は思った。触れると乾いていて冷たかったので、ますますそれに拍車がかかる。
「…お前体温低いな?」
「…そうか?」
それでも、掌に浮きあがっているラケットだこが、彼の手が生きていることを証明していた。
その事に酷く安堵した橘は、ゆっくりとその白い手を温めるように自分の両手で包んだ。
ゆるゆると、熱が移動して行くのが解る。手が温まっていく。肩が冷えていく。
まるで狂ってしまったバランスを橘が全て元通りにしてくれたようで、安堵により手塚はそっと瞼を閉じた。と、困ったような橘の溜息を鼓膜が聞き取り、すぐに顔を上げる。
「手塚、お前なぁ…誘ってんのか?」
「??? 何をだ?」
意味が解らず問い返すと、そうだろうなとまた溜息を吐かれた。流石にむっとして問い直そうとしたところ、ぐいっと身体ごと引っ張られ。
「―――――!」
自分よりやや太い腕の中に、抱き込まれていた。
唐突に与えられる他人の体臭と体温に、慣れていない手塚は完全に硬直する。
と、ぽん、ぽんと背中を軽く叩かれた。
まるで子供をあやすようなその手つきに、段々と手塚の緊張が解れていく。
「…大丈夫だ」
「………………」
「すぐ、治る。治して―――全国で、俺と戦え」
「! ………あぁ」
耳元で柔らかく、囁かれた言葉が嬉しくて、自分も橘の背中に緩く腕を回した。
と、静かに橘が僅かに身体を離した。そのまま、僅かに熱の篭った視線を手塚に合わせる。
その瞳を、手塚は前に一度見たことがあった。地区予選が終わった日、仲間達から離れて、こんな風にベンチに座って。
夕暮れの中、こんな目で見つめられて。
そこまで考えて、橘の顔が近づいてきたのが解って、手塚は何の躊躇いもなく瞳を閉じた。
ゆっくりと、唇に柔らかい感触。
かつん、と橘の鼻が手塚の眼鏡に当たった。
「ふ」
「……」
殆ど同時に眼を開いて、笑ってしまった。参ったな、とでも言うように苦笑する橘に、手塚は黙ったまま、開いている右手で自分の眼鏡を外した。
「手塚―――」
「……………」
もう一度、と乞うように眼を閉じられ、引き寄せられるように橘はもう一度、手塚の彫刻を思わせる美しさの唇に自分のそれを重ね合わせた。
この行為にどんな理由があるかなんて、多分二人とも良く理解っていない。
ただ、触れ合いたかった。凄く心地良かった。
お互いの左手を重ね合わせ指を絡ませたまま、二人は夕焼けの中でずっとそうしていた。