時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

Raum.

「手塚」
久しぶりに―――否、正確に言えば今日の昼前に聞いた声で名前を呼ばれた。何故久しぶりかと思ったのは、あまりにも会える機会が少ない人間の声であったことと、その声を自分でも待ちわびて居たせいだろう…と、手塚は思った。   
ベンチに座り、黙ったまま同じ青学テニス部の人垣から離れていた手塚は、後ろから降ってきたその声に空を見上げた。
傾きかけた夕日を遮って、坊主頭が見えた。
「橘」
僅かにその声に安堵の息が混じったことには、本人も気づいていないようだった。
「隣、いいか?」
「ああ」
見上げたまま頷くと、いつもと変わらない人懐っこい笑みを浮かべて、橘桔平はひょいとベンチを飛び越し、手塚の隣のスペースに腰を下ろした。
「まずは、おめでとうだな」
「あぁ…有難う」
座ったまま差し出された手を、利き手とは逆の手で握り締める。都大会、実力No.1の名を欲しいままにしていた青学は、決して誇張無い力を発揮して優賞を勝ち取った。
同じく不動峰も、ノーシードとは思えぬ実力で、都大会初出場の上総合4位を勝ち取り、関東大会への切符を手に入れた。
「悪かったな」
「?」
そんな強豪達の部長である2人が、未だ興奮冷め遣らぬ部員達から離れ、こうしているのも驚きだが―――、不意に橘が詫びた。意味が判らなかった手塚は、レンズの下で一度眼を瞬かせた。
「何がだ?」
「いや…約束、守れなかったな」
「…あぁ」
都大会初日、橘は偶然会った青学の後輩に、手塚に対してメッセージを預けた。「決勝戦で会おう」と。しかしアクシデントに見まわれた不動峰は、準決勝試合棄権を余儀無くされ、それを叶える事は出来なかった。
「気にするな。あれは事故なんだろう? 仕方が無い」
「そう言ってくれると助かる…あのバカ共」
「お前の采配は決して間違っていない…と、俺は思う。だからもう言うな」
「そうか…ありがとな、手塚」
淡々としたやりあいに聞こえるが、2人ともとても落ち着いていることは確かで。すごく優しい時間が、2人の間に流れている。
「それより、お前はやはり大人だな。あの山吹中の亜久津…いくら挑発されても乗らなかっただろう」
「いいや、心ん中じゃアイツを五百発ぐらい殴ってた」
大真面目な橘の台詞に、くっと小さく手塚は息を漏らした。吹き出したのだ。もしこれを同じ青学の同級生や後輩が見ていたら、すわ天変地異の前触れかと大騒ぎしただろうが、橘は照れ臭そうに笑っただけで、何も言わなかった。
ふっと、会話が途切れた。静かな時間。
もうそろそろ解散前のミーティングが始まるだろう。明日からのまた厳しい練習に備えて、今日は早く帰るのが定石だろう。勿論、手塚も橘もそれは解り過ぎるほど解っている。
でも。
もう少し。
もう少しだけ。
この優しい時間を壊したく無い。
手塚は無意識のうちに、右手で自分の左腕を掴んでいた。否、正確には腕というより、肘を。
と、その上から、自分より数段筋張っている掌が重ねられ、驚いて隣を見た。そこには、真剣な眼をした橘の顔があった。
「…やっぱり、爆弾あんのか」
「…………」
「噂だと、思ってたんだけどな」
「……完治は、しているはずだ」
嘘はつけなかった。仮にもライバル高に自分の体の不調を訴えてどうしようというのか。あっさり知らされ対策を練られるのが関の山だろうに、目の前の男はそんな真似はしないという確信もあった。事実、彼の瞳には詮索や興味本位などは無く…只、ほんの少し憤っているように見えた。
「肘か」
「…あぁ」
「つらいな」
「痛みは、もうない」
「そうじゃない…つらい、な」
まるでそこを癒すように、肘の上に重ねられていた手を包むように、そして痛みが無いほどの強さでぎゅっと握り締められる。じわりと温もりが伝わってきて、酷く、心地良かった。
「…俺が言うのも、なんだけど、な」
「?」
「俺はいくらでも待てる」
「――――――――」
「この世界にいる限り、お前とは絶対いつか戦えるだろ?」
「…橘、」
「だから…慌てるな」
もう一度。労うように、肘を今度は両手で包みこまれた。
スポーツ選手なら誰でも感じたことがあるだろう、怪我に対する恐怖と、治らないのではという不安。手塚の奥底にも、必死に収められてきたそのものが、手の温もりでゆっくりと溶かされていく。
「…待っていて、くれるか?」
「ああ」
安心させるように、ぽんと両手で軽く肘を叩き、手は離れた。ほんの少しだけ、名残惜しかった。
ふと。
西日が、強く頬を射した。
赤い色が、世界を全て包んだ。
まるでそれがベールの代わりになったように、世界が一色になり、動きが緩くなる。
ふと、眼が合わさり。
橘の身体が、少し横に乗り出す。
何だ、と聞く前に、唇に酷く柔らかい部分が、触れた。
「―――――――」
何が起こったのか解らず、固まってしまった手塚に、すぐ離れた橘は困ったように笑って。
「…こういう時は、眼を瞑るもんだろ?」
「…そういうものなのか?」
真顔で問い返されるとは思わなかったので、橘はかくっと脱力して、手塚の肩に額を預けた。
「…橘」
「ん、悪かったな。忘れてくれ」
「今のは…良く、解らなかった。…もう一度、してみてくれないか?」
「――――――――――」
今度は橘が完全に停止した。
「お前な…」
「駄目か?」
「いや、そんな事ぁないんだが…参ったね」
心底困った、という顔をするので、自分が失言したことを感じ取った手塚は、「もういい」と言いそうになり―――   
「!」
それを言う前に、唇を奪われていた。
只重ねるだけの、ややぎごちないものだったけれど。
今度は2人とも眼を閉じたまま、口付けを交わした。
どうしてなんて理由、考えるのもおこがましい。
ただ触れてみたかった。本当にそれだけだった。
そしてそれは思った通りとても心地良いもので、離れるのが勿体無く感じた。
橘の腕が手塚の後頭部を支え、手塚の腕が橘の首に回されようとしたその時―――
「部長〜! どこですか〜!?」
「橘さ――ん! もう帰りましょうよー!」
お互いお呼びがかかって、離れざるを得なかった。
それで、彼らの優しい時間はあっさりと終わりを告げた。
「…次は、関東で。いいか?」
「ああ…必ず」
もう一度手を差し出されて、握手をと思った瞬間、立ちあがっていた橘に引っ張り上げられ、掠め取るようにキスされた。
「またな」
それだけ言って、何事も無かったように橘は踵を返し、手塚は暫くその後ろ姿を見送った後、すっと立ちあがった。
「あぁ…また」
小さく呟き、驚いて彼にこの返事を届けることが出来なかった事を少し後悔した。