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愛の試練へ挑め

ここ数年、数々のトップアイドルを輩出し続けている765プロのビルは、既に夜の帳が落ちた街の中でも煌々とした輝きを放っている。といっても、此処の看板であるアイドル達は既に帰宅し、或いは仕事で地方に行っている。ビルに残っているのはアイドルを支える、事務職とマネージャーぐらいだった。
その中の一人であるマネージャーの青年が、丁度ビルへと帰ってきた。営業に勤しんだのか、顔には疲れが見えている。若く見えるその顔には不似合いな仕草で肩を回し、溜息をひとつ。
―――と、何かに気付いたように足を止め、慌てて鞄から携帯を取り出す。仕事用の携帯はストラップをつけて首から下げているので、こちらはプライベート用の携帯だ。ぱっと開き、何回か操作し――どうやら、メールだったらしい。そんなに長くは無い文面を何度も読み返し、青年はへら、とだらしなく顔を緩ませる。疲れも何もかも吹っ飛んだかのようににまにましながら、軽やかに階段を駆け上がろうとして―――
「顔気持ち悪っ」
「酷い!」
丁度階段を下りてきた、先輩に当る男に容赦ない評を下された。年の頃は青年より四つ五つ上で、キャリアもそれだけの開きがある。咥え煙草のままの先輩に、後輩の方も眉を顰める。
「社内禁煙ですよ」
「固いこと言うな。お守りするお嬢さん方もいないんだ」
皮肉げに嘯く先輩の言い訳に、そういう問題じゃないでしょうと後輩が突っ込みを入れる。765プロは基本的に上下関係があまり厳しくなく、後輩でもこれぐらいの言い方は許される。何せ社長からして、たまにアイドルにやり込められたりする会社であるのだし。
お前本当真面目な、と眉を顰めつつ、先輩は大人しく吸いかけの煙草を携帯灰皿に押し込んだ。自分で先刻言っていた通り、後輩の知る限り、彼はアイドルの前では決して煙草を吸わない。喫煙者ではない後輩には、それがどれだけ精神力を要することなのかは解らないが、そういう仕事に対する姿勢とけじめ、何より実力は尊敬するだけのものがあると解っている為、大人しく矛を収める。
「で、今の奥さんからのメールか?」
「あ、はい。……って、何で解ったんですか!?」
収めた瞬間死角から槍でさっくり刺されて、後輩は動揺した。先輩の方は階段の数歩上に立ったまま、にやにやと人の悪い笑みを浮べている。
「絵に描いたような新婚さんオーラ振り撒いて今更何言ってやがる、トップアイドルを射止めたマネージャーさんよぉ」
「そ、そんなの出てました? それと、射止めたっていうのは止めてくださいよ。俺はどっちかっていうと、あずささんに選んで貰ったっていうか」
一時期トップにまで上り詰めながら、あっさりと結婚による引退を表明した「三浦あずさショック」がマスコミを席巻したのは記憶に新しい。しかもその相手が、デビュー以来彼女を陰日向に支えたマネージャーだったのだから、ゴシップ誌は更にヒートアップした。が、当のアイドル本人が満面の笑みで相手を「運命の人」と言い切り、ラストステージの後舞台の隅にいたそのマネージャーに抱きついていったその姿を会場内全てのファンに堂々と見せてから、あからさまな誹謗中傷はなりを顰めた。当然二人とも取材の嵐には襲われそうになったものの、その辺りは社長はじめ765プロががっちりと守ってくれている。
「お前未だにあずささんってさん付けで呼んでんの?」
「え? は、はい」
一時の苦労と今の幸せを反駁して噛み締めていた後輩は、またしても不躾な先輩の声によって現実に戻された。
「他人行儀じゃね? 呼び捨てにしねぇの?」
「いやー、それはちょっと…あずささんだって今でも俺のこといつも『プロデューサーさん』って呼ぶし…それはその、特別って言うかそういう時に」
「お前また顔気持ち悪い」
「話振ったの先輩じゃないですか!」
きっと今日も笑顔で自分を迎えてくれるだろう新妻の甘い声を思い出し、にやけていると思い切り眉間に皺を寄せて蔑んだ目で見られる。理不尽だ!と心の中で叫びつつ、何とか反撃材料を頭の中から搾り出す。
「先輩こそ、どうなんですか」
「何が」
「何がって、えーと、雪歩と」
後輩が名前を出したのは、今まさにアイドルの頂点に立っていると言っても過言ではない、癒し系アイドル萩原雪歩の名前だった。彼女がデビューしてからの一年間、面倒を見ていたのはこの目の前の先輩で、今でも深い親交があることは765プロの皆が知っている。ただし、その関係がどれだけのものであるのかは、誰も知らない。
後輩の勘繰りの視線に一瞬だけ不機嫌そうに眉を顰めたものの、ふんと鼻を鳴らし、先輩は堂々と答える。
「お前俺を淫行罪に問うつもりか」
「いえ滅相もない」
「まぁ、お前がそう思うのも無理はないがな」
何だか「俺とお前は違うぞ」風に言われて、後輩もちょっとかちんとくる。そこに含まれた、自分の育てたアイドルに対する自慢もはっきり伝わってしまう為だ。そしてマネージャーとして、担当アイドルの魅力を披露できないこと以上の恥は無い。ぐっと臍に力を込めて、後輩も堂々と胸を反らす。
「言っときますけど俺はあずささん一筋ですからね。そりゃ今担当してる子も大事ですけど、彼女は特別です」
挑発に乗ってきた後輩に対し、先輩もにやりと口元を歪める。受けて立つ、とその目が言っている。
「ほう、そうかそうか。まぁ清純さに関しては、雪歩の方が上だろうがな」
「あずささんだって純真です、二十過ぎてあれだけピュアなのは奇跡です。道に迷って名古屋まで行くのもお茶目です」
「それをお茶目の一言で済ませるお前凄いな。その点雪歩は大人しくていい、凹んで穴掘って埋まる様もいい」
「端から見てるとそれを絶妙なところで掬い上げる先輩の手管も凄いですよね、一歩間違えるとペテン師ですけど」
「言うようになりやがったな後輩」
「いえいえそれほどでも先輩」
ぱち、と見えない火花が一瞬飛び交う。結局言いたいのは「うちのこがいちばんかわいい」という彼らが絶対的に信じる真実なので、勝ち負けなど決められるわけもないのだが。次の攻撃を逡巡する二人に一瞬の間が出来たその時、
「…ノロケなら他所でやってください、お二人とも」
ゆらり、と階段の上から現れた人影に、マネージャー二人は一瞬言葉を無くした。幽鬼の如くふらふらと階段を下りてくる人影、確かここ数日決算の為事務所にずっと詰めていた音無小鳥が、立ち尽くす二人に近づいてくる。
普段は明るく優しく、アイドル・マネージャー問わず皆の面倒を見てくれる優しいお姉さん、なのだが―――今は拙い。後輩よりも危機察知能力に長けている先輩は、あっという間に逃げの体制を取り、素早く階段を踊り場まで駆け降りる。その動きに後輩が気を取られた瞬間、その手ががっちりと握られた。彼らより幾分腕も指も細い筈なのに、逃がさぬとばかりに力強い代物で。
「手伝ってください律子さんもう帰っちゃったし明日の朝まで時間はありますからあああ!」
「ぎゃあああ勘弁して下さい勘弁して下さい今日こそは日付が変わるまでに帰りたいんですううう!」
捕獲されてやっと自分の状況に気づいた後輩が悲鳴をあげるが、小鳥は全く怯まない。人間、睡眠時間の不足が限界点を超えると、精神的なリミッターも外れてしまうものらしい。…結婚式における新郎フルボッコ系の感情が、僅かばかり混じっていないとは言えないだろうが。
しかし新郎だって新婦の為にもこのまま黙ってフルボッコにされるわけにはいかない、助けを求めて既に安全地帯まで逃げている先輩に視線を送ってみるものの。
「早めに夕飯いらないって連絡はしておけよ?」
「うわーん凄い残念な声で『そうなんですか〜…』って言われるのはもう嫌だあああ!」
良い笑顔で運命に鎖を巻きつけて下さりやがった。ついに後輩に泣きが入ったが、手頃な労働力を見つけた小鳥は絆されてはくれない。
「先輩! 先輩も一緒に日付を超えましょう! 二人より三人です!」
ついに逃げきれないと解ってか、少しでも犠牲者を増やし負担を減らす為、先輩に手を伸ばす。小鳥も期待に満ちた目をそちらに向けるが、彼はあくまで余裕を崩さずに二人に向かって軽く手を振る。
「悪いな、今日はちょっとグリズリーとガチ喧嘩する用事があってな」
「適当な理由にも程があります!」
「本当本当、マジ本当」
全く真剣味を含まずに軽く言い放ち、飄々と先輩は去っていく。軽やかに階段を駆け下りる足音に、「ぐ、グリズリーに絞められちゃえ…!」と怨嗟を放つ後輩に、たぶん罪はない。
もう逃げませんから離してください、と細い声で言うと、嘘が無いと解ったのか腕が解放される。凹みつつも愛する新妻に連絡を入れようと携帯を再び取り出した後輩は、小鳥が何やら含みのある顔で笑っているのに気がついた。
「どうしたんですか?」
「えっ? ああ、いえいえ。グリズリーと喧嘩かぁ、って思って」
「はぁ…?」
ちょっと妄想にその心を遊ばせていたらしい小鳥に、後輩は首を傾げるだけで答える。今なら逃げだせたかもしれないのに、お人よしのこの後輩はこういう時に詰めが甘い。
そしてグリズリーの正体を知っている小鳥は、やはり微笑んでこう締めた。
「きっとあの人なら、負けないですよねぇ」
何せグリズリーの娘が一番に応援してくれるんだから。
そんな謎かけのような言葉に、やっぱり後輩は首を傾げることしか出来ないのだった。