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26. Getting Married

 微睡から目を覚まし、夢を見なかったことに狩谷は安堵する。
 以前は毎日のように、足が元通りに動く夢を見ていた。起きてからの不快感と吐き気が凄まじく、見たら一日気分が悪かった。
 ……いつからか、気付けば夢を見なくなった。隣で寝息を立てている女と、一緒に寝るようになってからだ。
 桃色の髪は今でも綺麗に染められていて、黒に戻す予定は無いらしい。戦争が終わって、何となくごく自然に一つ屋根の下で暮らすようになって、お互い随分と年を取ってしまった。
 今更誰か他の相手を見つけられるなんて思えない――そんな打算しか打ち出せない自分が、本当に嫌になる。
 いつもの苛立ちと僅かな緊張を持って、狩谷夏樹はひとつの決意をした。


 ×××


 今日は予定があるからついてくるな、と狩谷に厳命され、加藤は大人しく家で家事に勤しんでいた。普段は出かける時に絶対車椅子を押す係になっているのだが、完全に拒否された時無理についていける度胸は無い。
「んー、良い天気」
 洗濯物を全部干し終わって、ふうと息を吐く。これでやるべき家事はほぼ終わってしまった。……やることが無い、というのが苦手な加藤は、手持無沙汰に部屋の中をうろうろ歩く。
 ひとりになってしまうと、どうしても考えてしまう。今の幸福な生活が、いつ終わってしまうのかと。
 単に未来に対して悲観的だから、という理由では無い。彼女の中にはずっと――それこそ学生時代から残る罪の意識が消えずに存在しているからだ。
 狩谷夏樹から、足の自由を奪った原因の事故。そのきっかけが自分自身であることを、加藤は未だ告白できていない。
 卑怯だと解っている。言わなければならないことだと解っている。それなのに、彼の傍にいるのが心地良くて、それすら出来なくなるのが恐くて、ずっと言う事が出来ないでいる。嘗て彼にどんなに酷い言葉をかけられたり殴られたりしても、却って罰だからと安堵していたぐらいだ。
 心の中に残るこのしこりは、どんなに小さくなっても無くなることはない。弱さに甘えて、ずるずると引き伸ばして、そして今になってしまった。
 普段の明るさを全て削ぎ落して、畳んだ布団の上にもすりと上半身を預けた時。かしゃかしゃと車椅子の音が聞こえて、ぱっと立ち上がる。速足で玄関まで辿り着き、鍵が回るよりも先にドアを開けた。
「おかえりなっちゃん!」
「っ、危ないな」
 満面の笑みで出迎えると、狩谷が面食らった顔で仰け反っている。それでもちゃんとドアの範囲から車椅子を逃がしているのは経験則からだろう。すぐに彼を家の中に誘い、愛用の椅子に座らせてやる。
「お疲れ様。どこいってたん?」
「……買い物」
「なんや、それならうちも手伝ったんに」
 今更取れなくなってしまった似非関西弁で明るく告げると、狩谷は珍しく、凄く困ったような顔をしていた。何故、と加藤が疑問に思う間もなく、がしがしと頭を掻いて溜息を吐く。
「お前が居たら意味がないんだよ」
「えっ」
 何気にショックなことを言われて固まるうちに、狩谷がずいと手を差し出してきた。一瞬意味が解らず、その指先に金属の輪が抓まれているのを確認して――加藤はさっと顔を蒼褪めさせた。
「……今更、形式ばるつもりもないけど、一応買ってきた。お前、そういうの好きだろう」
「……」
「なんだよ、箱なんて嵩張るし、別にいらな――おい?」
 不機嫌そうな狩谷の顔が、訝し気に変わる。何か言わなければならないと解っているのに、言葉が上手く出せない。ひくりと喉が引きつって、目から涙が零れ落ちた。
「……なっちゃん、ごめ、ごめんなさい」
「っ、嫌か」
 さっと同じく顔を青くする狩谷に対し、ぶんぶんと首を横に振る。
「ちがう、ちがうの、ごめんなさい」
 目の前に差し出された指輪。小さいけれどちゃんと綺麗にカットされた石が付いている。嬉しくて、嬉しくて、だからこそ――受け取れない。そんな幸福を、自分が与えられるわけにはいかない!
「なっちゃん、ごめん、うちのせいなんや。なっちゃんが、事故に遭ったの」
「……何?」
 ひくりと上擦ったような声に、心が潰されるような気がした。ついに訪れた断罪を、首を竦めて待つしかない。
「うちが、あの時、後ろから声をかけたから、なっちゃん、びっくりして、線路に落ちて。うち、何も出来んかった、うちのせいなんや、全部うちの」
 あの戦車学校で再会した時、彼は自分の事など全く覚えていなくて――安堵してしまった自分は、本当に卑怯で、弱くて、ずる賢い。幾らでも自責が沸いてきて、今にも吐きそうだ。
「うちに、結婚してもらう資格なんて無いんや。本当にごめん、ごめんなさい……!」
 狩谷の前の畳に膝と手をつき、頭を下げた。謝っても何にもならないのに、謝ることしか出来ない自分が嫌になる。
「……じゃあ」
 掠れた狩谷の声が、聞こえる。泣いているのか、怒っているのか、怖くて顔を見ることも出来ない。
「お前が、僕の傍にいたのは……ただの、罪滅ぼしか」
「っ、ちがう!!」
 咄嗟に起き上がって大きな声を出してしまった。椅子に座った狩谷の顔が驚いているのにも気付かず、加藤は必死に言葉を続ける。
「なっちゃんのことが好きやから! 一番、いっとう好きやから! ……ホンマの事喋らずに、傍に居たかったの。うち、ずるくて卑怯やから、ホンマの事言うたら、なっちゃん怒って、喋ってもくれなくなるやろうからって……ずっと、黙ってた。ホンマに、ごめんなさ――」
 だん、と目の前に膝を付かれて、驚いた。狩谷が両腕で腰を持ち上げて、無理やり椅子から降りたのだ。当然動かない両足は畳の上に曲がって落とされ、殆ど体当たりするような形で狩谷の上半身が倒れ込んでくる。
「あぶな……!」
 慌ててしっかりと彼の体を支えると、すっかり鍛えられた狩谷の腕が、加藤の背にぐっと回った。え、と思う間もなく、首筋に深々と――安堵の溜息が吐き出された。
「……そうか。それなら、いい」
「え……」
 まるで本当に、大したことでもないように、狩谷の声は酷く穏やかだった。


 ×××


 自分でも驚いている。執念深い性格だと、我ながら思っていたのに。
 彼女の懺悔を聞いて最初に思ったことは、お前は僕の事を好きなんじゃなかったのか、という絶望だった。真っ先に否定してくれたおかげで、安心できたけれど。
 そう、いつの間にか狩谷夏樹という人間は、随分と他人、特に加藤祭という女の事を信用してしまうようになってしまったのだ。
 もしも事故が起こった直後、彼女から真実を聞かされていたら、ただ怒りのままに彼女を傷つけられるだけ傷つけただろう。自覚はあるし、その事実を知らなくても当時の自分は、能天気に近づいてくるように見えた彼女に八つ当たりをし続けていた。もし彼女に罪があるとしても、充分罰を受けていると思える程にだ。
 そして彼女は、狩谷の足を治す為金策に奔走し――それは結局騙されていたのだけれど――怪物に成り果てた狩谷すら、見捨てることをしなかった。
 そんな彼女を、今更手放せるわけがない。彼女の甘ったるい優しさに浸かって、動く気も無くなってしまったのは他ならない狩谷自身だ。
「本当に、今更だ。お前がどんなに詫びたって、僕の足は動かない」
 またごめん、と動きそうになった唇を、無理やり口で塞いで止めた。ぱちりと間近で榛色の瞳が何度も瞬く。まだ濡れていたが、驚いて涙は止まったようだ。
「だから。それなら、僕の足の代わりに、お前を使うのは当然だろう」
「……ええの? うち、まだなっちゃんの傍にいて、ええの?」
 我ながら酷い言葉をかけているのに、彼女は不安そうに、喉をしゃくりあげながら聞いてくるから、覚悟を決める。これを最後にもう一生言わないぞ、と誓いながら、紅潮する頬を堪えて。
「ずっと、僕の車椅子を押してくれ。……頼むから」
 漸く絞り出せた精一杯のプロポーズは、呆然としている加藤の耳の中に漸くするりと入ったらしく――
「ぅ……するぅう〜……」
 返事を絞り出して、ぼろぼろとまた涙を零して泣き出したので、狩谷は慌てて抱きしめる羽目になった。肩口がびしょ濡れになっても構うものかと。
「だから、何で泣くんだよ!」
「ありがどぉおう、なっぢゃん、だいずぎぃぃ」
「汚いな、全く。唇も、噛むなって前に言っただろ」
「ごめんなざぁあい……!」
 万感の思いが籠った最後の詫びをちゃんと受け止めて、もう一度塩辛い唇を塞いでやった。


 ×××


 左手の薬指にぴったり嵌った輝きを、泣き腫らした目でじっと見る。
「いつまで見てるんだ。……安物だぞ」
「だって、めっちゃ嬉しいんやもん……」
 雑に広げた布団に包まって、ひそひそと話し合う。まだ昼間なのにこんな爛れてていいんやろか、という葛藤も、有り余る嬉しさに全部流されてしまう。
「幸せすぎて怖いって、こういうことなんやな……」
 だって、まさか自分が許されるなんて思ってもみなかったのだ。吃驚し過ぎてまだ実感が湧かない。と、隣に寝転がっていた狩谷がぐいと加藤の肩を引き、自分の体の上に引っ張り上げた。当然だが、二人共まだ服を着ていない。
「んぇ、なっちゃん?」
「まだ解ってないんなら、付き合うぞ」
「ぇ、待って、待って待って、んっ」
 既に一回交わった後なのに、唇を塞がれると同時、重なった腰の中心が随分力を取り戻していることに気付いて加藤は大層動揺した。自分と同じくらい狩谷の方も、達成感からかなり浮かれていることに残念ながら気付けない。
 狩谷の下半身はほぼ動かせない為、交わる時は必然的に加藤が上になる。おずおずと腰を揺らすと、まだ潤んでいる場所が熱で擦られた。
「はぅんっ……」
「いけそうだな」
「やん、ぁ、あー……」
 ぬるぬると隘路に滑り込んでくる熱を、膝で堪えて受け止める。避妊具はさっき、最後の一個を使い切ってしまっていた。
「このまま、いいか?」
「うん……」
 もし、互いの種が結実することがあれば。不安はあれど、喜びの方が大きかった。だってこれからも、二人でいられるのなら。
「うれしい……っ」
 またじわりと視界が歪む。今日は本当に泣き過ぎている。酷い顔をしているだろうに、見上げる狩谷の顔は困ったように、それでも笑っていた。
「いくぞ」
「あ、まって、あんっあ……!」
 腰を両手で掴まれて、前後に揺さぶられる。すっかり安堵と共に熱に絡みつく自分の中がきゅうきゅうと収縮して、互いの快感を否が応にも高める。
「すき、好きっ、なっちゃん、好き……!」
「っああ……、ッ!」
 隙間が出来ない程抱き合って、果てて、落ちても、もう離れることは無かった。