時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

20. Dancing

 コンクリートとアスファルトで形作られた森の中にも、自然というものは存在している。大学と言う名の敷地の中、夜になれば静まり返り人間の気配が無くなる場所。
 湿り気の多い枯葉の地面に、ひっそりと建てられた石の塔。エル・アライラーはひらりと飛んで、尖ったその先に着地した。
 人間が、己のエゴで命を奪った動物たちを弔う為に建てた塔。勿論、ウサギにとっては何の意味も為さない。
 同朋もいないこんな場所で、彼が一匹でいる理由。それはここが、死者の国に一番近い場所に相違ないからだ。
 彼は待っている。舞っている。たった一匹でダンスを。僅かな爪で石を叩き、草の葉で編んだ外套を翻して。
 彼が答えてくれるまで、今日は舞い続けるつもりだった。その顔に、いつもと同じ誰かを嘲る笑みを湛えたままで。
 やがて、月明かりも濁った夜の下で、闇がカーテンのように動き、巻き取られ、白い産毛の生えた顔が見える。赤い瞳の小さなウサギが、全てのウサギに終わりを与える死神が、いつの間にかそこに居る。――その顔に、僅かな驚きを浮かべたまま。
「お久しぶりだね、死神殿。どうぞ一緒に、踊りませんか?」
「――……」
 いつも通りの嘲る笑みと、戯れに差し出される前足。全てのウサギの死神は、どこか戸惑ったように何度もその前足とエル・アライラーの顔を見比べて――躊躇いつつも、前足を伸ばした。
 柔らかく触れる感触。そこは、冷え切っていた。インレの黒ウサギだけでなく、エル・アライラー自身も。
「時が来たのか、エル・アライラー」
 はっきりと名を呼んだインレの黒ウサギに、少しだけ不満そうな顔を見せて――恐らくもう少し誤魔化せるつもりだったのだろう――エル・アライラーは掴んだままの相手の前足をぐっと引く。同時に後ろ足で強く地面を蹴り、彼の腰を抱き寄せてぐいと仰け反らせた。ちょっと苦しい格好なのに、インレの黒ウサギは止めろと言わなかった。ただ、エル・アライラーの返事を待っている。やはり不満そうな顔で、ウサギの英雄は宣う。
「冗談じゃない、私はまだ、運命に追いつかれていないとも」
「戯言を。お前がウサギのヒトである以上、いつかは必ず追いつかれるもの」
「そうとも、しかし、それは今では無い!」
 高らかに叫んで、ウサギは舞う。死の神の手を引っ張って、出鱈目なダンスを踊りながら。
「寧ろ逢瀬を望んだことを、喜んで頂きたいものですが?」
「お前の言葉に価値はない。お前の言葉に真が無い。故に私は耳を塞ごう」
 柔らかい草と枯葉を踏んで、二匹のウサギが踊る。滑稽に、元気に、弾むように。それなのに、だからこそ、エル・アライラーの異変にインレの黒ウサギは気付いている。
 彼の武器は知恵と言葉だ。それを一切使わずに、ただ前足を寄り添わせて踊るだけ。また何を企んでいるのか、或いは――もう、そうできるだけの、余裕がないのか。
 インレの黒ウサギは知っている。何故なら彼は死そのもの。全ての命はいずれ、インレの黒ウサギが取ってしまうもの。それは、世界の理から抜け出して英雄となったものでも、例外では無い。
 それでもここまで逃げ続けたのは、流石ウサギの英雄と言われるべきものかもしれないけれど。
 力の入らない耳。毛が抜け落ちて見える肌。彼の体は既に、命を零し始めている。インレの黒ウサギには、それが解る。
「お前の口を塞いでやろう。お前はもう、走れない」
 ウサギにとっての死を告げると、エル・アライラーは、口を歪めて、笑う。哂う。嗤う。
 不意に、ぐいと両の前足で腰を抱き込まれ、二匹の鼻先が僅かに触れる。死を取る唇の前で、エル・アライラーはずっと咥えていた枯れた花を噛み潰し――嗤って、叫んだ。
「では何故、私が此処に至るまで、貴方は来てくださらなかった!?」
「――」
 聞くべきでは無い戯言なのに、インレの黒ウサギの耳は動いてしまった。
 彼は死そのものであり、命を失うものの前に必ず現れる。痛みも苦しみも無く、慈悲も感慨も無く、奪いも与えもせずただ取るもの。そんな彼が――エル・アライラーが自分から死の元へ近づき、その姿を目に納めるまで、英雄の死を認識出来ていなかった、のは。
「貴方は! 他ならぬ貴方は! 私が死ぬものであると、今さっき顔を合わせたその瞬間まで、忘れておられた!」
「黙れ」
 この声を聴いてはいけない。これは他者を惑わし籠絡する毒だ。神をも欺くその毒を耳に入れてはならない。
 相手の口を塞ごうとして、ぎゅうと両の前足を押さえつけられた。勝ち誇った顔のウサギに耳の先を咥えられて、びくりと肩が竦む。
「貴方はついに、或いは既に、変わってしまわれたのです」
「黙れ」
「全ての死を内包する貴方が、私の死を、忘れてしまった! ただ一時、ただ一瞬! それだけで私には充分だ!」
「黙れ、」
 聞いてはいけない。聞いてはいけない。これは全て嘘だ。これは全て罠だ。自分の耳を塞ぎたいのに、前足が離されない。赤い瞳が向かい合い、全てを欺くはぐれものは――とても嬉しそうに、笑った。
「嗚呼、哀れなる死神、名高きインレの黒ウサギ殿! 愛しく憎らしい貴方、私の勝ちだ!」
「だ――」
 もう一度、黙れ、というべきだった口が塞がれる。他ならぬ、エル・アライラーの口を押し付けられて。
 あ、と思う間も無い。全ての命を取るものは、まるで息をするように自然に、彼の命を口の中に滑り込ませて――
 ぐらり、とインレの黒ウサギよりも大きな体が、傾ぐ。死の腕の中に倒れ込んで、動かない。
 誇り高きウサギの英雄。神をも欺くペテン師。フリスに愛された申し子。どこにでも行けるはぐれもの。――ただの嘘つき。
 彼を形容する全ての言葉が、枯れて、崩れて、消える。
 その癖――インレの黒ウサギの胸元で、目を閉じたままのその顔は、いつも通りの笑顔のまま。ひんやりと冷たくて、ぴくりとも動かない。
 これが正しい結末だ。英雄は神に連れていかれ、ただのウサギは十年を数えずに死ぬ。
 そして、死を司るインレの黒ウサギは、取った命を忘れてしまう。だって仕方ない、全てのいとし子を覚えているなんて、とても辛くて悲しいこと、ウサギのちっぽけな頭では出来っこない。
 だから、冷たい体を抱いたまま、意味も無く彼は空を見た。重苦しい葉っぱの隙間から、ぼんやりと濁る月が見える。
 じわりと視界が滲む。雨が降るのかと思ったが、毛皮に水が落ちてくる気配は無い。
 その理由も当然、インレの黒ウサギは気付かない。病を得たりしなければ、ウサギが涙を零すなんてありえないのだから。
 だからその場所には、たった一匹のウサギの死骸が打ち捨てられているだけで。
 神様が涙を零したことなんて、誰も知らない気づかない、お伽噺のかけらのひとつ。