時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

16. Spooning

 ほんの僅か、浅い眠りからキュネーは目を覚ます。目の周りが痒くて、羽先の手でくしくしと掻いた。今日一日泣きじゃくっていたせいで、まるで瞼がくっついてしまったよう。どうにか瞳を開く前に、鼻先に僅かな血の臭いを感じて、びくりと恐怖に身を竦める。
 そっと赤黒く汚れた襟の隙間から這い出す。本来、この世で一番安心できるその温かいところから抜け出したくは無かったが、不安が先に立った。
 もそもそと乱れた服の上を進んで、目の前に広がる、仰向けに寝転んだクウロの顔を見る。すっかり血の気が引いたその姿はまるで死に顔のようで、もう体の中の水分を使い切ってしまった筈のキュネーの瞳がまた潤む。
 命に関わる怪我をして、親切な剣士――かなり異形の姿をしていたが、キュネーにとっては親切な良い人と判断して余りある――のお陰で、そこそこ腕の良い生術士にかかることが出来た。初対面のクウロの致命傷を塞ぐだけの術士なのだから、腕が良いのは間違いない。それでも、目を覚ますかどうかは本人の体力次第だと言われた。
 恐る恐る、彼の顔に近づく。小さな鼻から漏れる僅かな呼吸が、キュネーの細い髪と羽を揺らす。確かに感じたそれに、キュネーは今度こそ安堵して、そっと乾いてひび割れた唇に身を寄り添わせた。
「よかった……生きてて、よかった、クウロ……」
 全てを見通す天眼の持ち主。元黒曜の瞳の暗殺者。修羅であるが故、命を狙われるもの。きっと、これからも。
 そんな肩書きや事実は、キュネーの中であまり意味をなさない。勿論、それが彼を模る要素の一つであることは理解しているが、彼女にとってはどうでも良い事。
 キュネーが欲しいものは、彼の地位でも能力でもない。どんなに僅かでも良い、彼が笑ってくれること。それ以外要らない、と思えるくらい。
 初めて会った時、彼の瞳は酷く荒んで見えた。それでも、自分が囚われていた檻の鍵を開けてくれた。クウロは自分よりずっと頭が良くて、ずっと良く目が見えるから、沢山大変なことを考えていることも知った。それなのに、……ただの雇った相手と言いながら、キュネーの望みを何度も叶えてくれた。劇場に連れて行ってくれたし、紅果もくれた、だから。
 ――自分以外のひとに、笑ってほしい。喜んでほしい。自分が死んでも、生きていてほしい。それはきっと、恋と言うのだと、キュネーは思っている。
 たかが造人が何様のつもりだ、とこの世界の殆どの人には嘲笑われることかもしれない。それでも、キュネー自身が見つけた答えだ、誰にだって奪われはしない。
 そっと頬をクウロの口元に擦り寄せると、ぱり、と唇の皮膚が僅かに剥けた。ほんの少し開いた口も乾いているのか、ひゅうひゅうと掠れた音がする。いけない、と思って飛び上がり、きょろきょろと狭い部屋を見渡す。
 一応医務室の体をとっているこの部屋には、寝台の他に碌な家具もないが、それでも窓際に水差しが置いてあった。キュネーはすぐさまそこに飛んでいき、ものを掴むには不自由な手でどうにか蓋を開ける。並々と蓄えられた水を器に注いだり運んだりするのは流石に出来ず――覚悟を決めて、身を乗り出して水面にぱちゃんと顔ごと浸けた。
 口の中に目一杯水を溜めて、びしょ濡れの顔を上げる。すぐに寝台にとって返し、クウロの頬の傍に降り立ち、僅かに開いた唇の間にそっと自分の小さなそれを寄せて水を注ぎこむ。小人にとってもほんの数滴程度にしかならない水の量だろうが、クウロの細い喉が僅かに動いた。
「……ん、ぅ」
「飲める? もっといる?」
「ん……」
 小さな声で問うと、ほんの僅か顎が縦に動いた、気がした。勿論キュネーに否は無く、水差しと寝台の往復を何度も繰り返す。彼女にとっては重労働だが、全く気にならなかった。
「っく、こふっ」
 何度めかの口付けの後、クウロが僅かに咳き込んで、留めるように僅かに手が上がった。彼を苦しませるのは不本意だし、やっと彼の明確な反応が返ってきて嬉しかったキュネーは、すぐさま彼の元に戻りぺたりと頬に縋りつく。
「だいじょうぶ? ごめんね、お水多かった?」
「……ゅ、ねー?」
 少しだけ潤いの戻った唇が、引き攣れた声を絞り出す。それが自分の名前であることに少し遅れて気づき、キュネーは薄闇の中でまるで花が開くような笑みを浮かべた。
「うん、うん! ここにいるよ、クウロ」
「ぶじ……か」
 ほんの僅か、全てを見通す瞳が開く。きっと彼のことだ、意識を失っていたとしても、周りの状況は感じ取っているだろう。キュネーに傷一つないことも。それでも、真っ先に自分の無事を問うて来てくれたその声に、小さな瞳からまたぽろぽろと涙が零れた。
「っ、そうだよ。クウロのおかげで、怪我なんてしてないよ。クウロ、よかった、クウロ、クウロ……」
 何度もしゃくりあげながら彼の名を呼び、頬にしがみついていると、ゆるゆると持ち上がった掌がキュネーの背に添えられた。人間よりも大分小さな小人の手だけれど、キュネーを包み込むには充分な大きさの。
 漸く、ずっと欲しかった温もりが与えられて、キュネーの涙は止まることを知らなかった。


 ×××


 まだ朦朧とした意識の中で、それでもクウロには世界が見えている。
 ずっと彼女が、自分の傍にいたことも。
 ずっと彼女が、泣いていたことも。
 どうにか身を起こそうとするが、やっと命を拾った身体はちっとも自分の思い通りにならない。適切な治療を受けても、動けるまで暫くかかるだろう。
 その間に、どのように状況が動くか、予測は立てられるが動けないのが問題過ぎる。今のうちにキュネーだけでも――と自然に考えてしまった己が馬鹿げていて、不器用に口元が緩む。
「ぇ、クウロ……いま、笑った?」
 吃驚したキュネーの声が聞こえたが、今は彼女にいらえを返せない。本調子でない体は呼吸をするだけであちこち痛むし、また眠りに意識が引き戻されていく。
 それでも――それでも。
「……ここに、いてくれ」
 上手く回らない頭では、全ての建前が意味を成せなくて、漸く絞り出してしまった、そんな無様な言葉を。
「うん。……うん。いるよ、クウロの傍に、ずうっと、いる」
 泣き声交じりに、それでも彼女の顔が笑っているのをちゃんと見届けて、クウロは安堵の息をそっと吐いた。