時計+人形

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3. Gaming/ Watching a Movie

 ぱちん、と木の駒が盤面を叩き、学帽の下の形の良い眉がぴくりと顰められた。
「王手、だな」
 にやりと毛並みの良い口元を持ち上げ、ゴウトは笑う。差し出された手の先には、肉球に挟まれた桂馬が陣取っていた。
「……参りました」
 きゅ、と顎を引いて、ソファの上で正座したまま礼をする。所長である鳴海が仕事をさぼって逃げた昼下がり、事務所の掃除など全て終えて手持無沙汰になってしまった葛葉ライドウこと桔禰真柴に、ゴウトが将棋勝負を持ちかけた。結果、応接用のソファに座った真柴とテーブルの上に乗ったゴウトによる一番が行われ、見事ゴウトの勝利と相成ったのである。
「さて、何をして貰うか」
「お手柔らかに願います」
 負けたものは勝ったものの命を如何なるものでも聞くべし――そんなありがちな提案にも素直に頷いた真柴
は、覚悟を決めた顔をして居住まいを正している。厳しい修練でも与えられると思っているのだろうか。
 真面目な奴の本音が聞きたいゴウトの悪戯まがいの一環ではあったが、勝負に手を抜くつもりもない結果こうなった。さてどうするか、と毛づくろいをしながら暫し目を閉じ。
「よし、真柴」
「はい」
「活動写真を見に行くぞ」
「?……はい」
 疑問はあるものの、敬愛する上司であるゴウトに逆らう気は全くない真柴は、目を瞬かせつつも素直に頷いた。



×××


 弁士が声高に呼び込みをしている浅草の賑わいを、黒い外套を纏った学生服がするすると縫っていく。代金を払って入り口をくぐると、酷く暗い。目を慣らすため、何度か瞬きを繰り返す。
「なるべく後ろに座れよ。帽子を脱ぐ気は無いんだろう?」
「ゴウト殿、お静かに」
 外套の下からもごもごと囁かれた言葉に、小さい声で返す。猫が入ったことがばれたらあっという間につまみ出されるだろう。真柴の腕に抱き上げられ、外套の下で大人しくしている黒猫は、奥隅の席に腰を落ち着けた途端、隙間からひょこりと顔を出した。
「むう、これでは見えんな。始まったらもう少し持ち上げてくれ」
「畏まりました。……ひとつ、質問してもよろしいですか?」
 真柴の膝に座ったままでは銀幕が見えず、何度も曲げ伸ばしする柔い体をそっと抱き寄せながら、ひそりと真柴が囁いた。
「……何故、私をこちらに連れてきたのでしょうか。この建物の中に悪魔が?」
 念のため自分でも警戒してはいたが、悪魔の気配は全く感じ取れなかった。その旨も合わせて伝えると、暗い部屋の中の黒猫はやれやれ、と言いたげに首を振った。
「違う。言っただろう、活動写真を見に行くと」
「では、内容に意味が?」
「あー、まあ、そういうことにしておく。そもそもお前、活動写真を見たことがあるのか?」
「いいえ、一度もありません」
「それじゃあ、人生経験として見ておけ」
 その声と共に開演のベルが鳴り、真柴は口を閉じた。



×××


 弁士が唾を飛ばす勢いで朗々と語るのは、酷く陳腐で滑稽な人情芝居。普段から御伽噺の世界に半ば足を入れる悪魔使いにとって、何の面白みも無いただの作り話。その筈なのに――真柴はいつしか、銀幕の上に広がる世界に没頭していた。色素の薄い瞳は真っ直ぐ逸らされず、弁士の声を聞き逃さないように集中し続けている。胸元の猫を抱き上げることすら忘れている様子を見て、やれやれとゴウトは満足げに髭を動かす。
 最年少でライドウの名を戴いたこの少年に、少しは人間らしい生活を与えてやりたいと願うのは、ゴウトの我儘というよりは不安からくるものだった。
 帝都を守る悪魔使いとして十全の実力と気概を持っているのは、この短い付き合いで良く知っている。だが、それを支える彼自身が、あまりにも薄い。いざ、耐え切れぬ状況になった時――即ち、今信じていたものが無くなってしまった時、あっさりと折れてしまうのではないかと危惧してしまうのだ。
 恐らく鳴海もその辺を疑問視しており、なにくれとなく真柴を遊びに誘っている。酒や女はゴウトが許さないし本人も拒否しているが、誘い自体は決して不愉快ではないのだろう。――それはそれとして、面白くないが。
 くく、と猫の喉が鳴る。この子供を慈しんで愛でるのは自分以外に認めない――そんな傲慢な己に笑いしか漏れない。葛葉に縛られて幾千年、まさかここまで執着する相手に出会うとは。これは呪いか、はたまた罰か。何にせよ――楽しいのには違いない。
 弁士がヤァヤァと声をあげ、外連味たっぷりに刀を掲げた侍に、観客たちはどっと沸く。同時にほんの僅か身を乗り出した、未だ情緒の幼い子供の顔を、ゴウトは一番近い特等席から眺め続けた。



×××


 夕食後、奥の間の板敷きに布団を敷いて――事務所に西洋風の寝台はひとつだけで、成美が使用しているし真柴にはどうしても寝慣れなかった――就寝の準備を整えると、待ちかねたようにゴウトがするりと枕元に丸まる。
「……ゴウト殿」
 耐え切れず、声を潜めて黒い丸と化した猫に声をかけると、少し眠そうな声で「なんだ」といらえが返って来る。眠りを妨げて申し訳ありません、と四角四面に応えてから、改めて疑問を提示する。
「何故、本日は、あのような場所に連れて行って頂いたのでしょうか」
「なんだ、内容が気に食わなんだか? もっと綺麗な女優でも出る方がいいか」
「そうではなく。……活動写真の内容については、大変興味深かったです」
「ほおう、そうかそうか」
「主役の剣捌きは悪くありませんでした。何故あれほどの威力があるか疑問でしたが恐らく受ける側の演技で――」
 募る言葉が自然と出て、驚いて唇を噤んだ。問いたかっただけなのに、余計なことまで話してしまったと猛省するが、寧ろゴウトは悠々と敷布団の上に転がって翡翠色の目を向けてくる。
「どうした? 続けろ」
「はい、いいえ――その、餓鬼臭いはしゃぎ方をお見せして、大変申し訳なく」
「何だ気づいていなかったのか、お前は餓鬼だ」
 揶揄は篭っているが、蔑みではない。役目を果たせぬ悪魔使いの未熟さを責める言葉でもない。ゴウト自身だけでなく、そんな声を他者にかけられたことが初めてで、真柴は戸惑うしかない。
 薄闇の中で、翡翠色がすうと細まる。笑ったのかもしれない。
「餓鬼なら餓鬼らしく、目を輝かせていればいい。そら、もう寝ろ」
「……は、い」
 不本意さが声に出てしまったらしく、くつくつと猫が喉を鳴らす音がする。横向きになったまま布団にもぐりこむと、帽子を外した額をざり、と湿り気のある舌が舐めた。
「ゴウト殿、」
 まるで、親猫が子猫の毛づくろいをするように、何度もゆっくりと。なんともくすぐったい感触なのに、何故か心地よく眠りを誘う。
「子ども扱いは今日だけだ。明日からまた励め」
 いつも通りの突き放す言い方に安堵しながらも、優しい声をくすぐったく感じながら、真柴は意識をたゆたわせていった。