時計+人形

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ユメで逢いましょう

ああ、またこの夢か、とアツキはぼんやり思考する。
世界の裏側を垣間見て、其処で戦う騎士としての道を選んでから、見る夢といえばあの日の悪夢しか無かったのに。
場所は、朝靄でけぶるコンクリートの橋。自分がたったの1ヶ月弱、任務で過ごした街の入り口。
全ての事件が終わって、帰還する際にあの道を使った。ただそれだけのこと。日常は滞りなく戻り、自分の存在は全てあの街から消え去る。それで全てが終わったはずなのに。
まるで未練があるというように。
夢の中のアツキはまた、この道に立っている。
共に帰還したリュウ・イーも、全てを承知の上で自分を見送った神代ナミもいない。
たった一人で、この道に立っている。
一歩踏み出せば、夢から覚める。ここから立ち去れば、いつも通りFORT本部の自分の部屋で目を覚ます。
この夢を見るたび、毎回そうしてきた。それなのにまた、自分はここにいる。
やはり、とアツキにしては珍しく、自嘲の笑みが漏れる。
自分はどうにも、あの街に―――そこで出会った人達に、固執しすぎているらしい。
別れの際、神代ナミが言った言葉。有り得ない筈のその言葉を否定できない―――否定したくない自分がいる。
FORTによる情報、記憶操作は完璧だ。僅かな違和感も日常に埋没してしまえば、いずれ消えてなくなる。神代ナミはその先天的な力故に記憶を失わなかったようだが、それは例外中の例外だ。
結局、忘れたくないのは自分の方なのだ、と改めてアツキは思う。あの任務の際使用していたメールアドレスを未だに消せずに取ってあるのもそのせいだ。もう誰からも連絡の来ることはないアドレスをわざわざ取っておくなど
無駄以外の何物でもない。寧ろ身元を確定される危険が高まり、上層部から叱責を受けてもおかしくない行為なのに、今まで指摘されていない。事件解決の温情なのだろうかとアツキは予測している。
僅かな寂寥を振り払うべく、アツキは頭をぶるりと振って、そこから歩き出そうとし―――ヴォー…ンという、二輪の排気音を微かに聞いた。
馬鹿な、とアツキは両目を見開く。今までこの夢に、そんなイレギュラーな要素が入り込んだことは無かった。
誰かが、ここに近づいてくる。誰なのかは、朝靄の中でよく見えない。それでもバイクのランプが霞を切り裂き、アツキに存在を誇示した。
銀色のバイクは、アツキから僅か数メートルの地点で止まった。そこから飛び降りた人影は、まるでそこに誰もいないかのように、呆然と辺りを見回している。どうやら、すぐ近くにいるアツキの事も目に入っていないようだ。
まだ濃い霞のせいか、それとも夢故の理不尽さのせいか。アツキの場所から、彼女の姿ははっきりと見てとれるのに。
天然ではない金色の巻き毛が、まだ弱い太陽の光を反射して輝いている。肌は無理に焼いたわけではなく、健康的な小麦色だ。洒落た眼鏡をかけた瞳から、大粒の滴が零れ落ちているのさえ、はっきりとアツキには見えた。
今ならまだ間に合う。彼女が自分に気づかないうちに、ここから立ち去ればいい。これは夢だ。単なる自分の思考の慰めだ。ここで彼女にどんな言葉をかけても、本当の彼女には届かない、届かなければ全く意味がない。
僅かに震える膝を叱咤して、ゆっくりと踵を返す。今ならまだ間に合うと、何度も口の中だけで繰り返しながら。
「…西条くんの…バカ……」
ぽつりと呟かれたはずの声がはっきり聞こえて、足の動きが鈍りそうになるのを堪える。理解している、彼女を傷つけたことは。
「まだ私、何も伝えてないよ…迷惑かけてごめんねも、助けてくれて、ありがとうも言ってない…」
そんな事はないと、やはり心の内だけで言う。忘れていた思いも、知らなかった気持ちも、受け取ったのはこちらの方だ。礼も詫びも、自分が言うべきなのだ。
「なんで、なんで私今まで忘れてたの…? いちばん肝心な時に、何にも出来ない…!」
嗚咽が聞こえる。きっといつか見た時と同じように、堪え切れない子供のように泣いているのだろう。
あと一歩、あと一歩でこの橋から出られる。早く彼女自身を冒涜するこの夢から覚めなければ。アツキは本気でそう思い、止まりかける足を無理やり動かした、瞬間。


「夢の中でぐらい…間に合ったっていいじゃない…!」


そんな彼女の悲痛な叫びが聞こえたから。
アツキは踵を返し、まっすぐに駆ける。過たず、山瀬ルイに向かって。
足音が聞こえたのだろう、涙を一杯溜めたまま、不思議そうにあげられたルイの顔が見えて。
最早足は止められず、アツキはその勢いのままにルイの体を抱きしめた。
「…………泣かないで」
漸く絞り出した言葉は、無様に掠れていた。
「ぇ……ぁ、西条、くん? うそ、ほんとに?」
呆然とした声と、もどかしげにアツキの存在を確かめるように触れてくる手。アツキの中に、まだ名前をつけられない感情が沸き起こってどうしようもなくなり、自分の腕の力を強くすることしか出来ない。
「悪いのは、全部俺だから。泣かないで、欲しい」
「…あ、はは。西条くん、だぁ」
「山瀬さん…?」
自分と同じぐらい掠れた、笑い声が聞こえてアツキは僅かに身を離す。腕の中に、まさしく泣き笑いと言うに相応しいぐらい顔をくしゃくしゃにした、ルイがいた。
「やっぱり、西条くんは優しいね。夢でも、嬉しい」
眼鏡をずらして涙をぬぐい、それでも止まらなくて、今度はルイが自分からアツキの胸に飛び込んだ。
「逢いたかったよぉ…!!」
力任せの体当たり。すがりつく女性というよりは、親にやっと会えた子供のようながむしゃらさ。
しかしそんな行動こそが彼女の魅力であると、アツキは充分すぎるほどよく知っていたので、しっかりとその体を抱きしめて、自分も少しだけ、彼女から見えないところで泣いた。
もう二度と会うことは無いのだから、夢の中でぐらい良いだろうと、こちらも子供っぽい言い訳をしながら。
それでも二人の思いはどこまでも切実で、だからぴったりと重なって離れなかった。





感情の爆発が漸く落ち着いて、僅かな気恥ずかしさが頭を擡げた頃。
ぎごちなくお互い体を離してから暫く、口を開いたのはルイの方が先だった。
「あはは、今時流行んないよね、夢の中で会うなんて」
顔を赤くして早口で紡がれたその言葉に、アツキの方がきょとんとした。先刻からの話を鑑みて、今一つ不可思議な所があったからだ。
「…山瀬さん」
「う、うん?」
「夢を見てるのは…俺の方じゃないのかい?」
「へ?」
真剣なアツキの声音に一瞬緊張したルイは、続けられた話にこちらもきょとんと目を見開いた。お互い目を見合わせ、何度か瞬きする。
「わ、私はここ最近ずっと…あの日の夢ばっかり見て。誰に聞いても、西条くんのこと忘れてて、ムカついたからアキラのバイクぶん取って走って、この…橋まで来て。いつもはここで目が覚めるんだけど、今日は…」
ぽつぽつと説明される「彼女の夢」にアツキは驚愕する。有り得ない事だ。他人と夢が共有できるのは双子等の特殊なケースに限られる。彼女の強力すぎるリーディング能力が、一度アツキの深層意識まで入り込んだ事はあるが、まさかこのような作用を誘発するとも思えない。
彼女は自分自身が作り出した、都合のいい幻、夢の登場人物に過ぎない筈。そう何度も自分に言い聞かせても、湧き上がる喜びが止められない。
「俺も…」
「西条くん?」
「何度も、見てる。この日の夢を」
「えっ…」
だから思わず零してしまった。目を真ん丸にして驚くルイの顔を見ると羞恥心が湧くが、言葉を止めることが出来ない。
「今まで、こんなことは無かった。任務が終われば、もう用が無い場所に執着なんてしなかった…すぐに、忘れてしまっていた、から、っ!」
ぱぁん!
結構鋭く、両の頬を掌で挟んで叩かれた。正直痛い。ルイは思い切り振り上げた手をそのままに、アツキをじっと睨みつけながら、叫んだ。
「そんな事言わないでっ! 西条くんまで忘れちゃったら…本当に、何もかもなくなっちゃうじゃない!!」
「――――…」
「わ、私も忘れちゃったんだもの! 思い出せたけど、忘れちゃったんだもの! そうしなきゃ駄目だっていうんなら、せめてっ」
悔しそうに歪んでいた顔が、また涙で溶ける。
「西条くんは、覚えててよぉ…」
「………うん」
真っ直ぐに届けられる言葉は、アツキの心の障壁を易々と破り、心臓を包み込む。気づかない振りをしていたその感情はとても心地良くて、抵抗を忘れた。自然にもう一度、腕の中の体を抱き寄せる。子供を宥めるようなその仕草に、激昂していたルイもはたと己を取り戻した。
「っ、ゴメ…私すっごい勝手なこと言ってるね」
「いや、いいんだ。怒るのも当然だと思う」
「ううん、大丈夫だから、西条くん」
もう一度、柔らかい掌がアツキの頬に伸ばされた。一瞬体を硬くしてしまうが、それは先刻とは真逆の柔らかさで、頬を包み込んだ。
「もう私、思い出したから。絶対忘れない。西条くんが忘れてって言っても、聞いてあげないからね」
まだ目尻に涙が溜まったままだけど、彼女はそう言って微笑む。その顔を見て、やはり優しいのは自分でなく彼女の方だとアツキは改めて認識した。
「…もう、会えないんだよね」
こつんと、ルイの額がアツキの肩に当る。否定も肯定も出来なくて、アツキは詫びを込めて彼女の頭を撫でることしか出来ない。
「…メール」
「え?」
思わず、唇からぽろりと漏れた言葉に、ルイが反応してしまった。どうするか一瞬逡巡するが、覚悟を決めて息を一つ飲み、改めて告げた。
「まだ、アドレス変えてないから……。返事は、そんなに出せないと思う、けど」
途中で言葉は封じられた。改めてルイがアツキの体に思い切りしがみ付いてきたからだ。
「メールするよ! いっぱいする! まだ言い足りない事、沢山あるんだもの!」
また彼女の目尻からは涙が零れていたけれど、その顔は満面の笑みだった。Σを使わなくても解る、彼女の思いがなんであるのか。
きっとこれで、自分が彼女の思いに答えられる存在ならば、誓いの口付けでも交わすのだろう。だが、自分には出来ない。彼女に幸福を与える事など、永遠に。
だからやはり、もどかしげに思ったより細いルイの体を、抱き締めることしか出来なかった。
やがて緩やかに太陽が昇り、靄を晴らしていく。同時に、ルイの輪郭もぼんやりと消えていく。そして、アツキ自身も。
「あ、やだ! まだ話したいこといっぱい…!」
「山瀬さん!」
「西条くん! 私、あなたのこと――――」
最後の、聞いてはいけない言葉は光に掻き消され、意識が真っ白になった。





そして、アツキは目を覚ました。
いつも通りの、余計なものが何も無いシンプルな自分の部屋。ここ数日は休暇という名の待機を続けていたが、もうすぐ新しい任務が入るだろう。
サイレントとの戦いは永遠に終らない。いずれ自分も、その道程で力尽きるのだろう。死ぬつもりは微塵も無いが、その事に後悔も無い。元より一度死んだ身で、これ以上何を望むというのか。
まだ夢の残滓を振り切れない自分をそう叱咤して身を起こそうとすると、この部屋に場違いなメロディーが不意に流れた。
「!」
音源は携帯電話。彼女から貰った音楽だから、彼女のメールが届いた時に流すように設定した。
震える手で携帯を手に取り、開く。通信に関しても防衛力の高いこのFORT本部に、何の変哲も無いメールが届くだけで驚愕すべきことなのに、アツキは自然とそれを受け入れていた。まるでまだ夢の中にいるようだった。
文面は何の変哲も無い感謝の手紙。きっとまだ、怒っているだろうに、とても優しい。
まるで宝物のように携帯をそっと閉じ、アツキは目を伏せた。
答えられなくても、ここで誓う。―――もうひとつ、死ねない理由が出来たのだと。