時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

絵巻物の切れ端

極北の地、カムイにも短い春がやって来た。
水は温み、厳しい大地に住む人々に束の間の休息を与えてくれる。
それを見守るように立つ賽の目の華が、惜しげなく薄紅色の花びらを散らしている中、一匹の獣が走る。
毛色が朱と藍に分かれているその獣の額には、面が被さっている。極北に住まう一族、オイナ族の証だ。しかしそれよりも目を引くのは、その鼻面で絶え間なくぴょんぴょんと飛び跳ねている翠色の光の球。これも、北方に住まう種族の一つ、コロポックルの輝きだ。
「おゥ、止まれィオキクルミィ!」
やがて獣の足が目的地に辿り着いたのか、光の球からの声に応えたのか、ざざっと土を蹴立てて止まる。そこは、遠い昔に天から落ちてきた箱舟を氷で閉じ込めていた湖。今やそれは無くなり、春の陽気も手伝ってその湖面は随分と穏やかに輝いていた。
「ふェ〜ッ、随分とキレイになったじゃねェか」
ぴょいと鼻面から飛び降り、やはり地面を跳ねながら光の球は感心したように呟く。その後ろで佇んでいた狼は、ぐるん!と回転して飛び上がり、すたりと再び地面に降り立った時は人の身体をとっていた。
「あの箱舟が無くなって以来、ずっとこうだ。これがここの、本来の姿なのだろうな」
「上等上等! こここそオイラの旅立ちに相応しいってモンだぜェ」
偉そうに胸を張る光の球―――正確には光の球の中にいる、見た目だけなら少年にしか見えない小さな剣士だが―――は、迷いの無い足取りで湖へ向かっていく。それを見送るオキクルミと呼ばれた剣士は、面の下からでも不審げな視線を隠さずに言った。
「しかし…本気なのかイッスン? ここから、天に昇るなど」
「何でェ、この天道太子サマの腕前を信じねェのかい?」
地上から妖怪達の跋扈が全て取り払われてから暫く。自らの未熟さを払拭する為、イッスンは一人で諸国を行脚し、役目を果たしながら、神の行である筆技の修行を続けた。やがて、殆ど全ての筆技を習得し、彼は故郷であるこのカムイに凱旋してきたのだ。頑固な祖父は憎まれ口を叩きながらも嬉しそうだったし、友人達は皆諸手を上げて迎えてくれた。その腕前は確かで、オキクルミも彼の筆が大地に華を咲かせ風を吹かせ、水を操るのをこの目で見た。その実力は感嘆に値する、けれども。
「お前の腕は良く理解している。それでも、タカマガハラまで続く橋を作るなど…」
殆ど夢物語としか思えなかった。神の住まう国へ続く、地上より伸びる橋。あの箱舟が飛んでいった遠い空の彼方へ、いかなる方法で向かうというのか。この、人間よりもとてつもなく小さな身一つで。
「大体、何故ここなのだ? 天に昇るのならば、もっと他に相応しい場所があるのではないか?」
例えばこのカムイに存在する火の山や、ナカツクニにあるという天まで届くかのように高い塔など、その方が余程登り易いのではないのだろうか。そんな最もな疑問を発したオキクルミに、イッスンは若干バツが悪そうに応えた。
「そんなん、決まってンじゃねェか」
くるりと湖に向き直り、飛び跳ねずゆっくり歩く。輝く湖面はやはり美しく、彼を迎えてくれた。その光を作り出すのは、太陽。
「ここで離れッちまったんだから、こっから行かなきゃァいかねェんだよ」
天を仰ぎ、独り言のように呟くイッスンの言葉に、オキクルミも面の下で僅かに瞠目した。
全ての決着をつける為に、箱舟に乗り込もうとした大神とイッスンの道は、あそこで分かれることになった。ずっと共に旅をしてきたけれど、この別れは必然であるとイッスンの方は理解していた。修行を途中で投げ出し、祖父の絵を自分の実力と嘯き、面白おかしく暮らそうとしていた堕落は、神の箱舟の敷居を跨ぐことを許さないだろうと。どんなに憎まれ口を叩いても、その役目の重さと尊さを何より理解していた彼だからこそ、そう結論付けることが出来たのだ。
しかし、大神―――太陽神アマテラスは、納得しなかった。イッスンの言葉の意味が解らないと言わんばかりに、何度も吼えて彼と共に行こうとした。その箱舟の扉が閉まるまで、必死に吼え続けた。彼女の言葉が理解出来ないオキクルミにも、その叫びは理解できた。―――あの時彼女は、必死に彼の名を呼び続けていたに違いない、と。
「さ、解ったらちィッと離れてなァ。この天道太子イッスン様の――――、一世一代の筆しらべを見せてやらァ!!」
ちきん、と刀の鞘に付いている筆先を手に取り、イッスンは迷いの無い筆さばきを見せる。しゅいん、と天に半円が描かれた瞬間、それは三日月の形に変わり、スゥ…と辺りを夜の闇が覆っていく。
「おお…」
その不可思議さと見事さに、思わずオキクルミが声を漏らす。変化はそれだけでなく、湖面にも現れていた。
陽光に煌いていた湖面は静かにその身を沈め、代わりに無数の星々がそこに映っている。それはまるで、夜の空に描かれた天の川のようで―――
「いっくぜェ、アマ公ォ! そのポアッとした目ン玉見開いて、よォッく見やがれェ!!」
天にいるであろう大神―――自分の唯一の相棒に向けて、彼は笑いすら混じらせて叫び。
気合を入れて、ありったけの星を虚空に向けて書き込んだ。
それはきらきらと輝き、蘇神の力によって真の星となり―――――天へ届く梯子となった。
「――――…ヘヘッ。ざッとこんなモンよォ」
筆を納めた彼の足は、止まることなく既にその梯子を駆け出していた。その後姿を見送るオイナ族一の戦士は、一歩前に出て叫んだ。
「見事だ、イッスン!! ―――タカマガハラまで辿り着けたら、伝えてくれ! 我らオイナだけでなく、ナカツクニの民全ては、お前達の偉業に対する感謝を決して忘れぬと!!」
その声に応えるように、星の海の中で翠色の光が、一度だけ輝いた。
見送るオキクルミの脳裏には、ここまで道案内という名の運搬を頼まれた時に発した問いに対する、彼の言葉が蘇っていた。
『何の為に行くのかって? ヘッ、そいつァヤボってモンだァ。仕方ねェだろ、――――』
く、と面の下の唇が緩む。全く、あいつららしいと、オキクルミは密かに喜びと安堵の混じった息を吐いた。真面目なのか不真面目なのか解らない、不遜でとぼけたあの二人組だからこそ、自分を初め、この地上の者達は救われたのだと解っているから。
彼らの再会を願い、また祝福しないわけが無かったのだ。





ぴくり。
白い毛に包まれた耳が、立ち上がり、次に顔が上げられた。
「……あぅ?」
きょろきょろと辺りを見回し、彼女は自分を呼んだ相手を探す。確かに聞こえたような気がしたのだが、ときょろきょろきょろ…としているうちに、また瞼がとろとろと重たくなった。
「くぅ…」
辺りには花が咲き乱れている。妖怪達に蹂躙されたタカマガハラの復興も、漸く一段落ついた。ウシワカも嘗ての過ちを取り戻さんとばかりに精力的に働き、今は長年の確執を取り払う為、月に出向いている。
たわわになった黄金の桃をたらふく胃袋に詰め込んでご機嫌なアマテラスは、遠慮なく惰眠を貪ろうと自分の毛に顔を埋め―――
ぽいん。
「く?」
鼻面に、妙な感触がした。硬いような柔らかいようなものがぶつかった、驚いたけれどとても覚えのある感触が――
ぱち、と目を開くと。
「…………よォ。相ッ変わらずマヌケな面だなァ」
翠色の光が、目の前にあった。ぱちぱちぱち、と黒豆のようなつぶらな瞳が慌しく瞬きする。
「オイ、何だよその反応は。タカマガハラくんだりまで来てやった相棒に、挨拶のひとつも無しかァ?」
「…わぉんっ!!」
目の前にいる、喋っている、別れた時と寸分違わぬ相棒の姿に、アマテラスは嬉しさの余り我を忘れた。我を忘れて―――人に甘えるときと同じ感覚で、鼻面を擦り付けて顔を舐めようとしてしまった。結果、
ぱくりもぐ。
「………………」
「………………」
双方、沈黙が落ちる。イッスンは当然アマテラスの口の中に閉じ込められて何も叫べず、アマテラスの方はあ、やっちゃった、といいたげに冷や汗を垂らし。
しかしいつまでも黙って現実から逃げているわけにはいかず―――行動を再開した。
「………ぺっ」
「…ブェーッ!! て、テメェなンつうことしやがる! 食い意地張り過ぎなンだよこの白毛布ッ!」
「がぅ! あう!!」
「良く見たら随分と毛ヅヤが良いじゃねえかよッ! オレが厳しい修行に身を置いてる間、さんざん食っちゃ寝してたンだろうがッ!」
「!!!」
「…図星だな?」
がーん!という効果音と共に、必死に首を横に振りたくるアマテラスだったが、冷静なイッスンの突っ込みにきゅーん、と頭を垂れた。
「…ヘヘッ。ヘヘヘ。ッたァく、変わってねェなァ」
「あう?」
嬉しさを堪えきれていないイッスンの声に不思議そうに顔をあげると、その鼻面に再びひらりと翠色の光が乗っかった。
「お前がそんなンだからよォ、オレもおちおち全国行脚なんてしてられねェわけよ。オレがいなけりゃなァんにも出来ねェからなァ、お前は」
ごろん、と鼻面の上でイッスンが横になる。眉間と額を背凭れ代わりにして、太陽の輝く空を仰ぐ。背中に感じる温かさと柔らかさは、やはり嘗ての頃と全く変わらなくて。
「…仕方ねェだろ。どんなお姉ェちゃんの乳の谷間より、この白毛布が一番寝心地がイイと思っちまったんだからよォ」
再会したら、色々と言いたいことはあったのだけど。―――うっかり鼻の奥がつんとしてしまったので、言えたのはそれだけ。
「わん!!」
それを気付いているのかいないのか、アマテラスは元気に一声鳴く。それに応えるようにイッスンは一際高くぽーんと跳ねた。
「おォし! 一丁タカマガハラとやらをぐるりと回ってみッかァ? ヘヘッ、あン時と逆だぜェアマ公。オレは全ッ然知らねェからよ、お前が案内しなァ!」
「わん! わんっ!!」
「オレ様の筆しらべの腕、見せてやるぜェ! もう一つや二つは、お前より上になったかもなァ!」
「アォ――――ン!!」
不遜な自信の言葉に対し、狼は遠吠えをひとつ放ち。
まるであの時神木村で始めて会った時のように―――或いは箱舟の前で別れる直前のように―――、離れていた時の長さなど微塵も感じさせずに、一人と一匹は天の花畑を全力で駆け抜けていった。