時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

シンドローム

満ちた月が煌々と輝く夜。
うら寂れた街中を、僅かに背を丸めた細い体躯が一人歩いていく。
ふらふらと夢遊病者のように、その足取りは覚束ない。
まるで天空の月に魅入られたように。





ふと、影が足を止めた。
目の前に、数人の人影が現れて自分の行く手を塞いだからだ。
「兄さん、危ないぜぇ。こんなとこ一人でほっつき歩いてたらなァ」
「知らねぇのかい? 最近ここにゃ、血に飢えた殺人鬼が出るってぇのに」
にやにやと下卑た笑いを浮かべる男達は、まるで楽しんでいるかのように各々懐から獲物を取り出す。自らの力を誇示するかのように、彼らは手を使わずにその獲物を弄ぶ。―――念動力だ。彼らは皆、サイキッカーの端くれらしい。かのサイキッカー組織、ノアに属する幹部達とは比べ物にならないほどの弱い力だが、何の力も持たない普通の人間にとっては充分な脅威に成り得る。
「……も、目的は…なんですか? お金が…」
恐怖に上擦った声で、人影が後退る。しかしその退路はいつのまにか男達の仲間で塞がれており、完全に辺りを囲まれてしまった。
「金かぁ。それもいいねェ。けどなぁ兄ちゃん、世の中にゃ血を流すだけで嬉しいってぇヤツも多いんだぜぇ」
「この辺にいるのはみいんなそうさ。あんたが泣き叫んでくれるのが、嬉しくて仕方がないんだよ」
どこか瞳の焦点を合わせずに、笑っている者もいる。悪い薬をやっているのかもしれない。じりじりと狭められる包囲網に、人影は怯えたように身を竦ませることしか出来ない。
「…やめて……これ以上は…」
「ほら、泣けよ。這いつくばって命乞いしたら、考えてやらなくもないぜ?」
嘘である。命を助けてもらう為に泣き叫び、懇願する者を彼らはあざ笑いながら切り刻むのが、一番の楽しみなのだ。男も女も子供も老人も、関係ない。
人影は、最早空にしか逃げ道がないかというように、月を仰いだ。狂ったように照らし続ける月光に当たった髪は、若者にしては有りえないほどの白銀色をしていた。
「…駄目だ――――、出てきちゃいけないッ…!!」
「へへへ、どうした?」
「つまんねぇなぁ、もうイカレちまったか?」
がくり、と膝を崩折れさせる青年に、不用意に一人、両手でナイフを弄びながら近づいた。
「イヤだああああああああああああっ!!!」
絶叫。
と共に。

ギゴッ!!

「ひ?」
鈍い、おかしな音があたりに響いた、と思った瞬間。
その男は、自分の両手が有りえない方向に曲がっていることを認識した。
痛み、とは捕らえられないほどの衝撃は一瞬後にやってきた。
「ひ、ひ? ひぃ、ひ、ひぁやあああ!!」
だらり、ともはや肩からぶら下がることしか出来ない役立たずの両手をぶらぶらさせて、男は叫んだ。甲高い悲鳴に他の者達が足を止めると、俯いていた青年がゆら、と立ち上がった。
「あァ――――、イカレてるぜ…? とっくに」
声色が、変わった。押し殺すような震えたものから、心底楽しげな笑いを含んだ、上擦った声に。
「良い月だ…絶好の、殺し日和だァッ!!」
既に常軌を逸していた瞳は、じろりと獲物達を睥睨し、楽しげに哄った。




虐殺が、始まった。
狩人であった筈の男達は、何が起きたのかも解らないまま恐怖の涙を流し、今まで祈ったこともなかった神に懇願しながら殺された。
ある者は全身を爪でずたずたに引き裂かれ、あるものは建物の壁に思い切り叩きつけられ、あるものは道路の上で、何か重いものが上に乗ったかのように、ぐちゃぐちゃに潰された。
その地獄絵図を作り出した青年は、白い髪を紅く染めたまま、堪えきれぬ快楽に身を任せていた。
血が騒ぐ。体が沸き立つ。
もっと血を。肉片を。
飛び散らし、掴み取り、食い荒らしたい。
「ああ―――確かに。良い月ですねェ」
「!!?」
唐突に、自分の真後ろに人の気配が湧きあがり、青年は咄嗟に爪を後ろに振るいながら飛び退った。後ろを視界に入れた時、既に誰もいなかった。
「知っていますか? このような満月の夜には、強盗・強姦・殺人等、凶悪犯罪事件が増加します。ロマンチストな方々は、月に魅入られた獣達の因子が、人間に含まれているからだ等と言っていますがね」
声を頼りに、青年は空を見上げた。
浮かんでいる。
長い黒髪を月光に靡かせ、宙に浮かんでいる。
目の前の男の実力を良く知っている青年は、僅かにうろたえて距離を取った。しかしその紅く光る瞳には既に、新しい獲物をどうやって仕留めようという喜悦が浮かんでいる。宙に浮いた男は、返事を返さないことには構わず、どこか揶揄を含んだ声音で講義を続ける。
「実際、狂気など個々人の脳内で行われる自浄作用に過ぎません。月光症候群と尤もらしい理由を後付けして、正気と狂気の間に明確な線引きをしたがっている――――愚かにも」
「チッ…」
舌打ちが、講義を止めた。青年が自らの内に秘めた力を解放しようとしている。ぐわり、と音がして、空間が歪んだ。辺りの石片や鉄骨が浮き上がり、明確な意思によって男にぶつけられようとしている。
「ゴチャゴチャくだらねえこと言ってんじゃねえ! ヤるのかヤらねぇのか、どっちなんだァ!? ―――ウォンッ!!」
激昂と共に、ゴウッ!と幾本もの鉄骨が男を襲う。それが当たるか当たらないかぎりぎりのところで、男の体はまるで空気に飲み込まれたかのように掻き消えた。
「何ィ!?」
「貴方は湾曲な表現はお嫌いのようですね。では結論を出しましょう」
またしても後ろに気配。咄嗟に岩石を後ろに向けて落とす。しかしその瞬間、死角から殺気を感じた。
「なッ……!?」
避ける隙など無かった。
ドシュッ!!と音がして、金色の剣が脇腹に突き刺さった。
「あ゛ぁああああああああッ!?」
獣の悲鳴が辺りに響き、がくりと青年は膝をついてしまった。ふわり、とその目と鼻の先に黒髪の男も降り立った。
「てっ…メ、エ…!」
ぎり、と歯噛みをしてその男を見上げる瞳は、紅い。まるで血を固めたような狂気の瞳に、何故か満足げに男は笑った。
「狂気と正気の間にあるものは境界ではありません―――それは薄皮一枚隔てているだけの表裏に過ぎない。どのような者でもきっかけさえあれば容易く反転できる。―――ブラド、貴方のようにね」
くい、と白い手袋で包まれた指が細い顎を持ち上げる。白髪の青年が、乱暴にそれを振り解こうとすると、
どっ!
「っぐあああ!?」
自分の腰に刺さった剣よりは幾分小ぶりなしかし鋭い剣が、地についた手の甲に突き刺さり地面まで貫通していた。
男は更に容赦なくその剣を手にとり、ぐりぐりと傷口を広げるように動かす。悲鳴も上げられず、青年は仰け反って息を呑んだ。
「月に浮かされた等、幻覚に過ぎない―――。早く戻りなさい、ブラド」
「ぅるせぇ…ぞ、テメェ…! 足りねぇ…足りねぇんだよオオオ! 殺させろぉおおっ!!」
牙を剥き出しにして叫ぶ獣に、ウォンは一瞬不快そうに眉を顰め。
その細い瞼を開き、冷たい目を相手の紅いそれに合わせた。
「―――――? っ…あ…」
ぐらり、とブラドの視界が歪み、瞳の光が無くなる。簡単な精神制御ならば、ウォンにも可能なのだ―――本格的に押し留める為には、氷の総帥の力が必要だろうが。
「…気が付きましたか?」
「…ゥォ、ン、さん。僕は―――…」
「安心なさい。この辺りを騒がしていた、殺人鬼のサイキッカーはもう一人の貴方が倒しました。これでキース総帥も、お喜びになりますよ」
「…そう、ですか。よかった…」
今までの狂気の澱を全て洗い流してしまったかのような穏やかな笑顔で、もう一人のブラドは呟きゆっくりと目を閉じた。
「ウォンさん…僕、役に立ってますよね…皆さんのお役に…立ててますよ、ね…」
うわ言のように呟かれる声に、ウォンは耳元で囁く。
「ええ。―――お疲れ様でした、ゆっくりお休みなさい」
かくり、と白髪の頭が傾ぐ。完全に意識を飛ばしたブラドの身体を、ウォンはゆっくりと抱き上げた。
「本当に―――貴方は役立っていますよ。私の為に、ね――――」
この辺りにサイキッカーのレジスタンス―――といっても、殆どが人間や軍隊に私怨を持つ、強盗まがいの暴力屋達―――があることは調べがついていた。どうしようもない小物達で、とても役に立つ兵士になるとは思えない。
しかしかの総帥は、どんな者であれどサイキッカーは救うべき、との理念を掲げているので迂闊に動こうとはしない。だからこそ「サイキッカーの殺人鬼」にそこを襲わせ、その殺人鬼をブラドが倒すという方向に動かした。毎夜総帥の目を盗んで、自らの性癖を解放させる「殺人鬼」を野に放しながら。
もう一人の自分が毎夜、どのような行為を行っていたのか知るべくも無く、ブラドは安らかな寝息を立てている。その口元に満足げな笑みさえ浮かべて。
―――――嗚呼何ト悲シキ哀レナル道化ヨ。
戯曲のような祈りの言葉を口ずさみ、ウォンは満足げに笑い、腕の中の細い体の腰と手の甲の傷を撫ぜた。
「まだまだ、役に立って貰いますよ――――私の為に、ね」
ゆっくりと歩き出しながら、ウォンは天を仰ぐ。月の光が眼鏡に反射して、煌く。
「ああ。本当に今夜は、良い月ですね――――」