時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

惑い淵の合わせ鏡

<虚ろなその深遠を、酷く不快だと感じた。
だから自分が、埋めなければならないと思ったのだ。>



「市! 何処にいる!」
廊下をぎしぎしと音を立てながら、浅井長政は良く通る声を張り上げた。その声には若干の苛立ちが混じっていたが、家臣達はいつもの事である故に、首を竦めながらも顔を見合わせた。
「と、殿。姫(ひぃ)様でしたら、御自分のお座敷の方に」
「何…? 出陣前に、何をやっている!」
「そ、それは何とも、我々には」
「もういい! 準備を続けよ!」
「「ははっ!」」
平伏した部下を一瞥もせず、長政は大股で去っていく。おずおずと顔を上げた家臣達は、顔を見合わせてどちらからともなく溜息を吐いた。
「姫様もご苦労なさる…」
「姫様まで戦場に出さずとも…」
「しかも信長様相手だぞ。いくら正義の為とはいえ、惨すぎる」
交わされた言葉は、家臣達の本音だった。現在浅井の家に置いて、君主である長政の正義を愛し悪を断じるその心意気に、心の底から賛同しているものは少ない。彼らの中には本来織田の家臣も多く、長政よりも信長に付くことを考えた者も多々いるという。しかし離反が殆ど起きなかったのは、偏に信長の妹、市の求心力にある。
「我等で、姫様をお守りせねば」
「うむ、然り」
市のことを思う時、彼らの瞳は一様にぼんやりと虚ろになる。それはどこか恋焦がれているようにも、魂を抜かれているようにも見える。どちらなのか、どちらもなのか。それは本人達にも解らない。
傾国の美女といわれ、大勢の武将より求婚を受けた彼女が、選んだのが長政だった。それ故に家臣達は長政を奉じるのだ。その後ろで美貌を崩さず、影が差したまま微笑む薄幸の姫君を奉ずる為に。
そんな家臣の心の在り方を知らぬ長政は、相変わらず苛立ったままの足取りで屋敷の一番奥に通じる襖をパァン!と開け
た。
「市!」
「………長政さま」
突然の音に驚くでも怯えるでもなく、ゆるゆると黒い影が振り向いた。
普段から市は、長政の顔を見ない。まるで目を合わせることが酷い不敬であるとでもいうように。その態度がまた長政を苛立たせるのだが、このように不意をうった時、市はまっすぐに長政と目を合わせる。だから長政も、市の部屋の戸を開ける時には声もかけずに思い切り引き開ける。無論、彼自身にそんな自覚は無いが。
「戦支度もせずに何をやっている! 連れて行けと言ったのはお前だろう!」
「…ごめんなさい…ごめんなさい……」
しかし長政が気を取り直して声を張り上げると、その目はすぐに伏せられてしまう。か細く漏れるのは謝罪の言葉と、ぱたりと畳に落ちる雫。
噛み合わない言葉とその雫に長政は唇を噛み、畳の上に片膝を下ろす。俯いたままの妻の顔を覗き込むように顔を近づけ、どうにか先程よりは声量を絞って言葉を紡いだ。
「…良いか、市。兄上といえど、この戦乱の世に混乱しか齎さぬ諸行、即ち悪。お前も私の妻となったのならば、正義の行いを為さねばならぬのだ。私に従え、市」
「……長政さま…にいさまは強いわ…とても怖い…怖いの…」
俯いた顔は上がらない。震える声は恐怖の為か、涙の所為か。虚ろな瞳が、彼女自身と同じ、あの男の闇の深遠を覗き込んでいるようなその姿に、長政は湧き上がる焦燥を苛立ちに置き換え、細い両肩を掴んだ。
「市ッ! …それほどまでに兄上は、お前にとって…!」
紡ごうとした言葉をぐっと堪えた。これ以上言葉を続ければ、自分の中の「悪」を―――彼女に一番近いモノである義兄に対する嫉妬を、目の当たりにしてしまうからだ。自分の中にそんなものがあるとは認めたくない長政は、必死になってそれを否定する。
―――そしてそんな葛藤こそが、市が彼を最もいとおしいと思う理由であることにも気づかない。




<溢れる光を温かいと思った。欲しいと感じた。
この身の虚ろが満たされることなど無いと解っていたのに。>




長政の歯が軋む音が、至近で耳を揺さぶった。不快なその音に、市は僅かに身を竦ませる。
かの夫(ひと)が恐ろしかった。声を荒げ、苛立ちを隠さず、自分を責めるそのあり方が、自分への罰だと解っているからこそ、怖くて仕方が無かった。
そして同時に蔑んでもいた。何も付随しない、「正義」という言葉だけでこの地獄の戦乱を生き抜こうとしてる浅慮。そんな中身の無い屋台骨では、他の信念を持つ武者達にあっという間に砕かれてしまうだろうと。
この二つの感情は、市の中で矛盾しない。この世の全ては恐ろしくまた愚かであると、彼女は子供の頃から―――否、生まれた頃から知っていた。
魔王の妹として、生を受けてから。
正しく魔王として生きる兄が、恐ろしく(あの人は自分を蔑んでいるもの)、それでも憧れて(あのように生きられたら楽になれるのに)、愚かしいと(いつかはあなたもしんでしまうのに)、思った。
絶望の淵を覗き続けた自分を掬い上げてくれたのは、兄でも色香に迷う荒武者達でもなく、ただ輝く鍍金を塗しただけのこの男だけ。その手はあっという間に砕け落ち、共に奈落の泥沼に沈むことは解っていた。
それでも。
「長政さま…。………市、長政さまのこと、好きだよ。長政さまのすることなら…市、お手伝い、したい…」
こんな眩しい光を、与えられたのは初めてだったのだ。
失いたくない。―――失うことが解っていても。
嫌われたくない。―――嫌われる事が解っていても。
傍にいたい。―――自分の深淵に引きずり込む事が解っていても。
ゆるゆると上がる美しい顔に収まる涙に濡れた黒瞳は、やはり虚ろで。それでもまっすぐ自分の方を見てくる視線に湧き上がる悦びを抑えられず、長政は両の腕で妻を抱き寄せた。
「市…!」
「ぁ…」
抱き込んだ体は酷く冷たく感じるが、長政は怯まなかった。この冷たき身体と虚ろな魂を、自分の正義と熱き炎で満たすことこそが自分の使命であるとでも言うように。―――それが自分の愛し方であるとでも、言うように。
途方もなく愚かなそのがらんどうな正義と、やはり身体越しに伝わってくる熱が心地良くて、市は僅かに喉を振るわせた後もう一度涙を流した。恐らくは哀れみで。もっと恐らくは、歓喜で。
「私は必ず勝つ! 私の傍で見ているがいい…!」
「…うん…がんばって…長政さま…」
ゆるりと相手の背に回した冷たい腕は、癇癪を起こす子供を宥めるようでも、慰めるようでもあった。





――――そして終焉は訪れる。
当たり前のように。
思ったよりも早く。
「長政…うつけが…!」
「貴殿は人であることを捨てた、もはや義兄でもなんでもない!」
血で染めたような外套を翻し、魔王は重厚に断を下す。湧き上がる恐怖を堪え、長政は剣を構えた。
その愚かしさに、魔王は嗤う。
「フハハハ…ハハハハ…ハーッハッハッハッハ!」
その愚かしさに、市も嗤った。
「うふふふふふ……ははははははッ!」
斬りかかる剣はあっさりといなされ、闇を纏った刃と鉛の玉を撃ち出す筒と、地面から生え行く地獄の茨が彼に血を流させる。それを虚ろな眼でしっかりと見つめ、市は嗤った。
「是非も無しッ…!」
奇しくもその桜貝の如し唇から漏れたのは、兄と同じ口癖。
全ては終わる、ここで終る。
敗者として血の海に沈むのは自分と夫。
解り過ぎる程解り切っている結末を見詰めたまま、彼女は両の口端を引き上げて兄に切っ先を向けて駆け出した。


そして当然魔王は、目の前の虚けに向けて銃を構え。
身体を茨で縫い止められた長政に避ける術は無く。
―――細い身体がその射線に入り、真っ赤な花を咲かせることになった。


「これが、市の罪…にい、さま……」
最期まで、市はその瞳を兄に向けていた。決して背中を省みることは無かった。愛する人を垣間見るなど、自分には不相応だと言わんばかりに、そのまま自分の得物に縋り、膝を着いて動かなくなった。
「市……愚かなやつよ…」
嘲りすら含んだその言葉は冷たい。愛など持てぬ―――受け止める事は愚か奪う事すら出来ぬ、自分と同じモノに対する哀れみが含まれていたことに、当然気付くものは誰もいない。
「そんな…」
思わず、と言う風に、長政の唇から言葉が漏れる。
「死なすつもりは、なかったのに…!」
今起こった現実は有り得ないことである、と叫びたい男に対し、魔王は一瞥をくれるだけだった。
自分に都合の良い事しか認めない、認められない愚者に、真っ黒な虚ろの銃口が向けられる。
「きさ、ま…よくも……私の…市を…!」
愛していた。愛している。
だから認めない、こんな結末など。
だから認めない。こんな終焉など。
認められるわけがない―――!!


ガウンッ…!


剣を振り被った男の平らな胸に、
妻と同じ、花が咲いた。


火薬の衝撃に仰向けに倒れそうになった男は、どこにそんな力があったのか歯を食い縛り、
「認めるかァアアアアア!!!」
魂切れるような叫びを上げ。そのまま、前へ。
座り込んでいる妻の身体を、出陣の前と同じように。
どさりと倒れこんで、抱いた。もう、抱き締める力など彼には無かったけれど。

夢を見られずに嗤って死んだ女と、
夢しか見られずに嘆いて死んだ男。

どちらがより愚かで幸福であるかなど、既に踵を返していた魔王は勿論省みることなどなかった。