時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

誰にも知られず終わる物語

※牧野んが3日目後、肉塊じゃなくて肉吸いになっちゃったパラレルネタです
妖○の血のモロパクリです注意



辺鄙だがそれなりに歴史と集客力がある湯治場に、ある日二人の奇妙な客がやってきた。
その旅館は、後ろ暗いところのある人が尋ねることも決して珍しくない、所謂「穴場」であったので、従業員達も努めて平静に振舞うことが出来てはいたが、それでも好奇の目を抑えることは中々難しかった。
「それでは、ご記帳をお願いいたします」
「はい」
番頭の声に答えたのは、二人連れの男のうちの一人で、あまり長旅に相応しくない簡素なスーツに、小さな旅行鞄が一つだけという格好だった。出張のサラリーマンと見れるかもしれないが、そんな客はこの鄙びた宿ではなく、もっと街中にある安くて便利なホテルに泊まるだろう。何より人の目を引く理由は、連れの男が如何見ても普段着としか思えない格好で荷物も無く、その顔立ちはまるで双子のようにスーツの男と瓜二つだったからだ。
不躾な奇異の視線で見られることに慣れているのか、スーツの男は無表情のまま、丁寧だがやや癖のある字で記帳を終えた。
「えー、吉村…克昭様ですね。ご滞在はいつ頃までのご予定ですか?」
「取り敢えずは、一週間で。掃除や寝具の仕度はこちらで行いますので、結構です」
「はい、かしこまりました。お食事は朝夕、お部屋にお届けにあがりますが、お時間はいかがいたしましょう?」
こんな飛び入りの客も、この旅館では決して珍しくは無かったので、番頭は代金を受け取りながら笑顔で肯く。しかし次に男から提示された事には、首を傾げざるを得なかった。
「朝は8時、夜は19時に。ああそれと、食事は一人分で結構です」
「は、よろしいのですか?」
別に旅館での賄いを食べなくても、少し離れた町まで降りれば食事処は沢山あるので、食事を頼まない客もいる。しかし、二人の客の部屋に食事を一人前だけとは、初めて言われるケースだ。戸惑う番頭に構わず、男はあくまで淡々と、抑揚の無い声で告げた。まるで、患者に病気の説明をする医者のように。
「兄はアレルギー体質で、食べられるものが普通の食事には殆どありません。兄の食事は私が全て用意していますので」
「ああー、左様でございますか」
その説明に番頭は二重で納得し、大きく肯いた。食事に関する理由は勿論、この二人の客の関係性が改めて理解できたからである。視線は自然に、先刻からロビーの中をきょろきょろ見て回っている、男の連れに向かって動いた。確かに顔は瓜二つであったが、どこか浮世離れした雰囲気と、茫洋とした笑顔が、その印象を大きく変えていたため、確証が持てなかったのだ。
「何か?」
「ああ、これは失礼を。すぐ、お部屋にご案内いたします」
番頭の視線に気付いたのか、男の眉間に僅かに皺が寄る。慌てて番頭は姿勢を正し、仲居に案内を言いつけた。
その後に続きながら、男は連れを呼ぶ。
「―――行きますよ、兄さん」
その声に、ぼんやりと窓から見える庭に見入っていた男は振り返り、まるで子供のような笑顔でふわりと微笑んだ。




おざなりに部屋の説明をして仲居が去っていき、スーツの男―――嘗ての名前を宮田司郎と言った―――吉村克昭は面白くも無さそうに息を吐いた。安堵というよりは、面倒ごとをひとつ片付けたという軽い溜息のようだった。自分達が旅を続ける限り、いつも滞在地で起こる面倒なのだから、仕方が無いし慣れるしかない、と言いたげに。
部屋の中には彼以外に、彼と同じ顔をしたもう一人の男が、僅かに身体を揺らして歌を口ずさんでいる。その仕草は、嘗て彼らが生まれた村を襲った怪異によって変じた村人達に良く似ていたが、彼の目から赤い水は出ることなく、肌もただ白いだけで変色してはいない。
あの運命の日、羽生蛇村、三日目の交差点で、宮田司郎は兄である求導師、牧野慶をその手で撃った。ばらばらに引き裂かれた運命を、取り替える為に。
弟の凶行に、兄は抵抗しなかった。それが最期の、兄として出来る孝行だと思ったのだろうか。その真意を聞くことは、最早叶わない。嘗て牧野慶であった人間は死んでしまった、それは間違いないのだ。
しかし、彼の体には、もうひとりの不死の存在である神代美耶子から血を受け取った、須田恭也の血が僅かばかりに入り込んでいた。それが一体、どのような作用を齎したのか―――姿は殆どそのままで、しかし意識は赤子のような、歪な存在が一人、生まれ直してしまった。
その様を間近で見届けた、宮田司郎の思いが如何なるものであったか。絶望であったか、歓喜であったか、あるいはそのどちらもであったのか、それは本人にしか解らない。
兎にも角にも、その変わり果てた兄を連れて、弟は全ての運命に背を向けることを選んだ。宇理炎を須田に全て手渡し、自分の兄の手を引いて、惨劇の村から逃げ出したのだ。
逃亡は奇跡的に成功し、どこの時代とも知れぬが少なくとも現代である場所に、二人は辿り着いた。そして、嘗て取り上げられた己の名前を互いに名乗り、漂泊の旅を続けることになったのである。
ぐぅ。
珍しくぼんやりと物思いに耽っていた克昭の意識が、その音で浮上した。二人きりで旅をするようになってから、良く聞く音だ。僅かに口の端を上げてそちらを見ると、兄はやはりばつが悪そうな顔で、畳に座ったまま俯いている。
「兄さん、まだ食事の時間は先ですよ」
「ぅ…うん」
「仕方ないですね」
普段からは有り得ない、笑みを崩さぬ顔のまま、克昭は自分の手指を兄の口元に伸ばした。孝昭は戸惑った顔をしつつも、ごくんと喉を鳴らした。その浅ましさに、兄は頬を赤らめて弟はまた笑った。
「いいですよ、少しなら」
「で、も」
「兄さん」
ただ呼んだだけ。それでもこの兄弟の間には絶対的な効果があるのか、兄は覚悟を決めたようにきゅっと息を飲み、おずおずと差し出された指に唇を近づけ、ぱくり、と咥えた。そのまま、頬に力を入れて、吸う。
「っ…」
肌の下から肉が吸い出される、錯覚ではない奇妙な感覚に克昭は僅かに呻く。兄が啜っているのは血ではない、紛れも無い「肉」なのだ。どんな仕組みでそう出来ているのか、興味が無くも無いが、克昭にとっては「食事」をする最中の兄の顔を見る方が大事だ。
「ん……む…」
弟の身体を食い潰す罪悪感。それと同時に襲い来る、空腹の解消と美味に恍惚となる顔。その顔を見ているのが、克昭は一番好きだった。兄が自分無しでは存在し続けることすら出来ないという証明だから。
そして決して、甘やかしすぎることもしない。ほんの十秒ほどで、克昭は己の指を兄の唇の間から抜き取った。
「ぁ……」
ぼうっとした顔のまま、無意識に舌を伸ばしてその指を追う兄の頬を、軽くぺちりと叩く。
「おやつはこれで終わりです。後は、夕食後に」
「あ…はい…」
漸く我に返り、自分の行動にまたしょんぼりとしている兄を無視して、暇つぶし用の本を開く。頻繁に肉を与えていては、克昭の体にも危険が及ぶので、一日に吸わせる量はちゃんと決めている。
試しに色々な肉を買い与えてみたが、駄目だった。動物の肉は上手く吸えず、人間の肉も身体に合わないのかすぐに吐き出してしまう。本当に何故か、或いは双子であるが故なのか、克昭の肉だけが孝昭の口に入れることの出来る唯一の食物なのだ。
そのことを確認した時、克昭は確かに狂喜した。これで兄は絶対に、自分から離れることが出来ないのだという事実に。
今も孝昭は、こっそりと弟の動向を伺っている。空腹は僅かに癒せたが、自分の行いが弟を怒らせたのでは無いかという不安と罪悪感で心が一杯だからだ。目の端にそれがちらちらと映る鬱陶しさと優越感に溜息を吐き、びくりと震えた兄を弟は手招きして呼んだ。それが許しの合図であると思ったのか、孝昭はぱっと顔を輝かせ、壁に寄りかかって座り伸ばされている弟の足に、頬を擦り付けて寝転んだ。まるで、猫か幼い子供が飼い主や親の膝に甘えるように。
こんな全身で甘えてくる好意の表し方には、克昭は未だに慣れない。まだ相手が求導師であった頃は、怯えられ、ろくに話をすることも出来なかった。自分自身とて子供の頃から、甘えられる相手もいなかった。どうすれば良いのか、さっぱり解らない。
ただ、ぎごちなく自分より僅かに長い、腿の上の黒髪を撫でてやることぐらいしか出来ない。それでも兄は本当に嬉しそうに、笑ってくれるので。
「かつあき」
「はい」
「かつあき」
「なんですか」
「かつあきー…」
そして嬉しそうに、何度も、何度も、己の本当の名前を呼んでくれるので。
意味が解らないので、用も無いのに呼ばないで下さいと拒否するのは簡単だったけれど、そうすればもう絶対に呼ばれなくなるのも理解しているので、克昭は何故かその言葉を飲み込んだ。



夕食は伝えたとおり、一人前だけが運ばれてきた。
美食にも飽食にも興味の無い克昭は、ただ機械的に順序良く咀嚼し続ける。ただ以前より、栄養価には気をつけるようになった。「健康な体」が兄の餌になるのだから。
兄の方は、食事の膳には全く興味を示さず、ふらふらと部屋の中を歩き回ったり、窓から外をじっと見ていたりする。彼の目に世界はとても美しいものに見えているらしく、いつも楽しそうだ。
果たして自分は兄の目にどう見えているのか、と克昭は考えることがある。何せ食われるのだから、肉塊にでも見えているのか、と考えて、馬鹿馬鹿しいとまた笑った。
皿を全部空にして、仲居が膳を片付けてから、兄を連れて内風呂に入った。彼と露天風呂に行く気は流石に起きない。他者など既に、この二人にとって煩わしいものでしかないからだ。
促されるままにお湯をかけられ、頭を洗われても孝昭は大人しくしている。寧ろ弟の手に触れられるのが嬉しいようで、手を引くともっととそこに頭を擦り付けてくる。そんな仕草をされると、昼間のように克昭は、どうすればいいのか、と一瞬止まってしまう。無心に自分を信じて身体を預けてくる愚かさを、嘲笑う事も突き放す事も出来る筈なのに、何故かしようと思えない。
上がって浴衣を被せ、頭を乱暴にバスタオルで拭いてやっていると、また孝昭の腹が鳴った。まともな食事をしたのは今日の朝早くだったので、空腹を覚えて当然だろう。
そうやって、解り易い欲で自分を求められると、克昭も遠慮なく与えたり取り上げたりする事が出来るので、安堵する。
しかし孝昭の方は、恥ずかしそうに俯いて、頭に被らされたままだったバスタオルを引っ張って顔を隠した。こんな姿に成り下がってしまっても、羞恥心は失くしておらず、弟を食料とすることが許されないと、思っているらしい。
それこそ、馬鹿馬鹿しいことだと克昭は思う。最初から、倫理などから外れたところに自分達は居た。自分は気付いていたが、兄は気付いていなかった、差はそれだけだ。まさに全ての頚城から解き放たれた今更、モラルなど気にしても、何になると言うのか。
「兄さん」
バスタオルの上から、耳元を見つけて囁く。びくりと震える身体に笑い、肩を掴んで無理やりこちらを向かせてから、自分の浴衣の肩を肌蹴た。
そこには既に、数多の噛み傷が、風呂上りの為赤く浮かび上がっていた。堪え続けた飢えに耐えかねた兄が、何度も噛み付いた跡だ。
それを自分で消毒する度に、鏡で見る度に、克昭は幸福感に包まれるというのに、孝昭は泣きそうな顔で目を逸らしてしまう。
それは絶対に、克昭は許さない。彼が己から目を逸らすことなど、もう二度とあってはならないことなのだと。
兄の頼みの綱だったタオルを取り払い、ぐいとその身体を引き寄せる。唯一の食料から沸き立つ芳醇に、孝昭の身体はぶるぶると震え、口の端から涎を垂らした。僅かな理性を今にも飛ばしてしまいそうなぐらいに、飢えている。
「どうぞ、兄さん」
もう一度、耳元で囁く。彼の理性の最後の箍を、外す言葉を。
「ぅ、―――…っ!」
がりり、と孝昭の歯と、皮膚の下の骨が嫌な音を立てた。やはり勢い余って歯を立ててしまったのだ。しかし、いつもなら泣きそうになって離れる孝昭は、夢中になってそこに吸い付いている。
皮膚の下の筋肉や臓腑が、柔らかく溶かされて吸われる感覚がある。おぞましい感触である筈なのに、克昭の心に浮かぶのは恍惚感だけだ。同じく、孝昭の瞳にも。
何もかもが違ってしまった双子が、この瞬間だけ一つになる思い。
―――このまま、ひとつに。
母の腹から出てくるその前、ひとつの卵だった頃まで、戻る事が出来るなら。
そんな馬鹿げた想いを共に抱いて、兄の食事は終った。
「は…ぅ、ふ…」
満足げに息を吐く孝昭に対し、克昭の顔色は僅かに悪い。体の中身をこそぎ取られたのだから、当然の事だが、それでも弟は兄に再び手を伸ばした。今度は別の行為の為ではあったが、目的は同じだった。
「! ん…」
乱暴に、先刻まで自分の肩口に吸い付いていた唇を己のそれで塞ぐ。生臭さが残っている口腔は不快だったが、今離れられるよりはましだった。
ぐいと兄の腰を引き寄せ、事前に敷いておいた布団の上に押し倒す。乱暴に服を剥ぎ取り、もう既に死んでいるとは思えない、滑らかな白い柔肌に吸い付いた。兄と違って自分は、この身体を食らうことなど出来ないけれど。
「ぁ…かつあき、」
「黙って」
恥じらいなのか恐怖なのか、名前を呼んで突っ張る手をかわし、僅かに隆起した胸の突起を噛んでやると、ひゃう、と子供のような泣き声が漏れた。そのまま其処だけを刺激し、膨らませてやる。
「や、ん、かつあき、かつあきぃ」
「何ですか?」
「んん、こっちも…っ」
「欲しいんですか? いやらしいですね」
「ぃやぁっ…」
刺激されないもう片方の突起に指を自分で伸ばし、強請ってくる兄を言葉でも苛めると、顔を真っ赤にして身を捩ったが、同時に耐えられないとばかりに胸を押し付けてくる。もうすっかり弟に責められる快楽に慣れてしまった身体は従順だった。
「おねがいっ…」
「いいですよ」
「ひっ、いたぁあっ! やっ、あっ」
ぎゅうっと力を込めて放っておいた方の乳首を捻り上げると、泣き声が上がったが、すぐに快楽の喘ぎに変わる。弟の指に触れられるのなら、何でも嬉しいと言いたげに。それを僅かに目を細めて見守りながら、克昭の舌は臍まで辿り着く。嘗て自分達が繋がっていたその場所を、いとおしげに舐めて軽く歯を立てた。
「やっ、そこはっ」
「こんな所も感じるんですか」
「だって、かつあき、が、ふあぁあっ!」
ぐちゃぐちゃと舌でその僅かな窪みを掻き混ぜてやると、悲鳴と共に兄の背が仰け反った。本当に感じるらしく、触れている中心が熱を持ち始めた。
は、と短く息を吐き、漸く克昭は身体を起こす。腕に引っかかっていた浴衣を外し、下着も脱いで布団の上に胡坐をかき、兄の首に手を差し伸べて足の間に誘った。其処には既に熱を持っている中心がある。
「ぇ、と」
「舐めて下さい。ああ、別に吸っても構いませんよ」
「そんなの、」
「ほら」
「んっ、ぶ!」
戸惑い躊躇う兄に腹が立ったのか、そのまま後頭部を掴んで僅かに開いた唇に自分の急所を捻じ込む。己の肉を餌とする相手の、口腔に。
克昭は本気で、このまま肉を吸いつくされても構わないと思っていた。勿論、兄がそれを出来るわけが無いとも思っていたが。彼がどれだけ、このような存在になってしまっても、愚かで優しいことを知っていた。
「ん、ふ、ぅ、んんん」
しかし食欲を堪え、必死に弟の急所に奉仕する兄の姿は、充分に欲情する糧となった。飴をしゃぶるように吸い付いてくる舌と唇を味わいながら、褒めるように髪を撫でてやる。
「上手ですよ」
「ん、んん、は、」
口を離し、先端を懸命に舌で舐っていた孝昭は、弟の賛辞に顔を綻ばせる。すると、克昭がぐいと手を伸ばし、兄の身体を持ち上げてしまった。そのまま、噛み付くように口付けられる。
「んぅ…っ、ふぁ!」
うっとりとそれを受け止めた孝昭だったが、不意に下半身に走った刺激にびくんと肩を跳ねさせる。弟の指が後ろに伸びて、入り口を刺激し始めたのだ。やはり焦らすようにゆっくりと、優しく其処を解す指先に、兄は堪らなくなる。
「ゃ、ん、かつあきっ、かつあきぃ」
「まだ駄目です。ちゃんと慣らさないと」
「だって、だっ、て」
「ああ、すいません。こっちが欲しかったんですね」
「あっやああっ! んん、そこ…! だめぁああっ!!」
決定的な刺激が欲しくて腰を揺らめかせていると、不意に中心を掴まれて絞り上げられた。唐突に与えられた刺激に耐えられず、其処から白濁を溢れさせてしまった。
「は…ぁ―――…っ?」
達した後の弛緩に身を任せて震えていると、入り口に熱が擦り付けられた。涙の膜がかかった瞼をどうにか開けると―――自分が生きていた時と寸分違わぬ、弟の姿が見えて、兄は本当に嬉しそうに、微笑んだ。
もう人としての意識は殆ど残っておらず、己を縛っていた存在は皆脳髄に止め置くことも出来なくなってしまったけれど。この片割れの彼だけは、地獄に落ちても、生まれ変わっても、忘れることなど無いのだろうと、再び霞がかる意識の中で孝昭は考える。
もう自分は、弟の血肉を食らう化け物になってしまったけれど。この思いだけは、決して失わないのだろう。
そんな自分を浅ましく思いながらも、自分と弟が繋がり直すこの瞬間が嬉しくて、兄は弟に手を伸ばす。
「かつあき」
やっと、呼ぶことを許された弟の、本当の名前を呼ぶ。
「…兄さん」
戸惑い、悩みながらも、ずっと呼んで欲しかった形で、自分の事を呼んでくれるから。
孝昭は幸せそうに微笑んで、ぎゅっと弟の首に抱きついた。
「―――兄さん。兄さん」
「っ、あ! んんっ…くぅ…!」
しがみついてくる兄の身体をしっかりと支え、弟はその隘路に入り込んだ。隙間無くぴったりと重なる感触に、堪らなく欲情する。
「兄さん。兄さん、兄さん」
熱に浮かされたように、兄を呼ぶ。決して許されなかった呼び方で、何度も、何度も。今まで呼べなかった分を、取り戻すかのように。
「兄さん、にいさ、兄さんっ…!」
「ぁっ、あ、かつ、あ、かつあきぃ…!」
只管に、夢中で互いを呼び合い、熱を昂ぶらせ、そのまま、落ちた。腰も手指も絡ませあって、二人きりで。



ちゃぷちゃぷと、温かい湯が壁を叩く。成人男子が二人で入るには狭い湯船の中で、双子はぴったりと身を寄せ合っていた。まるで、母親の腹の中で浮かんでいた頃と同じように。
お互い、離れた事による飢えを漸く満たし、何も言わずただ寄り添って幸福を味わう。
しかし、穏やかな時間とは長くは続かないもので。
「―――ぁ…」
びく、と孝昭の方が震え、弟に預けていた身を僅かに起こして天を仰いだ。その異変にすぐに気付いた克昭も、閉じていた目を開ける。
「どうしました」
「…ほのお、が」
言葉は短かったが、弟はそれだけで兄が感じ取った異変がなんであるか理解した。ち、と小さく舌を打ち、改めて兄に問うた。
「近いですか?」
その言葉にふるふると兄は首を振ったが、悲しそうに続ける。
「いいえ…でも、こちらにむかって、きます…うりえんと、きるでんが…」
そう言って震える兄の肩にお湯をかけてから抱き上げ、弟は立ち上がった。熱心な事だ、と自分から力の一部を与えた、全ての異形に滅びを齎す青年に毒づきながら。
「明日、ここを発ちます。動きにくくなりますから、明日の朝食は抜きです」
手早く兄の身支度を整えながら言い、布団に寝かしつける。浴衣を着直してから、当たり前のようにその横に潜り、肯いて手を伸ばしてくる兄を抱き寄せる。
まだ、その言葉を口に出すことは、克昭には出来なかったけれど。
もう二度と離れてたまるかと、両腕に篭る力が言っている。
安堵と疲れから目を閉じる兄を見届けてから、自分も瞼を閉じた。




奇妙な兄弟が予定よりも早く発ってしまってから、数日後の事。
鄙びた旅館は、また一人不思議な客を招きいれた。といっても彼は泊まることはなく、番頭に話を聞きに来ただけだったが、その尋ねる相手がかの兄弟だったのだ。
「ほくろの位置だけが違う、双子の男性がここに来ませんでしたか?」
印象深い客だったので、番頭はよく覚えていた。言われて、あの兄弟は互いの反対側の頬に黒子があったということも思い出すことが出来た。
「ええ、ほんの数日前に発たれてしまいましたが」
「そうですか…」
肯く青年は、尋ね人と会えなくても大して残念がる様子は見えなかった。かなり色のくすんだ緑のジャケットを羽織り、大荷物を背負って自転車に乗ってきた青年は、ここでも良く見るバックパッカーの一人だとすぐに知れたので、番頭は何の警戒もしなかった。
「本日のお泊りは、どうされますか?」
「あ、いえ、もう決めてあるんで…それじゃあ」
足早に去っていく青年を見送りつつ、番頭は先刻の挨拶の前に問われ、反射的に「はい」と答えた問いを思い出し、不思議そうに首を傾げていた。
曰く、「―――その人達は、幸せそうでしたか?」と。



「どうしようか、美耶子」
山道を自転車を押しながら歩く須田は、小さな声で話していた。他に歩いている人はいなかったので不審に思われることは無かったが、もし近くを他者が歩いていれば、先日降った雨によって出来た水溜りの水面に、彼と自分以外の人影を見つけることが出来たかもしれない。黒髪の、美しい少女を。
「これだけ会えないってことは、やっぱり逃げられてるんだろうな…無理もないけど」
僅かに、水溜りが揺れた。風も、落ちてきた木の葉も無いのに。
「だって、お礼ぐらいは言いたいじゃないか。これのおかげで、俺は生き残れたんだし」
もう一度、水面が揺れる。どうも、青年は責められているようだった。お人よし過ぎる、或いは馬鹿、と。それでも青年は明るく笑い、自転車に跨った。
「でも、いいや。別のところに行こう、美耶子。俺は君が居れば、平気だからさ」
ぴたり、と水の波紋が止まる。それから、僅かに震えた。小さく、是と答えるように。
それを見届けてから、須田は大きくペダルを踏み、振り向かずに走り出す。
全ての異形を殲滅する定めを背負った青年は、歪みを抱えたままの双子を置いて、その世界から去っていった。
何故なら彼等は、他者の目から見たことを聞いただけだったけれど、とても――――。



山道をゆっくりと歩く、兄弟が二人。
嘗て捨てられた名前を使っている今、免許証も無いので車に乗るのも難しい。
尚且つ、兄の方はきらきらと輝く空や舞う天使に魅せられて、足元が覚束ない。弟がちょっと目を離すと、ふらふらと歩いてどこかに行ってしまいそうになる。
「兄さん」
苛立ちの籠った声で呼べば、夢から覚めたように戻ってはくるけれど。
「…あんまり迷子になるようなら、今度から首輪で繋ぎますよ」
そんなに己から離れたいのかという苛立ちと、彼自身はまだ気づけていないけれど紛れもない不安が、克昭の心に湧いている。
複雑な弟の感情は、勿論表に殆ど出ていなかったのだけれど、その言葉を聞いて兄は。
「…………ん」
本当に、幸せそうに。僅かに頷いて、微笑んだので。
「………」
克昭は苛立ちのままに、ぐしゃぐしゃと自分の髪を手櫛で掻き混ぜてから、ほんの少しの間の後、もう片方の手を兄に向って伸ばす。
その手は、鎖よりも、臍の緒よりも頑丈に、確りと二人を繋いだ。