時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

海の時間

夕食の洗物をしていて、ふとシンクに置きっぱなしだったカップが目に入る。
何の変哲もない、自分のと同じ薄い青のカップ。その上に、思い切り自己主張する黒マジックの文字が一言。
『俺の By京一』
泊まりに来た時いつも使っていて、ある日「こっち俺のな」と強引に名前を書いていった。そのことを思い出してふと笑う。
実は。
それを書く前から、そのカップは自分も使っていない。
養母が一人暮しを始める時に、客用に少し多めに揃えてくれた食器類。その中で一つだけ、何となく、「京一用」になっていた器。
それを他の物より少し丁寧に拭き終えると、上の棚に仕舞…おうとして、かたんと下ろした。何となく、仕舞いたくなかった。
味気ない自分の部屋の中で、彼が残したものだけが異彩を放つ。借りたCDとか、忘れていった上着とか、そしてこのカップも。
整然と揃えられた余計なもののない部屋にある雑然。
決して不快でない、むしろ安らぎを覚えるそれ。
手を拭いて、京一の上着を手に取る。丁寧に畳んで、明日にでも返そうか、と思って。
ふわりと太陽の匂いがした。
そう、きっと、あの明るい茶色の髪の中に顔を埋めたらするであろう匂い。太陽の光をそのまま受け止めて輝く彼のように。
駄目だと思っていても、それを抱きしめてしまった。ずっと放り出しておいたものなのに、すごく暖かい。
会いたい。無性に思った。
昨日泊まりに来て、今朝別れたばかりなのに。
声が聞きたい。
電話しようか。
目の前には電話がある。そっと子機を取って、壁に凭れて座る。
短縮一番。京一が携帯を買ってすぐ入れた番号。ボタン一つで彼と繋がることが、純粋に嬉しかった。
でもいざ入れてしまうと、すぐに掛けたくなって、いや今迷惑ではないかと思い直し、結局掛けない。そんなことを何度も繰り返す自分に呆れつつも、もう少しの勇気が出ない。
でも、今日は。本当に声が聞きたかった。逡巡に、願望が勝った。
機械を見つめ、たった一つのボタンを押した。心臓の音をうるさく思いながら、耳をあてた。


町を歩きながら、もう冬だと何となく思う。
日が短くなって回りはもう薄闇に包まれかけているが、それぐらいで眠るこのまち東京ではない。もちろん京一も、愛用の木刀を引っさげて町を歩いていたのだが。理由は、昔のようなあてもない彷徨や、女性に声を掛けるためではなかった。
昨日、土曜日だからと理由をつけて麻央の家に泊まった。昼頃遅い朝食をもらって、「じゃあな」といって別れた、のだが。
無性に、会いたくて仕方がない。
もう少しの我慢。あと半日ちょっともすれば、また会える。それなのに。
どうにも落ち着かなくて、家にも帰らずこんなところをうろうろしている。
もともと、気の長いほうではない。ポケットから携帯を取り出す。
鈍く銀色に光るそれを、少し前まで正直嫌っていた。猫に鈴がつけられるのと同じようで、嫌いだった。
何事にも縛られず、自由にいたい。それが自分の基本方針だったはずなのに。
あの時。自分が剣の道に迷いを見出し、仲間の前から姿を消した五日間。
自分のことで手一杯だった。連絡するなんて考えつかなかった。
もちろん、何の言い訳もせず怒られてやるつもりだったのに。
彼は、自分を責めなかった。代わりに彼は、自分を責めたのだ。「京一がいないと駄目になってしまう」「情けない」と。
自分がどれだけ身勝手だったか、思い知らされた。転じて、自分の存在が相手にとってここまで大きくなっていたことを喜ぶ自分がいた。
泣きそうになっている瞳と、自分の腕の中と詫びにようやく微笑んだ顔を見て、もっと確かな繋がりが欲しくなった。
だから、これを手に入れた。一番初めに話したのも、一番初めに番号を教えたのも、麻央。それなのに。
「………やべ」
電源が切れている。自分で切った記憶がないので、何かの拍子に切れてしまったのだろう。慌てて電源を入れる。
『チャクシン 1件』
黄緑色に光るディスプレイに表示された文字。
番号をチェックして。
笑みを噛殺せないまま、番号を回した。


『この電話は、現在電波が届かないか、電源が切られています。もう一度、お掛け直し下さい。この電話は………』
耳に届いた無機質な機械音声に、慌てて電話を切る。顔が赤くなるのが自分で判る。自分の欲張り加減を見透かされたような気がして。
「参ったな……」
頭を掻いて、気を落ち着けようと子機を床に置こうとした瞬間……
電話が鳴った。
「っ!」
コール一回で出てしまった。予感があった。
「もしもし?」
『よ、麻央』
名前を呼ばれた、それだけなのに、ふわりと体温が上がるような気がする。
「京一」
だから名前を呼び返す。少しでも、この気持ちが相手に届くように。
『さっき、電話かけたろ?』
「あ、あぁ」
『悪かったな、電源切ってて』
「そんなことはない。…迷惑、だったか?」
『んなわけねーだろ! …ったく、変なとこで遠慮しやがって』
「そう、か…?」
『お前専用みてェなモンなんだから、気楽にかけてこいよ』
何気なく言われた言葉かもしれないけれど、嬉しくなる。まだ手に持っていた京一の上着をちょっと抱きしめ、気がついた。
「あ、京一。今日、上着家に忘れていっただろう」
『あ? あーそういやぁ…どーりで寒いわけだぜ』
「?…まさか、外で掛けているのか!? 風邪を引いたらどうするんだ!」
『へへ、大丈夫だって。サンキュな、わざわざ電話してくれたのか』
「えっ…いや、そうじゃなくて……上着のことは、今気がついたんだ。電話は……ただ、ちょっと、声が…聞きたくて……」
電話の向こうで沈黙が続く。
「す、すまない。勝手な理由で電話してしまって。寒いだろう、もう切るから」
『あ、い、いや、いい! 切らなくていいっ!』
「だが…」
『いーんだって! …麻央』
「うん?」
『………これから、そっちいっていいか? 上着取りに行くわ』
「あ、ああ。勿論……」
『よっしゃ。あー、まだ切るなよ! これから行くからよ、その間……話してようぜ』
「………! あぁ…」
『なぁ、行ったら泊まっていーか?』
「…いいのか? 二日も留守にして…家の方は」
『気にすんなって。…駄目か?』
「…いや…大歓迎だ」
『そういや、諸羽からさやかちゃんの新曲、届いたか?』
「あぁ、京一も貰ったのか? 久しぶりに聞いたけど…相変わらずいい歌だな」
『だよなー。あ、忘れるとこだった、明日の英語の訳、見せてくれよ!』
「またか? しょうがないな…」
笑い混じりに、交わされる他愛もない会話。
耳を擽る声と、膝にかけられた上着が、とても温かくて。少しづつ瞼が下がる。
京一が来たら、あの出したままのカップに暖かいコーヒーを入れよう。
遠くなっていく声を勿体無い、と思いながら、意識を水底に沈めていった。


「…もしもし? 麻央? おーい…」
だんだん返答が間延びしたものに変わっていって、完全に聞こえなくなった。
耳を済ますと、微かに聞こえてくる呼吸音。
こんなに麻央が無防備になるのは自分の前だけだという優越感を持って。
「急ぐか」
心配された相手に風邪を引かれてはたまらない。
携帯を切ろうとして………何となく、繋がった空間が勿体無くて、そのまま服のポケットに突っ込んで走り出した。