時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

花葬の夢

声が、聞こえる。
小さな―――、それでいて、はっきりと聞こえる、声が。
鈴の音のように―――。




夢と現が交じり合って、
はっきりしない―――――。
どこか、全てが遠くて、まどろむような、不思議な感触………
腹腔に大きく開いた穴から、少しずつ、熱が、漏れていく。
「血圧、四十五からさらに低下。危険ですッ」
「体温、心拍は―――?」
「ダメですッ…。依然、回復しませんッ。院長、こ、このままでは―――」
「…分ってるッ。そんな事は、重々、承知だ…」
声が、遠い。
指先の感覚が、少しずつ、無くなっていく。
熱が、奪われていく。
寒い。
凄く、寒い。
貴方の声が聞こえない――――――。
「心拍、更に低下ッ!」
「くッ―――。心停止と同時に心臓マッサージに移るッ。時間計測の用意。それから―――」
冷たい闇の中に飲み込まれて。
あとは何も聞こえなくて――――



「死ぬなッ。…死ぬんじゃねぇ!!
戻って来い、馬鹿野郎!!」


聞こ、える。
遠いけれど、聞こえる。
暖かい、声。


誰の、声だった?


思い出せない。





思い出せない、よ――――


「…畜生ッ!!

麻央―――――――!!!」










闇の中。
俺はひとりで、歩いていた。
腹から流れ落ちる血液は、止まる事も知らず俺の足を濡らし続けていた。
不思議と、痛みを感じなかった。
俺は、死んだのだろうか?
ここには、何もない。
死は、穏やかだ。
あんなに、苦しかったのに。
『地獄の鬼がまわす車のように、冬の日はごろごろとさびしくまわって…』
………?
どうして自分は苦しんでいたのだろう?
どうしてそのことを思い出せないのだろう?
いや、それより自分は―――――


誰なのだ?


『輪廻の小鳥は砂原のかげに死んでしまった。ああ――――こんな陰鬱な季節がつづくあいだ、私は幻の駱駝にのって、ふらふらとかなしげな旅行にでようとする…』
声の聞こえる方向へ、無意識のうちに歩き出していた。
闇の中。渦巻く先に―――影が見えた。
「…………。あら? いつからそこに?」
美しい、女性の声だった。
「…すまない。立ち聞きするつもりはなかった…」
あまりに意外そうな声だったので、一瞬状況を忘れて軽く詫びた。
「ふふ。どうやら…聞かれてしまったようね…」
ころころと。鈴の音のような、笑い声がする。
顔は見えない。彼女が背負っている光が、逆光になって黒い影が見えるだけで。
「さっきの詩―――私のじゃないわ。萩原朔太郎。あなたと同じ、人間のもの…。題は―――『輪廻と転生』。この闇にぴったりな、陰気な詩―――。あなたも、そう思うでしょう?」
「……」
聞きたい事は、色々あった。
ここはどこなのだろう、とか。
貴方は誰なのだろう、とか。
しかし、自分のことさえ良く解らないのに、そんな質問をするのは馬鹿げているような気がしたから、彼女の質問に答えることにした。
「………悲しい、歌だな…」
その言葉から滲んでいたのは、孤独。
この暗い闇の中で、ただただ、独りきりでいたような、どうしようもない孤独。
そう思ったから、こんな答えを返した。
「私がこの詩を読む―――それに何か深い意味でも、あると思った?」
俺の答えをどう思ったのか、彼女はまた、笑った。
「ふふ…。そんな事はない…。私はただただ真っ直ぐにこの詩に自分の心を任せていただけなのだから。見えるものは真っ暗な闇。聞こえるものは闇に溶けて流れ込んでくる、この詩のような病んだ心の嘆きばかり―――」
彼女が、闇に眼を向けた。ただそう見えたような気がしただけだけれど。
歌う様に言うその言葉こそが、詩のように聞こえた。
「あの時、光ある世界に決別させられて以来、延々その中を漂ってきた…。死―――。それを通過したたくさんの魂が私の前を横切っていった。受け入れざるを得ない、宿命のような力に導かれ、それらの魂は迷わず出口へ突き進んでいった…。そう―――。まるで今のあなたのように」
指差され、俺は困惑した。
「やはり、俺は死んだ…のか?」
「ふふふふ…気づいていなかったの?」
「…解らない。記憶が、曖昧なんだ…自分がどうしてここにいるのか、はっきりしない…」
「そう―――。まだ、あなたの名前を聞いていなかったわ。ふふ。聞いておいてあげる。それが、失われてしまう前に、ね―――」
「俺は………」
名前?
名前だって?
自分にそんなものはあったのだろうか。
鉛を飲み込んだ様に重い脳味噌に必死に問いかける。
思い出せ。
何か、大切なことを忘れているような気が――――――



『麻央―――――――…!!!』



「――――――――!!」
誰だ!?
今、確かに。
誰かが、自分を呼んだ。
誰だ!? 誰なんだ!?
解る! 自分にとって、とても大切だった者だと解る!
それなのに、どうして思い出せない!?
いたのだ! 自分の側に、誰かが!
「痛ッ…………く!」
今まで、何も感じなかった腹の傷が、ぢくりと蠢いた。
この傷も、何か関係しているはずだ…。
思い出せ! 思い出せ!!
どんどん強くなる痛みを堪えて、記憶を引きずり出す。
「さぁ、聞かせて。あなたの名を…」
こちらに手を差し伸べてくる闇に、言葉を投げた。
「………麻央…。緋勇、麻央」
思い出した…。
これが自分の名前…。
それなのに、そのほかの記憶は今だ霞がかって、何一つ出てこない。
ただ胸にあるのは、感情の残滓。
悔恨と贖罪の意識―――
謝罪。
憐憫。
それから――――未練。
嘗て自分の中にあったぬくもり。
それが凄く、遠い所にあるのが解った。
涙が、出た。
「……帰りたい」
ここから、帰りたい。
この無言の闇よりもずっとずっと明るくて優しかった、
あの世界に、帰りたい―――。
ごぅ、と渦が巻いた。
「…!?」
『待てェエエッ! いかせぬぞォ!』
「しつこいのが来たわ。闇の渦にさまよう悪霊ども―――。彼らは生前の記憶に執着し、再生の欲望の強さのために、自分を見失った魂たち…。ああなってしまっては、もう、この闇の渦から逃れる事は出来ない。狂気の叫びを上げながら、魂となって闇の中を永遠に流れるのみ―――」
自分にも聞こえた。
どうしようもなく、光を渇望し、血の涙を流す者たちの叫び声が。
「あなた―――。あなたなら、どうするかしら?」
「…どういう、ことだ?」
「彼らのようなおぞましい敵を目の前にした時、あなたには―――生きようとする《力》、生きるだけの価値があるのかしら? どう? 自信はある?」
「…………」
言葉に詰まった。
自分の価値?
そんなもの、判る訳がない。
ただ―――、
ただ自分は、帰らなくてはならない。
まだ、遣り残したことが、あったはずだ。
その焦燥が、自分の腹の傷を焼いて焦がす。
ここで、消えるわけには、行かないのだ。
「……俺は、逃げない。道は切り開いて見せる。自分の価値なんて解らない。ただ俺は、ここで死ぬ事は出来ない。…それだけだ」
はっきりと、告げた。
「怖がらない…頼もしいわ。楽しくなりそう。…ふふふ」
『我らを置いていくな―――。ヌシらだけ楽になれるとは思うなッ―――!』
ぐるぐるととぐろを巻く闇が、自分に近づいて来る。傷の痛みを堪えて、丹田に気を集中させる。
…大丈夫だ。戦い方を、覚えている。戦える!
「来るわよ…。ふふふ。あがいて見せて。あなた自身の《生》のために」
ぐわっと髑髏の顎を開き、錆びた鎌を振り翳して、こちらに向かってくる亡者。
ガギン!
鈍い音がして、その刃が折れた。
『ぬうウ!?』
刃を防せごうとした手に、鈍く光る自分の武器・手甲が現れていた。
それは、闇を切り裂く金色の光を発して、亡者の動きを止めた。
「…俺は、まだ死ねない! 闇よ、消えろ!!」
手甲の輝きが増す。
その光は闇を照らし、散り散りに千切れさせた。
『おのれぇ! 悔しや、悔しや――! ああああアアあー――!』
悲鳴が、胸の奥に響いた。
「…済まない。俺の力では、こんな事しか出来ない。消滅と言う形でしか、安らぎを与えてやれない…」
「あんな野良犬みたいな奴らにも、同情しているの…? ふふ。優しいわね。でも…この世界で優しいだけの存在は、何者にも耐えがたい拷問よ。…救いなど、ないのだから」
「…………」
事実、なのだろう。こんな同情は、彼らにとっても何の役にも立たない気紛れでしかないのだろう。それでも、俺は。
「済まない。俺は、そう言う風にしか動けない―――」

りぃ…ん………

「!」
「―――!?」

りぃ…ん………

呼ばれている、と思った。
その、涼やかな鈴の音に。
「そう―――。そういう事だったのね。―――いいわ。少しだけ、教えておいてあげる。あなたは―――呼ばれているわ。魂に刻まれた特別な《因果》に」
「《因果》…?」
そう。
確かに俺は、何か巨大な運命を背負っていたはずだ。その重すぎる定めを、両の肩に乗せていたはずだ。
―――何故だ! 何故、思い出せない!?
苦しくて、自分の髪を掻き毟った。それを冷ややかに見つめ―――そう、見られたような気がしただけだけど―――、彼女はまた口を開いた。
「この闇の渦をくぐりぬけ、次に訪れる世界で、あなたは、緋勇麻央という人格を失う事なくその《因果》に従うことになる…。もうすぐ終点…。見える?あの―――満月のように光を放つ、小さな出口が」
「………………!!」
見えた。彼女の後ろにある、光り輝く門が。
「あの向こうで逢いましょう。ふふッ。あなたは道を切り開くことができるかしら? あなたの、その《力》で…」

りぃ…ん………

呼んでいる。
鈴の音が、俺を呼んでいるんだ。
誰が、鳴らしている――――――?
「…………。…ふふッ。それじゃあ。再び逢えるのを楽しみにしているわ…。ふふふ―――」
最後に聞こえたのは、彼女の囁くような笑い声と、


鈴の音だけ―――――




ギャア、ギャアア―――
鴉が、鳴いている。
それだけならば、夕暮れのこの坂に響くのも、普通であると思えるだろう。
しかし、どこか人の不安を煽るような、捻くれた鳴き声は、自然と不気味さをこの薄暗い『暗闇坂』におとしていた。
暗闇坂。
勿論、通り名だ。
あまりにも似合いすぎる、通り名。
ギャアア、ギャア―――…
ばさばさばさっ。
夥しい数の鴉が、坂に影を落す樹から飛びあがった。
漆黒のその頭に、赤く輝く目が二つ。
「きゃあ!」
ばさばさばさっ!
明確な意思を持って襲いかかる鴉の嘴が、セーラー服の女子高生、水兼 伊涼の頭を掠めた。飛び去ったかと思われた鴉は彼女の上で旋回し、彼女の側に立っていた眼鏡の男子高生、矢村 俊に向かっていく。
「くッ――」
咄嗟に彼は懐から咒符を取り出し、黒い塊に向かって投げた!
ビシュッ!
クワアア、クワア―――
まごうことなく紙で出来たその札は、鋭利な刃物となって鴉の翼を切り裂いた。黒い羽が宙に飛ぶ。
ギャア、ギャアアア!
しかしすぐさま別の鴉が枝から飛び立つ。その武器である爪と嘴で彼らを引き裂くために。
「チィ…符で一匹ずつ倒した所で、らちがあかないか」
悔しげに歯を軋らせる俊に、腰が引けた伊涼が叫ぶ。
「こ、この鴉達、どう見ても普通じゃないよッ! 俊、氏神様を呼ぼうッ!」
「だ、駄目だッ。これしきのことで、氏神様の手を煩わせるわけにはいかない―――」
そういう彼も、他に打つ手がないことが分かっていた。
この二人は、戦いには慣れていない。ついこの間まで、修行はしていたものの、本格的な戦闘などしたことがなかった。しかも、俊なら兎も角、伊涼には効果的な攻撃方法がない。
彼女は、あくまで《邪気》を封じる巫女。邪気に触発されて狂った鴉を留める術は持たない。
そして、俊は《勧請士》。大いなる《力》を持つ《氏神》を召喚し、戦わせることが出来る唯一の存在。
この状況を打破するには、もはや《氏神》を呼ぶしかない―――。
ズズズズズズ…
坂を覆う邪気の渦が、彼らが僅かに流した血によって更に膨れ上がる。それを感じとって、俊は目を閉じた。
もう、自分たちだけでは無理だ―――。
どうしようもないもどかしさと情けなさを押し殺して、胸の上で印を組む。
「やむを得ない。少し早いが、お来し願おう!! ―――勧請ッ!! 氏神・焔羅大明神ッ!!」
ふっ、と空気が歪んだ。
空間が僅かに違和感を発し、影炎の様に揺らめいた一瞬後。


ふわり、と白絹が風に舞った。


「!? 《氏神》―――さまッ!?」
一瞬、勧請に失敗したのか、と思った。
その場所に現れたのが、見なれた白い髭を蓄えた老体ではなく、自分と同じ歳ぐらいの――学生服の上に着物を羽織った、青年だったからだ。
ふわ、と地に体重を感じさせずに降り立った彼は、閉じていた瞳をゆっくりと開いた。片方は、柔らかな濃茶色。もう片方は、透き通った琥珀色。
氏神・緋勇麻央が、顕現した瞬間であった。
「お爺ちゃんが若返ってる…」
ぽかん、とした声音で伊涼が呟く。目と口がきれいにO型になっている。
「違うッ! そんな訳ないだろッ」
慌てて伊涼に突っ込む。
「じゃあ、何? 失敗したの?」
「それも違うッ!」
(落ち着け、落ち着け―――!)
頭の中で必死に考えを巡らせる俊。伊涼の前で動揺を表すわけにはいかない、と思ったその時。
りぃ―――んん―――
「―――! 鈴が―――!!」
伊涼が、いつも腰に下げている神鈴。それが澄んだ音を立てた。
「その音は―――、」
意識が完全に覚醒したらしい麻央が、その音の出所に目を向ける。
「君が…呼んでいたのか?」
二人には意味不明の言を呟き、振り仰いだ。一瞬、男か女か解らない整った顔を向けられて、俊は動揺を抑えて姿勢を正した。
「お初にお目にかかります。《氏神》様ッ。ついては―――御名を伺いたく存じます」
大きな俊の声に驚いた様にニ三回目を瞬かせたが、得心したらしく頷き、唇を開いた。
「俺は…緋勇、麻央」
「あ、あのう、焔羅様とはどういうご関係です? お孫さんか何か?」
「動揺するな、伊涼。そんなことを聞いている場合じゃない!」
そう、そんなことで盛りあがっている場合ではない。坂に渦巻く《邪気》は、ついに3人を飲み込もうとする位置まで近づいていた。緊張感のない質問をしようとした伊涼が慌てて口を閉じ、一歩下がる。
「緋勇大明神様。どうかお願いします。そのお《力》で我々をお救い下さいッ!」
麻央も事情が呑みこめたらしく、渦巻く闇に一瞬目を向けると、俊に視線を戻した。
「俺は、そんな大層な名前を受けられるほどの者とは思えないが―――、俺の《力》が役に立つのなら、喜んで貸そう。…焔羅殿と、そう約束した」
「焔羅様に…良かった」
「この者の持つ鈴は、《邪気》に接した際、我々を導いてくれると伝えられる神鈴。我々は信じます。神鈴の音を…」
ギャアア、ギャアアア!!
突然現れた麻央を敵と認めたのか、鴉達が一斉に羽ばたいた。
「二人とも、下がっていてくれ」
す、と裸足をアスファルトの上に滑らせる。自分の実体があるのかないのか解らないような、おかしな感触だが、これは慣れるしかない。
着物の裾を捌き、掌に《念》を込めると、紅い瞳を光らせる鴉に向かって撃ちこんだ!
ギャアアア―――ッ…
その《念》は純粋な精神エネルギーのような代物で、鴉に纏わりついていた《邪気》だけを撃ちぬき、散り散りにさせた。
《邪気》を落とされた鴉は覇気を失ったかのように飛び去っていく。
「おぉッ…」
「すごい!」
俊と伊涼が、感嘆の叫びを放つ。それが熟練された武道家の動きであることは、二人にも容易に解った。
「去れッ! お前達の在るべき所へ帰れ! この所業はお前達の望む所ではないだろう!」
腰を低く落とし、丹田に《気》を集中させる。限界まで高めたそれを、掌の中で握り潰した!
シュワアアアアッ!!
拡散された《気》は空を舞っていた鴉達を撃ちぬき、正気に返した。
ふと気づけば、静寂が坂に訪れていた。
あれほど騒いでいた《邪気》が、嘘のように収まっている。完全に消えたわけではないが。
そして。消えようとする人に見えぬ闇の渦に、麻央は目を向けた。
正確には、その渦の中心に飛びこもうとする白髭の老人に。



「何をするつもりなのですか? 彼らを道半ばに置いていって、一体何を―――?」
「役目を、果たさねばならぬのだ」
決意の混じった瞳。麻央は知っている、こういう目の人間には何を言っても無駄だと。それだけの理由があるのだから、と。
「…約束、します。あの二人を、護って見せます。だから―――」
だから。
「…戻って、来てください。彼らの元に。彼らには貴方が必要な筈だから―――」
「……すまぬのぅ。緋勇―――」
約束は、しなかった。
麻央の琥珀色の瞳が一瞬揺らめき、閉じられた。
そのまま焔羅は、闇の中へ―――――



「緋勇大明神様」
仰々しい呼ばれかたに、我に返った。
「焔羅様にも劣らない強力なお力、ありがたく存じます。自分は勧請士矢村 俊。そしてこれが巫女の水兼 伊涼にございます。お見知りおきを」
「よろしくね、緋勇―――」
言いかけて、伊涼の口が止まる。ちょっと困った顔をして、小首を傾げた。
「どうした?」
不思議そうに俊が問う。それを目の端に止めて、伊涼はおずおずと口を開いた。
「うーん。なんだかしっくり来なくて。ねぇ―――緋勇…くん」
「い、伊涼ッ!! なんだ、その口の聞き方はッ。氏神様に失礼だぞ!!」
「でも、見た目は私達と同じくらいの年に見えるよ? 学生服だし」
「だめだッ。力をお借りする以上、俺達は常に氏神様に敬意を払うべきだッ」
「ちェッ」
麻央本人がきょとんとしている間に、話は纏まったらしい。伊涼が残念そうに可愛く舌打ちした。
と、その時大変なことに気づいた、と言うように伊涼が目を見開いた。それが見ている先は―――、麻央の腹に穿たれている傷痕。真新しく、紅い血が流れ出しているのだ。驚くのも無理はない。
「緋勇くんッ! け、怪我してるの!?」
「何だって!?」
俊も驚いた様にそちらに目をやる。生々しい傷痕に、顔が青くなった。
「まさか、先程の戦いで―――」
「あぁ、気にすることはない。この身体はそんな事では傷つかない。これは―――多分。俺の問題なんだろう」
「俺の問題って…?」
痛々しさに眉を顰めた伊涼に、大丈夫だと言う風に少しだけ微笑ってやる。その優しい微笑みに、伊涼は身体の力を抜いた。
「俺は…何か、大切な事を忘れてしまっている。それを思い出そうとするとこの傷口が開く―――。痛みは殆ど感じていない。大丈夫だ」
確かに流れ落ちている筈の血液は、滴り落ちる前に虚空に消える。紅が滲んで汚れた着物にも、それ以上広がらない。確かに、特別な傷痕なのだろう。
無意識の内にだろうか、細い指でそれをなぞる時、一瞬だけ眉を顰めたがすぐ消えた。
「と…ともかく。それならば問題はないとして…―――伊涼。そろそろ本題に戻るぞ」
軽く咳きをして、俊が話を戻そうとする。麻央も、黙って俊の方を見た。
「う、うん」
「緋勇様。どうか、お聞き下さい。
この坂に満ちる《邪気》―――この坂で残虐な通り魔殺人を繰り返し、鴉をも狂暴化させ、人を襲わせている悪しき《気》―――それを放つ元凶を鎮めるため、自分たちは恐らくこれから戦うことになると思われます」
「うん…今日はいつもより《邪気》が濃い。もうすぐその元凶が現れるかもしれないの…」
黒い渦を巻く空を不気味げに見上げ、伊涼が呟く。
「元凶を止める事が出来れば、この坂を《邪気》から開放することが出来る…。緋勇様。何卒、お力添えを」
深深と、頭を下げた。
「氏神様。とても神様には見えないけど、力を貸してください」
ぺこっと頭を下げる。
「…今のは失礼だ。完全に失礼だぞ」
「そんなこといったって―――」
どこかじゃれ合いのような言い争いに、麻央の唇が僅かに綻ぼうとした時―――

りぃ……んん!

鈴が、鳴った。
それに呼応するかのように、じわり、と空気に重みが混じった様に麻央は感じた。
重苦しい、負の感情。ぢくぢくとまた腹の傷が痛むような気がして、血を流し続けるそこを押えた。
「また鈴が…。―――!! ね、ねぇッ、俊、あそこ…。見てッ」
暗闇坂を、誰かが降りて来る。
髪が長い。多分、女性だろう。
俯いて、長い前髪で顔を覆っているので、詳しいことは解らないが。
この不気味な坂は、事件の後めっきり人通りが減った。
そんなところに、一人で――――
得体の知れない怖さに、伊涼が身を震わせて後退った。
と、その肩の上にぽん、と手を置かれた。
吃驚して横を見ると、心配するな、と言うようにこちらを見つめてくる氏神がいた。透き通った琥珀色の瞳が前髪の簾から見えて、伊涼は心臓が高鳴るのが解った。
「不気味な《気》の乱れ―――。警戒した方がいいな」
俊の言葉に、現実に引き戻される。麻央も伊涼を見たのは一瞬だけで、油断なく女性らしき人影を見据えていた。
「来るよッ」
曖昧な感触の麻央の腕にしがみつく。人影は、慟哭とも怨嗟とも取れる呻き声をあげ、ふらふらとこちらに近づいて来る―――
「ううう…ぅ…」
「おい―――」
ぐっと一つ息を呑んで、決意した様に俊が話しかける。
「―――?」
人影は、不思議そうに振り向いた。その仕草が、普通の人間と全く変わらなかったので、却って不気味に感じる。
「あんた、一人で平気なのか?この坂は最近―――」
「『姿なき通り魔が襲う魔の坂道』週刊誌で読みましたわ」
出てきた声は、意外にも普通の声で。尚更肌寒さを感じ、伊涼はぶるっと身体を震わせた。それに気づいていないのか、女性はゆうるりと空を仰ぎ、誰に言うともなく喋り出した。
「ふふふ…平気で人命を奪う…。犯人はきっと正気の者ではないのでしょうね…」
また、ぅぅぅ…と泣いているような呻きを洩らし、女性は続ける。
「人が死ぬ悲しみ。痛いほど分かる。私にも赤ちゃんがいてね…。もうじき――貴方達と同じくらいの歳よ。生きていれば、ですけれどね…」
「死んだ…のか?」
「えぇ。でも、もう悲しくはない。分かったから。もうすぐ、戻ってくるって――」
(も、戻ってくる…?)
熱に浮かされたかのように、段々と女性の声音が高ぶってくる。伊涼の腕をやんわりと解くと、麻央は彼女を護るように一歩前へ出た。
「きょ、今日こそは…今日こそは間違いないッ。あなた―――」
宙を泳いでいた女性の瞳が、始めて真っ直ぐ俊に向けられた。
「は―――?」
「あなたよ―――赤ちゃん。さぁ―――戻っておいでェ」
ふらふらともどかしげに伸ばされる腕を、慌てて後退ってかわす。
「な、何を言って―――」
「お母さんを忘れてしまったの? だ、大丈夫よ…。お母さんには…ちゃんと分かる。その首筋―――」
言葉が途切れる。一瞬の間。
「とてもおいしそうですものッ」
かっ!! と見開かれたその瞳は―――、紅かった。
小さいはずだった口はぐぱりと横に広く開けられ、黄色い乱杭歯がずらりと並んでいた。
「―――!!」
「さぁ、早く戻って来てッ。もう一度、お腹にッ―――」
「俊ッ!! 危ないッ!!」
伊涼の声に麻央の隣まで下がり、俊は咒符を構えた。堪えきれない嫌悪感を滲ませて、叫ぶ。
「あんた―――この坂で何をしてるッ? あんたからは…血の匂いがするッ!!」
「血ィ―――?」
ぞわり。と、足元から何かが沸きあがるような気配。
「ふふふふッ!! ち、血の匂い―――! みんなに言われたッ!! 血の匂いがするって!!」
ざわざわざわざわ…と樹木が揺れ、暗雲が渦を巻き始める。
「こ、この《気》は《邪気》ッ!!」
伊涼が叫ぶ。
「緋勇様ッ! 戦闘の準備をッ。こいつが…元凶ですッ」
俊が、印を組む。
ふっと僅かな違和感を感じて、麻央は生温い風を肌に感じた。腰を落とし、目の前の―――、《邪気》に彩られた哀れな女性を見据える。
「―――? ふふふッ。なあに? あなた―――。私をどうするの? 殺す? 殺すの? 殺すのねッ!! 私と―――、私の赤ちゃんをッ!!」
ぶわぅっ!!
「そんな事ォ、許さないッ!!」
生温い風が轟、と鳴り、3人に吹きつける。耐えがたい負の感情―――麻央はえずきを堪えるため無理矢理息を飲みこんだ。
「きゃあああっ!!」
「な、何て《邪気》だっ!!」
「絶対にィィ、許さないッ!! みんな、みんな喰ってやる!! あの子と同じようにイィィッ!!」
「じゃ、《邪気》に操られている…」
「ひるむな、伊涼ッ。―――おい、あんたッ」
足の僅かな震えを心で叱咤し、伊涼を諌める事によって自分を落ちつかせた。
「…あんたの子が、どうなったのかは知らない。だが、何にせよあんたは、あまりに多くの犠牲を出した。俺はあんたを止める!! 貴様の邪気、払ってやるッ!!」
俊の叫びに呼応し、麻央の気が高まる。
「っもどっておいでぇえええ!!」
グアッと人とは思えぬ顎が麻央に向けられる。
「…目を、覚ませ! もう、貴方の子供は―――」
「いいぃああああああ!!!」
バックステップで下がると、がむしゃらに伸ばされてくる爪を受けとめる。けして強い攻撃ではないのに、それを受け止める麻央は酷く辛かった。
どれだけ、彼女は苦しかったのだろうか。
現実を見る目を潰し、狂わなければ生きられなかった。
そうまでして生に執着しなければならないとは、人間は何という悲しい生き物だろうか?
「…もう、終わりにしよう。貴方はもう苦しむ必要なんてない!」
鬼女の両腕を弾き、懐に飛びこむと《気》を乗せた双掌打を叩きこんだ。
「っぎゃああああぅう! 違うう! わたしの赤ちゃんじゃないッ!!」
麻央の念は、どんな者にも平等に分け与えられる情。それは彼女に纏わりついていた《邪気》を、あっという間に吹き飛ばした。間髪入れず俊が叫ぶ。
「伊涼、頼むぞ!! 《邪気》を封じるんだ!!」
「わ、分かったッ」
(お願い、上手く行って―――!)
ぎゅっと目を瞑り、呼吸を落ちつける。逸る心を抑えて符を向け、印を組んだ。
「邪気、封印ッ!」


―――――――――――――


(あ、悪意が…私の中の悪意が抜けていく…)
まさしく憑き物が落ちたかのように、鬼女の目から狂気が消えた。
「…やった。やったよっ!! 私、《邪気》を封印できたよ!」
「本当かッ?」
「うんッ。あの女はもう、さっきまでの彼女じゃない…」
体の力が抜け落ちた様に道にへたり込んでいる女性は、呆然と視線を目の前に立つ麻央に向けた。
麻央が彼女と視線を合わせようとその場にしゃがむ。それで我慢できなくなった様に女性が堰を切った。
「私――開放された…? やっと―――開放されたのね? あ、あの…お願いしますッ。少しでいい! 私の話を聞いてッ」
麻央は黙ったまま、優しく目を細めると、細く痩せぎすな彼女の肩を労わるように抱き締めた。
「あたたかい…。あたたかい《念》…。ありがとう…」
触れ合った身体から、自然と感情が流れ込んでくる。最早念のみの存在となってしまった二人には、触れ合うだけで気持ち
を共有させることが出来た。
ただ受けとめてくれることが、どれだけ嬉しいことか彼女は今まで知らなかったのだろう。その腕の中で、哀れな女性は独白を続けた。
「かわいそうな赤ちゃん…生まれてすぐに死んでしまった。私は、そのショックに耐えられなかった―――。私、食べてしまったの!! 赤ちゃんの亡骸を…壊れてしまった意識の中で、赤ちゃんを―――お腹に戻せると信じてッ…!! その《罪》は私を捕らえて離さなかった。赤ちゃんが戻ってくるという幻想に溺れ、それを現実にしたいと願えば腕は勝手に人を殺し、口は勝手に血肉をすすった…何度も、何度も―――。自分はもう死んでいて、この世界の人間ではないと分かっているのに―――」
彼女は泣いていた。見開いた瞳から大粒の涙を落として。まるで小さな子供をあやすように麻央はその涙を指で拭いてやり、痛んでしまった髪を撫でた。
「もう大丈夫だよ。安心して。《邪気》は封印したわ。もう、あなたは虜じゃない。きっと、その子の元へ辿りつけるよ…」
伊涼はその様子を始めは驚いていたが、やがて、優しく笑って言葉を紡いだ。
「本当? 本当に―――?」
「ああ…」
縋るような問いに、俊も続けて答える。
「嬉しい…。ありがとう…」
スゥ…と立ちこめていた邪気が、薄れていく。黒い渦は灰色の雲に変わり、風は爽やかな夜風に変わり始めている。
「ありがとう―――」
最期の声は、響いて、消えた。
彼女の残滓を受けとめるかのように消えた空間で手を握り締めると、麻央は立ちあがった。
「…俺には、こんなことしか出来ない。彼女を楽にしてあげることしか―――。あの人の悲しみを完全に癒すことなど出来ない。彼女の存在を、この世界から消し去る事しか出来ない。それでも、俺は―――」
「緋勇様!」
自責のような独白を、俊が止めた。
「それは違いますッ。あの女性は、貴方に救われたのです。永劫に続く苦しみから、開放されたのですッ」
「そうだよ! わたし達だけじゃ、あんなこと出来ない。彼女の苦しさを全部受け止めて、優しく抱き締めてあげるのは、…緋勇くんしか出来なかったんだよ」
「それは…」
戸惑った様に二人に目線を向ける麻央に、伊涼はにっこりと笑った。
「ありがとう、緋勇くん。あの人を、助けてくれて」
その言葉だけで。
自分の存在が間違っていないと、言ってくれる人がいるだけで。

「礼を言うのは、俺の方だ―――。…有り難う」

こうして、不思議な《縁》によって、東京に戻ってきた麻央は、新しい仲間を得る事が出来た。
しかし僅かな休息の中、彼をここに導いた焔羅翁が、危険な戦いに臨んでいる事は、彼らの知る由も無かった。