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のんべんだらりんごった煮サイト

月下美人

年の頃は十四、五だろうか。
この辺りの下町には全く持って不似合いな、白い着物を身に付けた少女が、何やら思いつめた目をして橋の欄干から川を覗き込んでいるのを見て、やっかいなところに出くわしたと男は嘆息した。
今日たまたまいつも酒を買う蕎麦屋が休みで、足を伸ばして遠い酒屋まで買いに行ったせいだ。そうすればこの橋を渡りまた帰る必要など無かったのに。
このご時世だ、自分の生を嘆いて命を自ら絶つなどそう珍しい事では無い。別に興味も義務感も興らないが、目の前でやられたら流石に気分が悪くなる。
と、少女が欄干に片膝を乗せた。武家然とした品の良い着物の裾が割れ、あられもない格好になる。それを見ても、男は何の感慨も起こさなかったが。
「待ってなッ。今、助けるから―――」
「―――――?」
それは紛れも無く、その少女の口から出た言葉で。見目の整っている武家の少女にしてはあまりにも蓮っ葉な言い口で、男は僅かに虚を突かれた。少女はそのまま、躊躇い無く―――そう低く無い水面に向かって飛んだ。

ばしゃ――――ん!!

「…………」
我知らず早足になり、男は欄干の上から下を覗き込んだ。少女は肩まで浸かる川の中を何の躊躇いも無く泳ぎ、橋桁に引っかかってか細く鳴いていた子犬のところまで辿り着き、それを抱き抱えた。
「もう大丈夫だからねッ。しっかりおし―――」
しっかりと両手で震える毛玉を抱き締めた瞬間、流れに足を取られたのか、少女の頭が沈む。そのまま体勢を立て直すことも出来ず、流され出す。
「!」
咄嗟に男は徳利を放り出し、橋から身を投げていた。

ざぱ―――ん!!

水を掻き分けて、少女の袖を引っ掴む。彼女は、どうにか犬だけでも助けようと、自分が沈むのも構わずに抱いた手を上に差し上げる。それを無理矢理抱き抱え、男は川岸まで泳いだ。
水から上がると、唐突に自分の体重を感じ、少女はへなへなとそこにしゃがみこんだ。窮地を助けられた子犬も地面に降り立ち、ぷるぷると身体を振る。
「はぁ…ありがとう、あんた。助けてくれて」
「勘違いするな。お前を助けたわけじゃない」
弱々しいながらも、柔らかい笑顔を向けてくる相手を、男は不機嫌そうに見下した。ふんふんと辺りの臭いを落ち着かなく嗅いでいる子犬を指差し、
「お前に任せていたら、そいつ諸とも死にそうだったからな」
「あ、ははッ。確かにそうだね、やっぱりありがとう」
冷たい男の声に少しも臆さず、少女は自分に対して呆れたのかけらけらと笑った。品の良い白い着物を惜しげもなくたくし上げ、ぎゅうっと絞る。
「お陰で、折角買った酒が無駄になった。弁償して貰おうか、家はどこだ?」
自分も濡れた着物に構わず、男は淡々と告げる。ふと、今まで笑っていた少女の表情が崩れた。
「…ないよ」
「何?」
「家、無いんだ」
膝を抱え、少しずつ身体を温めながら、少女はぽつぽつと語り出した。
「あたし、ずっと暫くこの辺で暮らしてたんだ。親はいなかったから、適当にその日暮しで」
何となく帰るタイミングを逸し、男は所在なげにそこに立ったままだ。足元に纏わりついてくる子犬が、この少女を全く警戒していないことも一役買っていた。人間よりも、その子犬はよほど信用出来る同胞だったから。
「そしたら急に、武家の偉いさんがきて、あたしのこと養女にしたんだ。あたしには、特別な力を視る『眼』があるんだって…良くわかんないけど」
「眼……?」
訝しげに眉を顰めた男に気づかず、少女は言葉を続ける。
「確かに子供の頃から、幽霊や妖怪の類みたいなのは良く視てたけど、なんでそれでいきなり養女にされるのか…全然わかんないんだ。誰も何も話してくれなくて―――」
「だから、家が無いのか」
こくり、と膝の上で少女が頷く。男は軽く嘆息し、纏わりつく犬に構わず踵を返した。
「あ…待ってよ!」
慌てて立ちあがり、少女は男の後を追う。何故か子犬も一緒についてきた。
「待ってよ、あんた――――」
「要するに弁償は出来ないって事だろう。ならもう用は無い、どこへなりとも行け」
「そんな―――」
「教えておいてやるが…俺は人間が大嫌いなんだ」
振り向きざまに言い放たれた一言に、少女の足が思わず止まる。
あまりにも冷たい、あまりにも残酷な言葉。
そして男は、再び足を速める。少女の足に擦り寄る子犬がきゃん、と非難のような鳴き声をあげた。
少女は一端ふるふると首を振り、また男の後を追って駆け出した。





うろうろと長屋の間を通りぬけ巻こうとしたが、この辺りの地理に慣れているのは向こうの方だったらしい。しつこくついてくる。男は心底面倒臭そうに溜息を吐こうとして――――――不意に、足を止めた。
「う、わっぷ!」
角を曲がったところで止まっていた男の背中に、少女が激突する。子犬がきゃいん、と驚いて声をあげる。
「何、一体どうし―――――ひッ!?」
ひょいっと男の後から路地を覗きこみ、少女は息を呑んだ。
外れにある鎮守の森まで来てしまったようだ。熊笹が生い茂る中に一つ、古びた祠が鎮座している。それだけだったら良くある、鎮守様の光景だ。しかし、今は―――――
「な、何? あれ…!」
男の背中に思わずぎゅっとしがみ付き、少女が押し殺した悲鳴を続ける。それを乱暴に振り解くと男は黙って、ゆらゆらと祠の辺りをさ迷う青白い人魂を見た。
「……見えるのか?」
ちらりと横目で問うと、少女は青い顔をしたまま何度も頷いた。どうやら、特別な視力を持っている事は確からしい。
「あれって…今、流行りの送り提灯ってやつ…?」
「少し違うな。あれは狐狸の類が化かして身を隠す為のものだが、これはもう少し性質が悪い」
見ると、その青い炎はゆらゆらと揺れ、やがて獣の形を取り…紛れも無い唸り声を出して見せた。少女は身を竦め、唯一縋れる男の背中にまたしがみついた。今度は男も振り解かなかった。
「…信心を失った稲荷は、やがて神から妖に落ちる。そいつ等は人を憎み―――人を食らう」
逸れ稲荷、と呼ばれるそれらは、明確に少女に牙を向けている。がちがちと震える少女を、男は容赦なく突き放す。
「こいつ等をここまで追いこんだのも、人間に相違無い。せめて食らわれてやる事を、罪の償いだと思え」
「あ…っ」
その時、素早く少女の腕から子犬が飛び出し、地面に降り立つとわんわんわん! と吠えた。せめてもの威嚇のつもりなのだろうが、悲しいかなあまり効果は無さそうだ。
僅かに眉を顰めながらも、男は少女をこれ以上助けようとする気は毛頭無かった。彼にとって人間とは忌避すべき者であり、同朋達の仇でもあるのだ。
―――憎しみに溺れ、人を根絶やしにしたいと思うまでではないが。もう時が経ち過ぎ、彼にとって生きると言うことは惰性でしか無くなっていた。
「…っこいつら、変だよッ!」
小さな侍に守られて落ちつきが少し出たのか、少女は眉間に皺を寄せて炎の獣達を睨む。
「変な『力』がこいつらに集ってきてる…本当はこんなことしたくないって…苦しんでるよッ!」
「何――――?」
その声に、男はふっと獣達に目線を戻す。確かに、たかが逸れ稲荷にしては妖気が強すぎると思っていたが―――
< 苦 シ イ >
< 苦 シ イ >
< 体 ガ 熱 イ 。 何 モ 考 エ ラ レ ナ イ ――― >
< 助 ケ テ ク レ >
< 助 ケ テ 、ク レ … >
「これは…」
まるで見えない鎖に繋がれたかのように、獣達が暴れる。彼等は確かに、苦しんでいた。
(こいつ…そんな所まで視えるのか?)
気を探る<眼>は主に女性に多く顕現すると言う。一番有名なものは、龍脈を―――龍穴を見つける<<菩薩眼>だが、その他にも沢山の種類がある。
「…一つ教えてやろう」
「え…?」
「お前のその眼は恐らく、<如来眼>と言う。気の巡りを探り、見つけることの出来る眼だ」
「にょらい…がん?」
「陰気が集結している…やむをえん、下がっていろ」
「あ…」
ざっ、と草履が地面を擦る。少女を守るように、男は立ちはだかった。

グルグルルウルルウウウ!!

ついに理性を焼かれた獣達が、飛び掛ってこようとしたその時――――
「幸い今日は――――――――満月だ」
低く低く響いた声が、何故かはっきりと少女の耳に届いた。
その声にはっと空を見上げると、既に暗くなっていた空に、真円を描いた月が光っていた。
「―――――――月爪ッ!!」
ザムッ!!
ギャアアアアアアアアアッ!!!
ぶわっ、と炎が飛び散る。男の爪の一撃で、炎の獣達がその身を四散させた。
次々と飛びかかってくる狐狸を、男はあっという間に消し飛ばす。大した時間もかからないうちに、辺りには静寂が訪れた。
「ウォオオオオオオオ――――――ンン!!」
その瞬間、目の前の男の唇から、遠吠えが響いた。
「…狼…………!!」
思わずその単語を呟いた少女に、男は一瞬の戦いの熱をもう冷まし、冷たい眼で振り向いた。
「…身体を壊したくなければ、さっさと家に帰って休め。運が良かったな」
僅かな逡巡の後、こくり、と素直に頷く少女に、男はもう興味が失せたというように歩き出した。
「あ…待って!」
声に足を止める。が、振り返らない。
「あたし…百合っていうんだ。あんたは―――誰? どこに、帰るの?」
無視するつもりだった。
だが、その最後の問いがそれを許さなかった。
「――――――――…犬神だ」
それだけ言って、男は再び歩き出した。
だが、最後の問いに答える事が出来なかった。