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月下邂逅

1991年、年明けの冬。
その日、月は真円を描き、煌々と冷たい光で辺りを照らしていた。





「良い夜だ」
誰に言うともなく、犬神杜人は月を見上げて呟いた。真神学園の屋上で、お気に入りの煙草を燻らせながら。
もう学校の門は固く閉められている時間で、守衛すらもいないはずなのだが、彼の職業―――この学校の教師、であることを考えればここに居られるのにはなんの不思議もない。もっとも、彼がここに居るのは、彼にとってはもっと簡単な方法で―――生身のまま壁を登ったからなのだが。
きんと冷えた空気に呟きは溶けていき、風の音すら聞こえない静寂が訪れる。
静寂が訪れる、筈だった。
ぴくり、と犬神の耳朶が動いた。まるで、犬が警戒して辺りの音を聞く時のように。
風の音しか聞こえない夜の筈だった。草木すら寝静まり、もしこの場に人がいたとしても何も気づくことが無い筈の。
しかし犬神は、不快な音を捉えていた。
何かが、弾ける音。
それと共に、耳と同じく鋭敏な鼻に、届いた硝煙の臭い。
その次の瞬間、犬神は何の躊躇いも無く、屋上の柵から空に向かって飛んだ。





バスバスバスッ!!
くぐもった撃鉄の音が空気を焼く。断末魔の呻き声をあげながら、大蝙蝠が地面に落ちる間も無くぐずぐずと崩れていった。
「Amenエイメン.」
何の感慨も込めず祈りの言葉を呟き、銃口から立ち昇る煙をふっと吹いて風に遊ばせた。
「都市の坩堝に、こんなモノが沸いているとはな…確かにここには、とんでもない気エナジィが集ってきてやがる」
物騒な武器を懐にしまった男は、半ば呆れたように目の前に立つ今にも崩れそうな木造の建物を見上げた。
機関の幹部からその情報を聞いた時は半信半疑だったが、目の前に見せられた光景には、信じざるを得ない説得力がある。
地脈―――龍脈とも呼ばれる、大地の気の流れ。それが噴出すところは龍穴と呼ばれ、それを手にしたものには森羅万象を司る力が与えられると言う。
今男――――来栖狩夜の目の前に立つ建物は、まさしくその龍穴の真上に立っているのだ。封印は施しているらしいが、影響は免れないらしく、こんな月の騒ぐ夜には生命を歪められた異形達がその地下から這い出してくる。
「良いぞ化物ども。来るなら来い―――全て滅してやる」
にやりと顎鬚の生えた唇を歪め、銃口で十字を切る。ぞわり、と地下から上がってくる瘴気が強くなった。
「月に魅せられた人間ルナティックが、何の用だ」
「―――――!」
ザンッ!!と身体を振り向かせ、後ろに飛ぶ。いつの間に現れたのか、不精髭を生やして煙草を咥えた男が一人、立っていた。
「何者だ?」
「見ての通り、ここの教師だが」
気だるげな声で返してくる男を、来栖は油断なく銃を手にしたまま睨みつける。
「ふざけるな。そんな獣臭い教師が居るか」
「ネズミらしく鼻は利くと見えるな」
「俺がネズミなら貴様はナンだ。駄犬か野良犬か」
「―――訂正してもらおうか」
揶揄混じりの駆け引きの中、不意に犬神の目が細められた。
「ハ! 夜魔族ミディアン共にありがちなプライドか。化物の分際で」
ジャッ、と来栖が懐から銃を抜く。その瞬間――――――


ザウッ!!


「――――――!!」
殺気が急激に間近に迫り、来栖は更に後ろに飛ぶ。しかし間に合わず、頬からぬるりとした感触が滴るのが解った。
「チィッ!!」
しかし来栖も然る者、飛び退きざまに銃を構えて連射した。犬神は追撃を止められ、後に飛んで間合いを取り直した。
「人狼ワーウルフか…チッ、よりにも寄って満月フルムーンの時に」
月の光に舌打ちし、来栖は自分の迂闊さを悔いた。いくら歯応えのある魔物と戦いたいといっても、こんな夜に出歩くのは確かに自殺行為だ。闇に対する慣れと、極東の国の魔物に対する甘さが彼の鼻を鈍らせたのか。
「だが―――負けん」
すう、とサングラスの下で来栖の目が細まる。魔物に負ける等、狩人としての自分には許される事では無い。自らのアイデンティティを確立する為に彼は闇を狩るのだから。
きっと視線を前に転じる。月の光に照らされたグラウンドに、前かがみになり爪を構えた狼がいた。
「Amen!!」
信じてもいない神に祈りを奉げ、銀の銃を構える。犬神も再び突撃を開始した。





バスバスバスッ!!
銀の銃弾が地面を抉る。それを信じられないスピードで全て犬神はかわした。月が真円を描く時、彼の身体能力は飛躍的に上昇する。嘗てこの土地が全て荒野だった時、そこを支配していた「大口の真神」の名に恥じぬほどの力だった。
しかし来栖も負けてはいない。繰り出される爪をかわし、更に銃弾を撃ち込む。それは全てかわされた―――否、来栖の狙い通りに地を抉っていた。
「無駄弾の使い過ぎは止めた方が良いぞ」
擦れ違いざま、揶揄さえ含ませて犬神が哄う。
「無駄弾だと? 所詮畜生か」
しかし来栖は余裕で答える。不審を感じた犬神が、その場から飛び退ろうとした瞬間――
「『戒めし棘イバラ』よッ!!」
「―――――――!!」
がくん、と犬神の足が止まる。地面を穿った銀の銃弾は要となり、結界を形作っていた。
「ちっ…!」
両足を持ち上げようとするが、動かない。
「無駄だ。聖別された銀は、もっとも貴様ら人狼が嫌う代物。それに寄って作ったこの結界、貴様一匹の力で破ることなど出来ん」
「基督教の結界術か…確かに迂闊だったな」
東洋の陰陽術、剄術には知識があるが、西洋の呪術は殆ど知らなかった。しかし、動きを封じられ銃口を心臓に向けられている状況であるにも関わらず、犬神は酷く落ちついていた。
「フン、今すぐ血祭りに上げたいところだが―――、今は別口の仕事中だ。後でゆっくり始末してやる」
絶対の勝利を確信したのか、来栖はそう言って踵を返した。
「何が目的だ?」
「知れたことよ。この極東の国にある、『龍穴』を押さえる。M+M機関はどうにも『奇跡』にご執心でな。俺には正直興味が無いが―――法力を高められる方法には、そそられるな」
「馬鹿が」
「何ィ?」
旧校舎を視界に入れ、唇を歪める来栖に短い制止がかけられた。
「アレはお前達の手におえる代物じゃあない。諦めてとっとと帰るんだな」
「ぬかせ。化物の分際でアレを独占する気か、この身の程知らずが」
「身の程を知るのはそっちだ。人間の分際でアレを御せると思うか」
ぎり、と来栖の奥歯が鳴る。
「動けない癖に粋がるんじゃねェ。野良犬にこんな良い巣はいらん、山に帰って穴倉に入ってろ」
「訂正してもらおうか。二つ程」
「あァ?」
ぎしり、と何かの音がした。
「一つは―――俺の事を犬と呼ぶな。俺は、狼だ」
ぎし、ぎし、と音が強く断続的に鳴る。地表に不意に視線を落とした来栖は、その音が地面に突き刺さった銃弾からする音だと気付いた。
「な―――馬鹿な。結界が―――」
「もう一つ。ここは別に、俺の塒じゃない」
ぎしぎしぎしぎし、空気が引き攣る。銃弾が少しずつ地面からせり出している事に気づき、来栖は驚愕する。
「いくら満月でも―――コイツ…」
「ここは―――――…」
ぎしっ。
音が止まった。


「ここは俺の、『帰る場所』だ――――!」


ギャリイイイン!!
「何イィッ!?」
結界が、弾けた。内側からの強制的な負荷に耐えきれず。
そのまま牙を閃かせ、狼が狩人に肉薄する―――――!
「滅びの炎メギドファイア!!」
ゴォウッ!
しかしその攻撃は、突如現れた炎によって遮られた。
「!」
「やるな。今回は油断したこちらの負けだ。だが、必ず舞い戻って貴様の眉間にこの銃弾をブチ込んでやる」
「やれるものなら、やってみろ」
炎を挟み、狼と狩人が向かい合う。
「―――狼。貴様、名前はあるのか?」
「…犬神だ」
「俺の名は来栖。また会おうぜ」
ザ、と空気のゆれる気配がした瞬間、炎は掻き消えた。
「…出来る事なら、御免蒙りたいが」
今までの緊張感が不意に薄れ、犬神は気だるそうに頭を掻いた。
煙草を一本取り出し口に咥え火を点けると、僅かに白み始めていた空を眩しそうに見上げた。
「やれやれ…今日はこのまま出勤か」
心底面倒臭そうに言うその顔は、酷く穏やかだった。
そして朝日に照らされ僅かに輝く旧校舎の壁に手をつき、安堵の溜息を小さく吐いて、少しだけ笑ったのだった。