時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

おう、おう、と何かが鳴くような音が間断なく聞こえてくる。
それはまるで、例えるなら鬼の呻き声のような、恐ろしいもので。
聞きたくなくて耳を塞ぎたくても、腕はなにか、ねとり、としたものに絡みつかれて動かない。
地べたに擦りつけられた自分の頬にも同様に、それがへばりつき。


どす黒い紅が、視界を染めた。


血。

血。

血。

血。血。

血。血。血。

血。血。血。血。血。血。






「――――うあああああああああああっ!!?」
自分の叫び声で、御神鎚は目を覚ました。―――何時ものように。
「はぁっ、はぁっ、はぁ…っ!」
狭い寝台の上で上半身だけ起こし、大きく肩を上下させて衝撃をやり過ごす。じわじわと夢が夢であるという認識が出来て、漸く彼は長い息を吐いた。
口にするのもおぞましい、人を人とも思わぬ切支丹への弾圧。自分の目の前で使徒達が血と涙を流して死んでいくのを、宣教師である彼は只見せられ、改宗を迫られた。汗まみれの自分の顔を両手に埋める。酷く、指に触れる頬が歪んでいることに気づいた。
憎い。
憎い。
徳川が―――あの悪魔デモン達が、憎い。
それだけを糧にして、今まで生きてきたのだから。
汗だくの身体をどうにか起こして、御神鎚は外に出た。








月が、酷く丸かった。
僅かに紅く輝いているそれは、どこか不気味だった。
夜着に上掛けを羽織ったまま、さくさくと裏山を歩く。山は危険だから入らぬように―――と御館様から言われてはいるが、この辺りならばいつも薬草を取りに入る、自分の庭と同じようなところだっただから、何も恐れることはあるまい。
僅かに虫の声が聞こえるだけの、静かな道のり。
初春の風はまだ冷たいが、それが却って心地良く、忌まわしき悪夢を払拭する為に御神鎚は目を閉じた。



おう。


おう。



おう。



「――――――…?」
驚愕に、はっと目を見開く。
今。
夢と同じ声を、聞いたような気がした。
怨嗟。絶望。恐怖。諦観。激痛。
それら全てを内包した、鬼の泣き声が。
落ちつかなげに辺りを見回し、御神鎚はあまり足を踏み入れたことの無い、双羅山の方に向かって早足で歩き出した。



おう。おう。おう。



自分の耳に間違いは無かったらしい。確かに、あの声は聞こえる。強くなって。
獣の声ではなかった。只もしこれが人の出している声ならば――――
「何と、悲しい――――」
ありとあらゆる負の感情を背負わされた、音。
鬼の泣き声、としか形容の出来ない、音だった。
少しでもその苦しみを肩代わりしたくて、御神鎚は足を速めた。
何故ならここは鬼の村――――自分も、その鬼の一人に相違無かったのだから。
暫く歩くと、木々が倒れ、小さな広場になっているところに出た。
最初は山に住む仲間の樵の働き場かと思ったのだが、それはすぐに間違いであると知れた。
木々は皆、斧ではなく、何か炎のようなもので焼かれ、半ばから折れ倒されていたのだから。森の木々とそこに住む命全てを愛するかの人が、このような愚考を冒す訳が無い。
ならば――――
「…………あ…!!」
広場に辿り着いた御神鎚は、悲鳴のような声をあげた。





おう。おう。おう。おう。おう。おう。





鬼が、泣いていた。
血に塗れた鬼が、一人。
真っ赤な乱髪を角のように天に向かって立て、空を苛烈な瞳で見据え、泣いていた。
両の眼から涙は零れていないが、泣いていた。
ゆらり。ゆらりと、辺りを歩きながら、焼け焦げた幹にその両腕の爪を振るう。



只々紅い雫を流す、腕を落した鬼が舞う――――――。



紅い幻夢が現実と重なり、ふらりと御神鎚の足がよろける。ぱきり、と靴の下で枝が音を立てた。
「―――誰だッ!!!」
「―――――!!」
くわっ、と鬼が両目を見開きこちらを見据えた。その無骨な腕の手首を外し、黒い砲身をも向けて。咄嗟のことで、御神鎚は身動き一つ取れない。その身なりに敵ではないと察したのか、瞬間膨れあがった鬼の殺気が消えた。
「……………御神鎚、か?」
「……火邑、さん」
銃口を外され、ほう、と御神鎚は息を吐いた。呼ばれた鬼―――否、火邑は気まずげにかりかりと爪の先で器用に頭を掻き、どっかりと草叢の上に胡座をかいた。
お互いこの村へ来た時に挨拶を交したものの、片や御屋形様お付きの切り込み隊長、片や村の片隅に教会を構える切支丹の宣教師―――となると、言葉を交わすことなど殆ど無かった。
「なんの用だ?」
「いえ…寝つけずについ、散歩などを。稽古の邪魔をしてしまい、申し訳ありません」
「ん、あぁ…まぁな」
先程の醜態を見せてしまったのか、という胡乱な目で火邑は目の前の男を睨んでいる。さく、さくと下生えを踏み分けて、御神鎚はゆっくりと座った人影に近づく。月に照らされたその顔はいつも通り穏やかな笑みを浮かべたまま、火邑の隣にすとんと膝を下ろした。
「…静かな、夜ですね」
「…ああ。良い夜だ」
どちらからともなくそう呟き、天を見上げた。
やはり赤みがかった月が、ただ空に輝いていた。
ざぁ、と風が鳴り、草叢を撫でていく。
「貴方に、お詫びしなければなりません」
「???」
唐突な御神鎚の言葉に、火邑は首を捻ることしか出来ない。
「先刻の、貴方の、姿に。――――鬼が居ると、思ってしまいました」
「…くっ。ハハッ、そりゃあいいな! ここは鬼の村よ、鬼になれれば本望だぜ」
気を悪くした風もなくからからと笑う火邑を見つめ、御神鎚は更に言葉を紡いだ。
「…貴方の、雄叫びが。私の夢の中で聞こえる声と、同じでしたから」
きゅ、と自分の膝の上に爪を立てるのを見て、火邑ははたと隣に座る男の顔を見た。
「―――まだ、見るのか」
火邑も、つい最近この村に連れて来られたこの宣教師が、夜毎悪夢にうなされることは知っていた。こくり、と銀糸の頭が上下に動いた。
「忘れられません―――否、忘れてはいけないのです」
溢れ出る恨みの感情を抑えるように、御神鎚はまた顔に爪を立てた。その隙間から見え隠れする瞳が、まるで今までの彼とは全く違うように見えた。
火邑はそれを眺めながら、一つ舌打し―――ごそごそと自分の懐から徳利を取り出し、叢にどん、と置いた。
「…?」
音に我に返ったらしい御神鎚が、音源を視界に入れて目をぱちくりさせる。
「付き合え。眠れねェ時にゃコイツが一番だ」
「はぁ…折角ですが、私はお酒は―――」
「バカヤロウ、今時分坊主だって酒飲むんだぞ。尚雲だって大酒かっ食らってるじゃねぇか」
「あの方は破戒僧ですから…」
「良いから飲め!」
「いえ、ですから――――ふふ」
不気味な月の下、ある意味凄惨な場所で、どうにも間抜けな押し問答をしていることに気づいて、御神鎚は我知らず口元を綻ばせた。
その一瞬を逃さずに、火邑は素早く徳利を腕に取り煽ると、ずいっと身を乗り出し――――
「―――――んむう!?」
「ぐ…、く」
そのまま、驚愕で動けない御神鎚の僅かに開いた唇に自分の口を押しつけた。
「……ん、く」
こく、と喉が上下した瞬間、どちらからともなくばっ!!と顔を離す。
「な…な、何をッ……」
色の白い顔が月明かりの下でも真っ赤に染まっている。
「飲んだな?」
ふふん、という笑いまで込められて得意げに言われると、こちとらどうしようもない。
「…一日ぐらい、酒飲んで忘れっちまえ」
「……わたし、は――――」
反論しようとしたらしいが、くらり、と御神鎚が天を仰ぐ。
「オイ!?」
慌ててその身体を支えると、そのままくったりと火邑に身体を預けてしまった。今まで一滴もアルコールを摂取していなかった身体に、酒豪の愛飲する冷酒はきつかったようだ。
「…め…です…わすれては…」
朦朧とした意識の中でも、僅かに首を振って忘却を拒否する姿に、火邑はぎごちなく爪の両腕で御神鎚の身体を支えた。
「…てめェは。他の誰でも許せるのに、なんでてめェだけは許せねェんだ?」
もうその声は聞こえなかったらしく、御神鎚は落ちるように眠ってしまった。
それでも、決して痛みを忘れ得ぬ、とでも言うように、自分の爪を自分の腕に突き立てたままで。
「――――てめェも、鬼かよ」
瞬間、不躾にこの身体を抱き締めたい衝動にかられたが。
これ以上傷つけるのは御免だったので、そっと背にその爪を乗せるだけで耐えた。