時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

アンバームーン

今日の月はどこか黄味がかった、とろりとした色をしていた。



「悪くないなぁ。なァ、涼浬はん」
「………………………………」
なみなみと酒の入った猪口をぐいっと呷り、闇空を見上げて們天丸は隣に座っている美女に声をかける。だらしなく足を伸ばして座っている彼とは対照的に、龍泉寺の縁側にきちんと正座して背筋を伸ばしている涼浬は、ひたすら無言だ。
「…涼浬はーん。無視されると悲しいわぁ」
情けなく語尾を揺らした們天丸の声音に、眉根を寄せて涼浬ははぁ、と一つ息を吐いた。
「私に月を愛でる慧眼などありません。風流を味わいたければ、梅月殿とでも呑めば宜しいでしょう」
きちんと膝を揃え、両手を腿の上に置いたまま、抑揚の無い声で淡々と涼浬は続ける。
「そない、堪忍してやぁ。何が悲しゅうて自分より男前なヤツと呑まなあかんねん」
本当に御免被る、と言うように大げさに首を振る。生まれ故郷の祗園ならば遅れは取らないだろうが、流石に江戸では人気の俳人に一歩先んじられてしまう、ちょっとした敵愾心からだろう。
「…女性に声をかけるのを常道手段としているのは感心しませんが」
「何や、妬きもち? いや嬉しいわぁ」
「違います」
きっぱりと言い切ると、かくんと們天丸の頭が落ちる。いや解ってたけどな、とぼそぼそ呟いている男を無視して、涼浬は黙考する。
彼等の浮名は仲間内から嫌でも入ってくる。生真面目な涼浬にとってはあまり快い話ではなく、彼女の眉間の皺が更に深くなった。と、無造作についっと節くれだった指が伸ばされる。避ける暇もなく、きゅっと眉の間が指で押された。
「! 何をっ」
「あかんあかん、そないごんた顔しとったら別嬪が台無しや」
すぐに指を引いて子供のような顔で笑う。何ともいえない気持ちが沸き起こって、涼浬はまた眼を逸らした。
この人はよく、こんな戯言を言う。別嬪とか器量良しと言われても、涼浬自身はその事に関して魅力を見出せない。諜報には少しは役に立つ程度か、と思うだけで。
しかしこの人に言われると、それとは違うわけの解らない苛立ちが沸き起こってくる。自分の心を掻き乱すのは、警戒すべき相手。それなのに、こんな風に―――簡単に触れられるのを許してしまう。
修行が足りない、と自己反省を行う涼浬の姿をどう思ったのか、們天丸は手酌で空のままだったもう一個の猪口に酒を注ぎ、涼浬の前に押し遣った。
「――?」
「そない難しく考えんでええよ。お月さん見て、綺麗やなって思て、酒呑めばええねん」
たまには息抜きせんと潰れてまうで、と軽く言い紡いだ言葉だったが、眼帯に覆われていない方のたった一つの瞳が驚くほど真剣に輝いていて、一瞬反論を忘れた。
日毎夜毎の柵に、潰れてしまうのは自分を律せていないからだ。それは自分にとって不文律であった筈なのに、何故か彼の言葉に反論できない。
―――この寺に来てから、変わってしまったせいかもしれない。その変化自体は、疎ましいものでは無かったけれど、やはり迂闊に心を掻き乱されるのは本意ではない。
どうしようか、と逡巡して相手の顔を見ると、無邪気且つ脂下がった顔がそこにあって、呆れた。難しく考えるだけ無駄かと自分を慰め、観念したように猪口を手に取り、両手で持ってく、と呷った。
「お月さん、呑んだ?」
「?」
ふう、と息を吐くと、意味の解らない言葉をかけられて首を傾げた。滅多に見られない冷たき美貌のくノ一のきょとんとしている顔に們天丸は笑い、自分の猪口を差し出して見せた。
「…あ」
それで涼浬も意味を理解した。僅かに波立つ酒の水面に、ゆらゆら、ゆらゆら、と月が泳いでいる。
まるで水の褥で月がまどろんでいるように見え、涼浬の口元がほんの少しだけ笑みを作った。
「それでええねん」
「え…?」
涼浬が戸惑っているうちに、モン天丸は自分の猪口をぐいと呷った。それを目で追って、ほんの少しだけ残念そうに涼浬が溜息を吐いたので、にっと笑って。
ちゅ。
間髪入れず、顔を乗り出して触れるだけで口付けた。
「っ…………!!?」
効果は覿面だった。白磁のような涼浬の白い頬が、さぁっと紅く染まる。その色合いの見事さに一瞬們天丸が動きを止めると、どーん!!と思いっきり突き飛ばされた。
「不埒なっ…! か、帰ります!!」
もどかしげに立ち上がり、殆ど走っているような早歩きで涼浬は縁側を去っていった。残されたのは吹っ飛ばされてごろんと縁側に寝転んだままの天狗が只一人。
「…脈あり、やな」
しかし彼は満足げにそのまま天を仰ぎ、日が昇り月の色が無くなるまでそれを愛でることにした。