時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

追憶

まだ私が下忍として上がったばかりの頃
一度だけ、修行に耐えかねて一人で里を抜け出した事がある
大好きな兄の制止も振り切って、ただひたすらに山道を駆け
気がついたら、道に迷って
日はあっという間に暮れて、心細さに動けなくなった
ただ一人で座りこみ、膝を抱えて泣いていた時
空から、その人が自分を見下ろしていた



「嬢ちゃん…坊ちゃんか? や、嬢ちゃんやな」
唐突に聞こえてきた男の声に驚き、涼浬は顔をぱっと上げた。上げたら目の前に、逆さまになった男ノ顔があって二度吃驚した。
「結構別嬪やんか。そないに泣いとったら、目ェ溶けるで」
目を見開いたまま動けない涼浬に、その男はにいーっと笑った。よッ、と一声上げると、くるりと空中で回転して、涼浬の前の地面に着地した。
人間離れしたその動きに、涼浬が目をぱちぱちさせる。
「嬢ちゃん、迷子か? こない山奥に何の用や? 早う帰らんと、この山に住んどるバケモンが、子供食うてまうで」
まだ幼い涼浬はその順当な脅し文句を飲みこみ、ひくっと喉を引き攣らせた。一旦乾いたかに見えた黒い瞳に、みるみる内に涙が浮ぶ。
「あーあー、泣いたらあかんて! 堪忍、嘘や。大丈夫や、この山は天狗様が守っとる。バケモンなんておらんて」
「…てんぐ?」
両手を振りまわして慌てた慰めにちょっと安心したのか、涼浬は改めて目の前の男を見上げた。
大柄な男だった。否、勿論子供の涼浬にとってはどんな大人でも大抵大きく見えるのだが、それでも大きい部類に入るだろう。こんな山奥に不似合いな着流しを着て、結わずにぼさぼさの髪の毛をかしかしと掻き回している。
しかし彼女が一番に目に入れたものは、その瞳だった。
左目が、黒い。
否、この国の人間ならば当たり前のことをと言われるかもしれないが、そうではない。
本来水晶体であるところが黒く、眼球である所が白い。
奇妙な目玉をまじまじと見られていることに気づき、男はちょっと居心地悪そうに頬を指で掻いた。
「なんや…嬢ちゃん。そんなに珍しいか? これ」
左目を指差すとこくん、と素直に頷く少女に、苦笑しか漏らせない。
「さよけ。…………怖いか?」
「……………すこし」
すまなそうに眉を下げ、上目使いでこちらを伺ってくる少女に、男は今度は心からの笑みを浮かべ、ひょくんとしゃがんで目線を少女に合わせた。
「そない顔せんといてや。怒ってぇへんから、なッ? これならええやろ?」
器用に左目だけを瞑って見せた男に、僅かに涼浬は口元を緩めた。こんな風に自分に砕けた話し方をしてくる相手に、出会ったことが無かったから。
「おッ、漸く笑ったなあ」
嬉しそうに破顔する男に、また涼浬は吃驚する。自分が兄以外の相手に笑ったことなんて始めてだったので。
「ああほら、戻したらあかん、笑とき。笑う門には福来る―――ッて、言うやろ?」
長い人差し指の背で、ついと頬を撫でられた。
「家まで送ったるわ。どこや?」
そう聞かれて、涼浬はまた口を貝のように塞ぎ、ふるふると首を振る。飛水の隠れ里は、里の者以外に決して知られてはならない―――幼い頃から叩きこまれた掟が、そうさせた。
「なんや、ワケ有りみたいやな。う〜ん……よし。ほれ」
「?」
くるりと背中を向けられ、涼浬が目を瞬かせる。
「ほれ。乗りィ」
漸く負ぶされと言われている事に気づき、戸惑いながらもそっと立ちあがって近づき、その広い背中に寄りかかった。
「ほな、行くで」
涼浬の細い両足を腕で掬い、男は立ちあがる。歩き出すと僅かに揺れるその背中は、酷く暖かかった。その温もりから離れたくなくて、きゅっと男の首に両手を回した。
「そうそう、ちゃんとしがみついときや」
男の笑いが、振動で通じる。
どうして彼はこんなに嬉しそうなのだろう、と凄く不思議だった。
不思議に思っているうち、疲れと温もりに耐えきれなくなったのか、涼浬の瞼はゆっくりと下がり、動かなくなった。





「ニンゲン」が嫌いやった
森を好き勝手に切り開いてワイに石をぶつけたヤツらが
ワイはあんな残酷なヤツらやない、けど天狗でもない
水鏡に写るのは片方だけの狗の瞳
どっちにもいけん「まつろわぬモノ」
だからどんなヤツが山に迷いこんだっていつもほっといた
それが出来んかったんは、あの子の声
子供なんやから、もっと大声で泣いたってええのに
誰にも聞こえんようにめちゃくちゃ押し殺した泣き声




背中から寝息が聞こえてきて、們天丸はすこし笑った。
頑なな少女はやっと緊張を解いて、自分の背中に張り付いている。
放っておけなかった。あまりにも小さく、弱いのに、誰にもしがみつけない少女が。
自分には、鞍馬の爺が手を差し伸べてくれた。
ヒトと天狗の間に生まれた自分を、森で生きろと手を引いてくれた。
だから今まで生きてこれた。でも、目の前の少女は。
誰に縋ることも知らず、誰からも手を差し伸べられず、生きてきたようだった。
「ま、考えててもしゃあないか」
一人ごちて、ふっと空を見上げる。
負ぶっていた少女にどこから取り出したのか、薄い羽織りを一枚被せて守るようにおぶり直すと、深い森の中、一際高い杉の木に狙いを定め、一本歯の下駄でざんっ!と地を蹴った。
ふわり、と大柄な身体が宙に浮かぶ。
がっ、と太い幹に歯を入れ、更に空に向かって飛ぶ。茂った枝葉を掻い潜り、あっという間に、森の上空まで飛びあがり、杉の天辺に何事も無かったように片足で降り立った。
きょろきょろと辺りを見まわすと、獣道を何かを探しながら歩いているように見える黒髪の少年がいる。們天丸の左目は、その少年が今自分が背負っている少女ととても顔形が似ていることも映していた。
きゅ、と笑って、またぽんっと宙に飛び出す。ばさばさと堅い針葉樹の葉が落ちた。
手近な樹の根の前に羽織りを着せたままの少女をそっと寝かせてやり、自分は又宙に飛びあがる。今度は葉が密集している所をなるべく選んで、大きな音を立てるように。
その音を聞きつけた少年がこちらに向かって走ってくることを確かめ、們天丸は満足げに笑うと、その身を風に預けて何時の間にか姿を消した。




あれから、もう10年以上も経つのだなぁ、と們天丸は桜が綻び始めた龍泉寺の庭で、煙管を吹かしながら何となくぼんやりしていた。
ひょんなことから再会した少女は、もうすっかり美しい乙女に成長していた。…自分が、何も変わらないのに。
同じ時を歩めない事は、始めて会った時から分かりきっていたことだった。それでも、こうやって目の前に現実をつきつけられると、やはり少し堪える。
それでも、何も言えない。
「情けないなァ…」
「何がですか?」
「おおッ!?」
自嘲気味に笑った們天丸の後ろに何時の間にか涼浬が立っていて、彼は飛びあがった。
「なんや、涼浬はん…気配殺して後ろに立つの止めてくれん?」
「別に、そのように意識してはいませんでした。貴方が気づかなかっただけでは?」
冷たい美貌の下から吐き出される冷たい声音に、かくんと們天丸は頭を落とした。
「アンタなぁ、折角そない別嬪なんやから、もうちょい愛想ようした方がええんとちゃう? もっと笑ときや」
からかい半分に、指の背で相手の頬を軽く撫でて笑う。その仕草と言葉に、涼浬ははっと息を呑む。
フラッシュバックした。幼い頃の自分、深い森の中、助けてくれたのは―――――
「…何故、貴方がその事を…?」
「はん?」
「幼い頃一度だけ…誰かに。そう、誰かに、同じ事を言われました。こうやって…頬を撫でられて…」
「!」
顔には出さなかったが、們天丸もかなり驚いた。10年というのが人間にとってとても長いモノであることは知っている。
覚えていると、思わなかった。
「もしや、貴方が…いえ、そんなはずは…あの時既にあの人は、今の貴方と同じくらい―――――」
何かに気づいた時、涼浬の瞳が、眼帯に隠されたままの們天丸の左目を貫くほどに見詰めた。
「……們天丸様」
「もんちゃんでええって」
「茶化さずに。……あのッ…もし、宜しければ。………その眼帯を―――――」
「堪忍な………」
「えっ?」
小さく、何事かを呟かれて。
聞き返そうとした瞬間、
轟!! と風が巻いた。
桜の花弁が、ぶわっと宙を舞う。
その怖いほどの美しさに、目を奪われた涼浬が気づいた時には、もう辺りには人影は見えなかった。
『堪忍、堪忍ッ。これから吉原でちょいと約束あるんで、もう行くわ。ほななッ』
「們天丸様…!」
風の中から響いてきたいつもと同じ声音の声に、涼浬は呆れたように溜息を吐く。どうしてもっと真面目に出来ないのかと、僅かな憤りも込めて。
だから、問いをはぐらかされたことにも気づかなかった。





涼浬が庭から姿を消した後、桜の木の上で們天丸は詰めていた息をやっと吐いた。
話したくなかった。逃げだと分かっていても。
拒絶されることが、怖かった。
どうせ結ばれぬことが分かっているのなら。
「堪忍な…」
いつになく苦味の入った詫びは、桜の香のする風に溶けていって。
それに合わせる様に、彼の姿も見えなくなった。