時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

「追いかけて。」

「…不公平だわ」
まだ薄闇に包まれている部屋の中、ベッドの上でシーツを体に絡ませたままぽつりと杏子は呟いた。彼女のトレードマークである眼鏡は外されてベッドサイドに置いてある。そのせいだけでは無いだろうが、いつもエネルギー溢れる彼女らしくないどこか消沈した声音でそんなことを言われたので、龍麻も寝転がっていた身を起こし、首を傾げるだけで問うた。もともと口数少ない性質であるし、そんなことは杏子自身がこの一年足らず見ていて知っていることでもあるが、それでも向こうにだけ余裕があるようで少しだけ悔しい。
くるくると素早く自分の裸体にシーツを巻いて、ぼすんと杏子は上半身を起こした相手の胸に飛び込んだ。僅かに驚いた気配がするが、その身は少しも揺らがない。一見細く見えてその実しっかりと筋肉のついている胸にどきりとする。こういうところも悔しい。この男と知り合ってからというもの、連日負けっぱなしだ。
「…杏子。どうした?」
そっと、頭を撫でて髪を梳かれる。同年代の友人が苗字か渾名で呼ぶ中で、名前をしっかりと呼んでくれるのは彼だけだ。その心地よさにうっとりと目を閉じそうになる自分を叱咤して、無理やり頬を膨らませて不満げな顔をつくり、腕の中から相手を見上げた。するといつも前髪の簾によって見ることの無い不思議な色の瞳が見えて、失敗したとまた俯く。
「だって、あたしこの一年ずーっとずーっと、追いかけてるだけだったのよ。これ以上あたしを走らすつもり?」
僅かな動揺の気配が触れ合う肌から伝わってきて、ほんの少しだけ杏子は溜飲を下げた。
彼がかの学校に転校してきてからというもの、ジャーナリストを目指す自分にとって垂涎モノの事件に事欠かなくなってしまった。それは自分にとって喜ぶべきことだったし、今でもそう思っているけれど―――それでも、置いていかれる感覚は常に彼女に付きまとっていた。
彼女には、同じ学年の友人達のように特別な「力」など持たない。異形のものと戦い血を流すことなど出来ない。迂闊に首を突っ込めば命に関わることも解っているし、その辺の引き際は心得ているつもりだ。それぐらい出来なければとても自分の夢に辿り着けない。
無意識のうちに、掌を相手の皮膚に滑らせていた。男にしては滑らかな肌の上に、大小取り合わせて沢山の古傷が残っている。一番大きいのは、胸の上袈裟懸けに斬られた一筋の刀傷。彼がそれによって生死の境を彷徨った事も―――全て終わってから彼女は聞いた。
それが、出来る限り自分を危険な目に合わせたくない彼の優しさなのだということは解る。自分の情報収集が彼らに真実を探り出す力になれることも素直に嬉しいと思う。それでも――――置いていかれる、と思ってしまう。
「その上今度は中国ですって? 無理よ。追いつけない。あたしは」
そこまで言って、杏子は無理やり唇を噛んで言葉を止めた。無様なことを言いそうになったから。
寂しいから嫌だからどこにも行かないで傍にいて。そんなの子供の我侭だ。決して気持ちが離れるわけではなく、只自らの目的を果たすために彼は行くのだ。それを止める権利など、誰も持つわけが無い。
駄目だ駄目だ笑って送らなければ、そう口の中で呟いて首を振り再び相手を見上げようとした瞬間、


抱きしめられた。


「っちょ、龍麻っ…」
慌てて身を捩るが抵抗はあっさりと封じられ、怒鳴りつけようとした唇は僅かに開いただけで塞がれた。明確な意思を持って絡まってくる舌から逃れようと必死で抵抗する。
「ん、ふ、ん―――っ、ゃだっ」
キスで誤魔化されてたまるものかと、杏子は必死に抵抗する。すると更に腕が背筋を撫でて、柔らかい胸の隆起をそっと揺らす。
「ぁんっ…も、ばかぁ」
甘く鈍い痺れに、ほだされかかっている自分を嫌というほど思い知らされて悔し涙が浮かぶ。思いっきり引っかいてやろうかと無理やり戒めから逃れた腕を相手の背中に―――
「ごめん」
ぽつり、と耳元で囁かれて、動きを止められた。
「ごめん、杏子」
…龍麻は、本当に言葉を発することが少ない。だからこそなのか単に声が良いからなのか、たまに紡がれる言葉は端的なのに酷く心に響く。尚且つそれを、褥の上で、寝起きのせいで僅かに掠れた声でそう呟かれたのだ。彼に好意を持っているのならばその言葉だけで落ちても仕方ない程の威力で、杏子も顔を真っ赤に染めてしまった。
それに気づいていないのか、龍麻はますますきつく彼女を抱きしめる。その謝意に一片の曇りも無い。
彼とて愛しい女と離れたいわけがない。しかし彼にはやらなければいけない事が多すぎる。彼という存在が一つところに留まれば、再び争いの種が興る。自分の力をそうと理解している彼にとって、とるべき方法はもうこれしか残されていなかった。
「ごめんな」
待っていて欲しいなどと言えない。この奔放な彼女を自分の傍に縛り付けることなど出来ない。それは彼女に対する冒涜だと、龍麻はちゃんと理解している。
だからただ、詫びることしかできない。もどかしい気持ちの奔流を如何にかしたくて、何度も額に口付けを落とした。
その仕草に自分への執着を見て取って、じわりと胸が満たされた杏子は、僅かに滲んでいた涙を気づかれないように拭ってから、自分から口付けをした。戸惑いは一瞬で、触れ合うとすぐに深くなった。
口付けが力を分けてくれるような気がした。
――――あたしらしくないなぁ。龍麻の前で弱音吐くなんて。
――――やっぱり今日が最後だから、緊張してるのかな。
――――さぁ、もう大丈夫。そろそろ目を開けなくちゃ―――――
「…甘く見ないでよね。あたしがこのまま諦めるとでも思ってるの?」
唇が離れた時呟かれた杏子の不敵ともとれる言葉に、龍麻は気づかれぬ程度にそっと笑う。
「今は天野さんのところで修行して、一人前のジャーナリストになったら…また追いかけさせてもらうわ。あなたみたいな逸材、最高のネタなんだものっ」
自分がもっとも誇る、彼がもっとも望む言葉を告げてどちらからともなくしっかりと抱き合った。
「絶対、諦めてなんてあげないんだから」
「…ありがとう、杏子」
抱き合ったまま、二人は笑っていた。時は流れ巣立ちの日が来ても、自分達は変わらないと理解しあえたから。
そのままじゃれあうようにベッドに倒れこむ。僅かに開いたカーテンからは、もう朝の光が漏れ始めていた。




――――今日は、卒業式。
全ての終わりと全てのはじまりがやってくる――――――――――――