時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

玄武の泡沫

例えこの身が異形へと変じても、
貴方だけは―――



その日は、朝から天気が悪かった。
空が一面黒雲に覆われ、それが端からぐずぐずと崩れて行くようにどしゃ降りの雨が降り続いた。
色とりどりの傘が乱舞する間を縫って、悠々と歩く白い長身が一つ。
雨に濡れ続けている事が、却ってその姿に艶を増しているように見える。
端の欠けた学帽を筋張った指で軽く抓み、空を見上げる。
彼は普段から、傘を持ち歩く事を好まなかった。雨に降られる時は降られる、それぐらいの気概でいつもは歩いている。実際、それで本当に降られる事になるのは意外に少ない。これは彼の強運がものをいっているのだろう。
そんな彼が、珍しく雨に打たれていた。身体全体は最早濡れそぼっているが、気になっていないのか、目的地への歩みを途切れさせることはない。
「ったく…どうなってやがんだ?」
空を眇めて呟いた声には、僅かな苛立ちが混ざっていた。
季節外れの大雨を咎めているのは確かだが、その理由は単なる八つ当たりではない。彼の術士としての知識と自らの鋭い勘が、この事象に対するどうしようもない違和感を、不快と感じ取っていた。
「冷てェな」
降り落ちてくる雨粒の中に、重い陰気が混じっているのだ。確かに水気は陰陽で言えば陰を司る気であるが、この重さは異常だ。
それにここは北区。水を守護する聖獣がこの地を護っているわけで。だからこそ、長く降り続けば人に影響を与えるほどの陰雨が降り続くわけがないのだ。
有り得ないことが起こっている理由は、只一つ。
その予感にくっと眉間に皺を寄せ、村雨は足取りを早めた。






骨董品店についても、雨は降り止まなかった。
玄関に近づくだけで、重い陰気がとぐろを巻いてこの家全体を覆っていることが解った。
―――何かあったのだ、玄武に。
バンバンバンバンバン!!
無遠慮に引き戸を力いっぱい叩く。僅かな沈黙の後、扉の中で気配が動いたが、店の中自体が薄暗く影は見えない。
「……煩い。そんな思い切り叩かなくても、聞こえる」
向こうの相手も、顔を見なくても誰がいるかは解ったらしい。この水気を含んだ大気を切り裂くような、苛烈な火気が村雨の身体から発せられているから。
それ以前にこんな乱暴な呼び出し方をするのが彼以外いないというのも理由になるだろうが。
「何だ、生きてたか?」
村雨も、今まで心配していたことをおくびにも出さず、いつも通りのからかい混じりの声で答える。尤も、その表情はいつになく不機嫌そうだったのだが。
「お生憎だが、無事だよ。雨の中悪いが、今人を上げられる状態じゃない」
暗に今すぐ帰れ、と言われた事が解り、村雨は雨に濡れた帽子を取って頭をがしがしと掻くと、玄関先の気配が下がったのを確かめてから、間髪入れず思い切り戸を引き開けた。
がつっ、がらがらがらっ!!
古い錠前は手加減無しの力で案外あっさり壊れ外れてしまった。それと同時に、玄関を取り巻いていた水気の渦のような結界も壊した。
店内は、まるで露が下りたかのようにじっとりと湿っていた。骨董品の保存管理には人一倍煩い若旦那がこんな水の暴挙を許すはずが無い。――いつもならば。
靴を放り出して家に上がる。目的の人間はすぐに見つかった。土間から上がってすぐの茶の間に倒れ込んでいたからだ。
「翡翠」
抑えた声で名前を呼び、そっと抱き上げる。ぴちゃん、とどこかで水音がした。
「……何で、ここに、いる?」
ゆるゆると瞼を引き上げて、如月が問う。その顔には、玄武の力を解放した際浮かびあがる文様が刻まれていて。
「勝手にあがらせて貰ったぜ。…ったく」
更に、手首の皮膚が硬質な碧玉の光沢を持った鱗に変化していた。恐らく背中にも、全体に広がっているだろう。
それはまさに、彼が戦いにおいて玄武の力を解放する際、その身体に刻まれる証だった。しかし勿論、自らが望む戦いにおいてしか、彼がその力を振るうことはないはずで。
「あぁ…さっき来たのはお前だったな…隠すだけ、無駄だったか…」
「そういう事だ。で、この状況はどういうこった? テメェらしくもねェ」
頭に靄がかかっているようだ、と如月は思った。意識がとろりと溶けかかって、身体の中から流れ落ちてしまうような気がして、上手く喋る事すら出来ない。勿論、そうなる理由も分かっていた。
「―――この時期は、北方水気が高まる――それぐらいは解るだろう」
「あぁ。だが、コイツは異常だ」
「朱雀が…まだ目覚めて間も無いから…抑えることが出来ない…僕一人では…」
がくん、と村雨の腕の中で身体が震える。まるで見えない何かが身体の中に無理矢理犯して行くようで、助けを求めるように目の前の相手にしがみつく。
東京の四方を守護する四体の聖獣。その宿星を持って生まれてきた者は、必然的にこの地の気のバランスを取る為の役目を成す。しかし、今現在、白虎と朱雀はまだ覚醒したばかり、比較的慣れている青龍ですらこの地に戻って来てまだ日が浅すぎる。未熟な気が押さえ切れぬ地の歪みを、彼一人が背負う羽目になってしまった故、耐え切れずにこの様な状態になってしまったのだろう。
謎が解けて、村雨は改めて目の前の細身を胡座を掻いた自分の膝に抱き上げると、溜息を吐いて耳元で囁いた。
「…馬鹿が。何ですぐ呼ばなかった?」
「……これは…お前に、は、関係ない…ことだ…から」
「テメェに関わってる時点で関係あるんだよ俺には」
くたりとしている身体を抱き寄せ、軽く口付ける。薄い唇は驚くほど冷え切っていた。伝わる熱に、僅かに安堵したように如月が眉間を緩める。本当は最早意地を張る余裕すら無くなっていた証拠だ。
「…切り離すぞ」
「! …待てっ……」
つ、と村雨の指が如月の喉仏に当てられる。僅かに如月の静止は間に合わず、ぱちん! と水泡が弾けるような音がして、如月の意識がはっきりとした。
「っ! …何を考えてる! 今僕が押し止めなければ、雨はもっと酷くなってしまう…」
がばっと相手の膝の上で身を起こし、胸倉を掴む。
今まで如月の意識がまどろみ続けていたのは、強くなりすぎた陰の水気を抑える為に自分の身体にそれを取り込んでいたからだ。それゆえ力が強くなりすぎ、身体が改変されていくのをどうにか意志の力だけで抑えていた。村雨は自分の火気で一時的に繋がっていた地脈を切り離し、如月の意識を取り戻させた。
「その前にテメェがくたばったらそれこそ洒落にならねェだろうが」
「自分の限界ぐらい分かっている。いらない世話だ」
再び印を組み、北部全ての水気を集めようと目を閉じて―――
「!! むん…」
間髪入れず、口付けられた。今度は、もっと深く。
ちりちりとした熱さが自分の唇と舌を焦がすように思えて、僅かに身が竦む。その仕種すら愛しいというように、村雨はゆっくり唇を味わった。
「テメェの言う『限界を知る』ってぇのは…」
「ん…ン、く…ふぅ」
「限界まで我慢してぶっ倒れるってことだろうが。それじゃ意味ねぇんだよ、阿呆」
「よ…余計な、世話だとっ…ッァ!!」
唇を離されて、反論しようとした瞬間熱い舌で顎を舐め上げられて、ひくっと喉が仰け反った。それを逃されるはずもなく、喉仏に軽く歯を立てられる。
「は…ぁ」
熱い。
完全に冷え切っていた身体の部位が、彼の指と舌に触れられた所だけ酷く熱い。じわじわとした熱さが痒みを伴って、身体を蝕んでいく。
しかしそれは自分に命を与えてくれるのと同じ事で。死人のように冷えきった身体が、そのことを歓喜して更に快感を促す。
それでも、だからこそこの喜びに流されるわけにはいかなかった。使命と言う名の鎖で自分を縛るためには。
「ァ…もう、止せっ。大丈夫だからッア!!」
声が跳ね上がった。手首の、異形に変じていた部位に口付けを落されて、快楽とは別の驚愕が如月を襲った。
「止めろ、そこはっ!!」
「何だ、感じるのか?」
「ちがっ…兎に角止せ…!!」
滑るような艶のある手首の光沢に、何の躊躇いも無く村雨は舌を這わせる。少し噛んで、まるで氷を砕いて溶かすかのように。
抵抗を続ける身体を畳の上に四つ這いにさせると、素早く着物の襟ぐりに手をかけて背中から着衣を剥ぎ取る。
「止め……!!」
静止はやはり聞き届けられず、如月は畳の上でぎゅっと目を瞑った。
白くなめらかなはずの背中には、甲羅を彷彿とさせる彼を守るべき鎧があった。
「あまり…見るなっ……見て、面白いものでもないだろう…」
この異形は、誇り高き血を持つ証。恥じることはない、恥じるわけがない。それでも、堂々と晒すには、やはりどこか躊躇いがあって。
―――見られたくなかった。
目の前の彼にだけは。
「…見事なモンだな」
そんな如月の心境を如何思っているのか、村雨はその背中に、愛しげに唇を落す。びくん! と如月の肩が震えた。
「や…祇孔っ!?」
「隠すなよ。もっと見せろ」
「い…やだっ、止めろ…!」
「悪いな」
悪びれずそう言って、背中を熱で蹂躪する事を止めない。制止の声はいつしか嬌声に変わって、如月の意識が炎で溶かされてゆく。
愛しい相手を追いつめながら、村雨はどこかうっとりとした気分で背中を嬲る。
僅かに熱を持っていく異形の鱗。それすらも愛しく感じるのは何故だろうか。
初めて見たのは、共に戦った最初の日。
印を組み、自らの力を解放させた玄武。端から見れば、人が異形に変わるというおぞましきものに過ぎなかったはずだろうに。
目を奪われた。
あまりにも、美しいと思ってしまったから。
この、彼の名前を表わすような美しい翡翠色の外殻に、触れてみたいと思ったから。
その望みが、漸く叶った。
「ったく…どうかしちまってるな」
彼を構築する要素全てが愛しいと思うのは、狂気に他ならないのだろうか?
「…? あっ!? や、ア、あああっ!!」
ぐっと背中を押さえ付けられ、腰が上がった所を間髪入れず中心部を掴まれる。唐突な快感と痛みに、今まで抑えていた声が飛んだ。
「中心に集めろ。大丈夫だ、全部吐き出しちまえ」
「あ…駄目、だっ、んん! 僕がっ」
「これ以上は保たねぇだろうが。そら」
「っひ、あ、あぅあああっ!!」
性急な指の動きが、静止する間もなく絶頂に導いた。それと同時に、体中の濁った澱のような水気が思い切り吐き出された。
「は…う…」
がくん、とくずおれそうになる身体を村雨の腕が支えた。
「…少しは楽になったか?」
「は…馬鹿がっ…僕が抑えなければ水気が暴走する…」
「だから、ちったぁ休めっつってんだろ。それぐらいで潰れるようなヤワな街じゃねぇよ、ここは」
力が入らないながらも悪態を続ける如月の体を抱き寄せ、胡座を掻いた自分の膝に座らせる。
「…行くぜ?」
「あっ…」
くっ、と足を開かされ、次に来る衝撃を思いぎゅっと目を瞑る。
「っ…っア―――!!」
全身の粘膜が熱い舌で舐められたような感触に、ぞくぞくと肌が粟立つ。身体の奥を燃え立たせるような、熱さと痛み。意識が飛びそうになる。何も考えられなくなる。
感じられるのは、目の前の男の息遣いだけで。
「あぅ…アっ…ひぃ……っく」
「我慢すんなよ…ッ」
「あン! あ! やぅっ! あああっ!!」
下から揺すり上げられる。身体が全部塗り替えられる。
「アッ…あ、もぉっ……!!!」
何時の間にか意識を失って。ただ、ずっと温もりが自分を包んでいた事は、覚えている。






僅かな光が、自分の頬に当たっていることに気付いた。
その暖かさと優しさが、再びまどろみに自分を引き擦り込もうとして、
ばっ!!
と目が覚めた。
日が。出ていた。
雨はもう止んでいた。
縁側は濡れていたが、それが日の光を照り返してきらきらと輝いて見えた。
「…よぉ、起きたか?」
自分も眠っていたらしい、僅かに掠れた声が耳朶を擽った。壁に寄りかかった村雨に抱き込まれたまま眠っていたらしい。
「…お前…どうしてっ」
怒鳴りつけようとした唇の前に指を一本立てられて。
もう片方の腕の指先が何かの文字を描くように動き、ふっ…と空気が揺らいだ。
「お前が…結界を張ってたのか」
「あァ。助かったぜ、もう秋の長雨も終るところだったからな」
玄武の力が戻った事と、季節が巡る流れに因って、陰雨は降り止んだ。
「まぁ、お前があれだけ抑えとかなけりゃ、無理だった。ありがとな」
そう言って、鼻の頭に軽く唇を落す。くすぐったげにそれを受けて、如月はばつの悪そうな表情になった。
「すまない…迷惑をかけた」
「気にすんな。こっちも役得だったしな」
「? ………貴様」
首を傾げ、思い至った答えに顔を赤らめて、軽く拳骨を振るう。
「悪くねぇな、ああいうのも。今度は自力でやってみせてくれよ」
「ふざけるな!!」
本気で殴ってやろうとすると、その拳を掴まれてそこにキスされた。それがまた腹が立って、しばらく腕の中で暴れたが、結局押え込まれてまた口付けられた。
体中の熱が、戻ってきた。
雨に洗われた空は、抜けるように青かった。