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のんべんだらりんごった煮サイト

爪痕

かりっ、と、肌と指先が触れ合った所で音がした。
「つっ…」
何気ない動作の時に掠めた村雨の爪が、如月の手の甲に浅い傷を残した。
「っと、悪ぃ」
「割れてるんじゃないか? 見せてみろ」
大した事はない、と言いたげに軽くその手を振り、そのまま相手の筋張った手を自分の方に引き寄せた。
果たして、四角い爪の先が白く割れている。
「ちゃんと切らないからだぞ」
「面倒臭ぇんだよ」
悪戯を見咎められたかのように、村雨は軽く肩を竦めた。不機嫌そうにその仕種を見遣り、如月は一つ溜息を吐く。
「切ってやる、ちょっと待ってろ」
「そりゃどうも」
役得と思ったのか、立ち上がった如月を目で追いながら礼を言う。しかし、彼が手にして戻ってきたモノを見て、訝しげに彼を静止した。
「オイ、ちょっと待て」
「何だ?」
「その小刀でやんのか?」
そう。如月が手にしているのはスタンダードな形の爪切りではなく。
手の中に収まるぐらいの小さな刃物である。確かに、これも爪を切るものだ。―――あまりにもレトロだが。
「この家には爪切りもねェのか」
「失礼な奴だな。ちゃんと切れるぞ」
「物持ち良すぎなんだよ、この渋チンが」
「関係ないだろう。それと倹約家と言ってくれ。………ほら」
業を煮やしたように手を差し伸べられて、渋々と言った風にその上に自分の手を乗せた。満足げに、如月は小さな刃を爪の上に滑らす。
鉛筆を削ったりするのと同じ要領で、丁寧に爪を削っていく。その手際の良さに、感嘆の溜息を漏らした。
「へェ…上手いモンだな」
「子供の頃から使っていたからな」
あっという間に右手の爪を切り終わる。
「ほい」
「ん」
短く言葉を交わして、今度は左手。粗方切り終わったあと、細い鑢を取り出してかけはじめた。
「そこまでやんのか?」
「折角だろう」
シュ、シュッと小気味いい音だけが部屋に流れる。
程無くして、両手とも形を整えられた爪が出来上る。
「よし」
「ありがとさん」
自分の仕事を満足げに手に取って見る如月に、苦笑混じりの礼を返す。ふと、自分の手を握っているモノの指先に目を遣る。
「お前も少し伸びてんじゃねェか?」
「うん? そうか、最近切っていなかったからな…」
後ろの言葉は独り言のように呟き、働き者の刃を自分の爪先に当てようとして、
がし。
その手首を掴まれた。
「…何だ?」
何となく嫌な予感がして、犯人を見遣る。そこには、にやりとしか形容できない笑みを浮かべた村雨が居て。
「俺がやってやろうか?」
「結構だ」
「遠慮すんなって」
「お前、これを使ったことがあるのか!」
「なに、何とかなるだろ」
「なるか!!」
腕を引こうとしたら手の平ごと相手の手の中に包まれた。それでも未練がましく暫く抵抗する。
どうでもいいが、刃物を持ったままじゃれ合わないように。





数分後。
「いいか、切りすぎるなよ…」
村雨の胡座を掻いた膝の上に抱き込まれる格好になり、漸く如月は譲歩した。
「任せとけって」
心底楽しそうに、如月の細い指先に刃を当てる。
ちっ、ちっ、と、その無骨な手には不似合いな程丁寧に、少しずつ爪を削っていくその仕種に、如月は少しだけ緊張を解いた。
「……………っ」
『いつに無く慎重じゃないか』と声をかけようとして自分の肩口にある相手の顔の方を向き…茶化そうとした言葉を飲み込んだ。僅かに目を眇め、自分の指先だけを見ている真剣な表情に目を奪われたからだ。
仄かに紅潮してしまった自分の顔に腹が立ちつつ、それを気取られないように不自然にならない速さで指先に視線を戻した。
黙って、作業が終わるのを待つことにした。しかし何となく居心地が悪くて、右手から始まった作業が左手の中指まで終わった時、無意識のうちに緊張していた指先を動かしてしまった。
ぷつっ…
薄い刃が、薬指の端に刺さる。
「つっ…」
「! 悪ィ」
「いや、今のは僕が」
悪い、と言いかけた瞬間、僅かに血の滲んだ指先を口に含まれた。ざらっとした舌の感触が傷口に触れ、軽く吸い上げられた。
ぞくん、という感触が背筋を走りぬける。
「大丈夫か?」
「…あぁ」
幸い、すぐ唇は離された。傷口を確認して、血は止まったな、と笑う村雨を直視出来なくて、目を逸らした。
「何だ? 感じたか?」
「…寝言は寝て言え」
「悪かったって」
からかい混じりの問いかけに拳を握ると、宥めるようにもう一度指先に軽く口付けられた。
「…さっさと終わらせろっ」
「へいへい」
顔を紅くしたまま、もう一度不届きな男の体に凭れかかった。