時計+人形

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菖蒲

数年ぶりにその姿が敷居をまたいだ時言った言葉は、
「久しぶり」でもなければ「お帰り」でもなく、
「やっと来たか、馬鹿」
だった。





ぱちりぱちりと、手際よく余分な葉と茎を落としていく。浅い鉢の真中に鎮座した剣山に無造作に差し入れられるそれは、しかし明確な美しい姿をその場に晒す。
この無骨な髭面男の手で良くもまあここまで出来るものだ、と如月は素直だが容赦の無い感想を頭に思い浮かべた。
目の前で只管紫の菖蒲をあしらっている男は、何気ない振りをして見詰めていた如月の視線に気付いたらしく、花に向けていた視線の向きを変えた。
「どうした?」
「いや、別に」
「…ふん? まァいい、それ取ってくれ」
「これか?」
「あァ」
顎をしゃくるだけで請われた物の当たりをつけ、今までのものより僅かに深い瑠璃色の鉢を村雨の目の前に差し出す。村雨はそれを受け取ると、今度は白と黄色の菖蒲を選んで軽く生け始めた。
生け花は村雨の意外な特技の一つであるが、今回ここまで菖蒲尽くしになっているのには訳がある。
先日、外国から帰ってきた村雨が、その旨を如月に伝える為にありったけの菖蒲を送った。菖蒲の花言葉は「良い便り・信じるものの幸福」。村雨らしい粋な計らいだったのだが、生憎如月はその手のことに疎いので気付いてはいないようだった。
しかし、部屋を埋め尽くす程の花にこそりと喜びつつも、扱いに困ったのも事実で。それを追うように店にやってきた元凶にその処理を全て任せたのである。
「ここまであると流石にくどいか」
「送ってきたのはお前だろうが」
きろりと睨みつける如月の視線を軽くかわし、村雨は再び華に没頭し始めた。普段の相手をからかう軽さを全て削ぎ落とした、真剣な視線。暫くの間の後、その姿に見惚れていることに気付いた如月は、出来るだけさりげなく二人分の湯飲みを持って席を立った。
台所でお湯を沸かしながら、今更火照ってきた頬に腹が立って軽く抓る。
(……浮かれているな)
どんなに否定しても、心が浮き立っているのが解る。離れてから、五年の月日が流れていた。それなりに連絡を取り合い、どうということもないと本気で思っていたけれど、その合間合間に不意に寂寥感が押し寄せて来たことも事実で。
そして今彼がここにいて。
それが当然であることを、何の躊躇いも無く理解した。
自分の周りに親しい人などいらないと本気で思っていた五年前の自分が、馬鹿らしくなって如月はほんの少し笑った。
だから―――するりと後ろから伸びてきた両腕に反応するのが一瞬遅れた。
「っ!?」
如月が息を呑んでいる間に、その腕は器用にコンロの火を止めつつ、しっかりと如月を抱き込んで動かなくなった。ここまで自分は奴の気配に鈍くなったかと情けなくなりつつ、如月は振りほどこうと身を捩り―――
「―――ただいま」
耳元で小さく囁かれた言葉に、動けなくなった。
如月が呆然としている内に、村雨はふ、と小さく息を吐き、相手の肩に顔を埋めた。ようやく願いが叶ったとばかりに、如月からは見えないけれども弛緩した顔で。
「…お前、もしかして」
気配で何となく察した如月は、戸惑いながらも問う。
「………ずっと、言うタイミングを狙ってたのか?」
「…言わせてもくれなかったろうがよ。ったく…」
心底呆れた、という声音の奥底に隠れている、僅かな照れの波長まで読み込んで。如月は自分の意思と裏腹に緩み続ける口元を押さえるのに必死だった。
自分では、本当に意識していなかった。そこまで彼の存在は自分の中で当たり前になっていて、戻ってきて当然とすら思えていたから。
出会った時から、少しは我侭も言え我慢するなと自分を叱咤してきた彼に、ほんの少し意趣返しが出来てしまった、らしい。
そんな自分の変化が、素直に嬉しいと思った。
だから。
「―――…、お帰り」
無理矢理腕の中で身体を反転させて、相手の首に両手を回してしがみついた。驚きは一瞬で、しっかりと自分の背中を抱きしめるきつい腕が心地良い。
「―――菖蒲は如何した?」
「全部片したぜ」
「それはご苦労」
こんなに抱き締める事を待ち望んでいたのに、ちゃんと自分の願いを聞き届けてくれる彼の存在が、只管に愛しかった。
「ったく、ちっと見ねェうちに強かになりやがって」
「何か問題でも?」
「いいや? 却ってそそる」
くすくすと、喉の奥の笑いが二重奏になる。視線が絡まって、自然に唇が触れ合い深くなる。
「…逢いたかったぜ」
「…僕も、だよ」
会話の合間に口付けるというよりは、口付けの合間に会話を交わす。一度触れ合っただけで、自分がどれだけ目の前の存在に飢えていたかどうかが解り、止まらなくなった。
「ああ、クソ。収まりそうにねェな」
やはり冗談混じりで唇に触れてきた親指を軽く舌の先で突き、如月も戯れのように笑った。
「収める必要は無いと思うが?」
「…珍しく大盤振る舞いだな、渋ちんが」
「言ってろ…」
軽口を叩きあい、お互い笑顔のまま口付けた。
暫くは離す必要も、話す必要もなさそうだったから。