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のんべんだらりんごった煮サイト

魂と魄に楔を穿つ

 五年前の樒は、酷く大人びていた。自分がどんな理由で篠目の家に連れてこられたか、既に知っていたせいもあるかもしれない。
 榊の方はそんな周りの反応に腹が立って、親や村人達に噛みついていたけれど、その理由に気付かなかった己が心底間抜けなだけなのだろう。ただ、少なくともあの日まで、彼女は榊に殆ど影を見せなかった、筈だ。
 細くて色が白くて、昔は凄く頭の回転が速かったのに、ぼんやりと神社を眺めたり、草花を見るのが好きな子供だった。それでも、榊が名を呼べば、嬉しそうに自分の傍に来てくれることが、ただ誇らしかったと、思う。
 十八になったら村を出ると決めた自分に、「いいなぁ」と羨まし気で。お前も来ればいいだろう、と当たり前のように、汗を掻いた手を握り締めて告げた。
 彼女は凄く驚いて、大きな目を瞬かせて――
「嬉しい。ありがと、榊」
 本当に嬉しそうに、抱き着いてきたけれど。一緒に行く、とは絶対に言わなかった。 
 覚悟を決めていたのだろうか。諦めていたのだろうか。どちらにしろ、どうしようもない。
 その日の祭りは五十年に一度の神事がある、とは年の初めから伝えられていた。その神事の巫女として、樒が選ばれたということも。
 普段彼女のことを腫れものに触るようにしていた連中が、傅かんばかりに準備をしていることに、愚かにも自分は少し優越を持っていた気もする。
「ねぇ、榊」
 籠に乗った後は口を聞いてはいけないと言われていたのに、こっそり近づいた自分に彼女はそう囁きかけた。
「元気でね」
 随分と静かな顔で微笑まれて。三ヶ月だけ年下の癖に生意気だと、いつものように怒ることが出来なかった。その後すぐ両親が戻ってきたので慌てて籠から離れ――嫌な予感が無くならなくて、そっと彼らの後を付けた。
 境内の裏山に空いた、人ひとりがやっと通れるぐらいの小さな穴。普段は締め縄で封じられ、むくろじ様の神域だから、近づかないようにといつも言い含められていた。
 籠から降りた樒は、振り向くことなくその穴に一人で入っていき――暗がりの中に白絹を纏った姿が消えたことを確認し、残っていた村人達は皆安堵の笑みを浮かべていた。
「これで、無患子様もお心を沈められるだろうて」
「良く成し遂げてくれたものだ」
「有難きお言葉です、篠目も漸く、お役目を果たせました」
 両親が口々に労われ、共に去っていくのを見届けて。榊は躊躇わず、洞窟の中に入った。
 夏なのにその洞の中は酷く涼しく、そのくせじっとりと湿っていた。明かりは全く無い筈なのに、闇に包まれると何故か中が良く見えた。まるで洞窟というより、何か生き物の中のように感じ、そう思った自分に戦慄した。ただ、こんなところに樒がひとりで泣いていないかと、それだけが気がかりで、自然に足は進んだ。
 やがて――漸く見つけた、彼女は、ひとり。大きく広がった、恐らく終点であろう場所に佇んでいた。途方に暮れた迷子のように――これから行く場所が見つからないかのように。
「――樒ッ!!」
 大声で名前を呼ぶと、弾かれたように振り向いた。
「……榊!? 何で、ここに!?」
「こんなとこで、何やってやがる。帰るぞ!」
「何言ってんの、おじさんたちに叱られるよ。早く帰って! もう来るから!」
「来るって、何が――」
 みしり、と何かが軋む音がした。地面か、天井か、それとも空気か。自分達の周りしか見えない暗闇の中、何かが蠢いている。それはまるで巨大な蚯蚓のように、ぬるりとした体表の白くて細長いものが、二本、三本、いや十本、もっともっと――
「――ッ!!」
 そこまで見て、拙いと感じたからこそ、躊躇わず榊は樒の腕を掴んで走り出した。
「榊!」
「喋んな、走れ!!」
「だめ――駄目だよ、私ここに、残らなくちゃ」
「何言ってやがる!」
 意味が解らなかった。ただ、あの暗闇から湧き出ていたアレがとてつもなく恐ろしいことだけが解った。あんなものに捕まったら、どうなるのか解らない。だから、守らなくては。彼女が自分の家に来てから、ずっとずっとそうやってきたのだから。
「ねぇ、本当に駄目だよ、だって私、」
 後ろの声にはもう応えない。減らず口なんて後から聞いてやる、今はとにかく逃げなくては。
「ごめん――ごめん、榊」
 掌中の彼女の手が、少し力を緩めた気がしたのが恐ろしくて、強く強く握り締めると。
「せめて半分、持って行って」
 その声を最後に、榊の足は洞窟の外に出た。今までまとわりついていた冷気が嘘のように、むっとした熱い夜の空気に安堵すると、ずっと掴んでいた腕が、するんと抜けていくように解かれて、驚く。
 その場にしゃがみ込んだ樒は、姿形は何も変わっていなかったのに、どこか幼く、途方に暮れた顔で。
「どうしよう、さきちゃん」
 いくら言っても治らなかった、昔の呼び方で榊を呼んだ。
「しぃの半分、むくろじ様に取られちゃった」
 そして彼女はこの日から、生きているのに幽霊になってしまった。

 
 ×××

 
 ――今年も、祭りの日はやってきた。珍しく村の外からの客が来る、表向きの祭りは神社の境内で行われる。
 この日は樒に、絶対に山査子の家から出るなと言い含めていた。自分より彼女に数段甘い山査子ならば、上手い事足止めをしてくれるだろう。
 出店が並ぶ境内ではなく、古い社務所の裏側の山。普段おざなりに見張りをしている男達も、座り込んで酒を嗜んでいる。五十年に一度の神事が無ければ皆、こんなものだ。贄になったものがどのような目にあっているのかなど、誰も知ろうとしない。
 榊は怒りで歯を噛みしめながら、ポケットから出した符を翳す。燐の火がぼうっと燃えて、符はすぐに燃え尽きた。念のため身を低くして出来る限り近づくも、こちらの気配に全く気付く様子はない。寧ろ堂々と見張り達の間を潜り抜けることが出来た。
 洞の中は暗い。あの日と同じ、明かりが無いのに何故か中の様子は良く見えた。下り坂が続いていく、細い道を降りていく。一歩足が進むごとに、夏の夜が嘘のようにどんどん体が冷えていった。その癖、じっとりとした湿気のような空気は体にまとわりついて、酷く不快だ。
 昔は気づかなかったけれど、山査子に叩き込まれた知識で今なら解る。此処は既に、生者のいる世界と違う。人の生死すら曖昧になる地なのだと、理屈ではなく魂で理解が出来た。
『――きて――』
 間違いなく奥の方から声が聞こえて、ひゅっと喉が詰まる。まさか、という逡巡は一瞬で、発条のように跳ねて駆け出した。いるわけがないと思っても、彼女の声を聞き間違える筈もないし、聞こえる声が二つになってしまったから。

 
 ××× 
 
 
「ねぇ、ねぇ起きて」
 洞窟の一番奥に、樒は既に辿り着いていた。榊よりも先に間に合った理由は、山査子に自ら訴えたからだ。榊が今年の祭りの日に、何をするかも知っていたからだ。
 山査子は特に止めることなく、榊に渡したものよりも上質な姿隠しの符をくれた。山査子の優しさと恐ろしさも、樒は良く知っている。力を貸してくれるのは、樒の事が好きだというよりも、ここにいるものが嫌いだからという理由の方が強いだろうから、ということも解っている。
 最も、もし誰かに姿を見咎められても、止められなかったかもしれない。五年前、戻ってきてしまった子供が、今度こそちゃんと役目を果たすのだから。
「起きて、ねぇ起きて。――しぃ」
 そうして樒は、洞の真ん中にしゃがみこんでいるものに声をかけ続けた。細い体は、無患子の腕である白い帯にぐるぐるに絡みつかれて、眠っているようだったが――やはり自分が話しかけたことが効いたらしい。ゆるゆると瞼が開き、樒の顔を見て驚愕するその姿は――紛れもなく、十二歳の頃の樒だった。
「……どうして」
 何故お前が此処にいるのだ、という顔をしていた。幼い筈なのに、その顔は酷く大人びていて、やはり自分の殆どはこっちにあるのだ、と樒は納得してしまった。
「うん。来ちゃった」
「ど、どうして――なんであんたが、私が、」
 身を捩ろうとして、彼女の華奢な体はぎしりと戒められた。悔しそうにこちらを睨みつける顔には、憎悪しかない。当然だろう。 
「榊の為に、私は此処にいるのに。榊の為に、あんたを分けたのに」
 彼女の気持ちは、痛いほど解る。頭や記憶、大事なものが随分取られてしまっても、同じ人間なのだから。
 この村にいるもののことも、篠目の家に貰われた理由も、理解していた。だから、覚悟は決めていた筈だった。諦めていた筈だった。それでも――あの日、此処まで榊が助けに来てくれたので、我慢が出来なかった。欲が出てしまったのだ。
 だから、自分を半分だけ、榊と共に行かせた。自分が無事であれば、彼は無茶をしないだろうと。村から出ても、留まっても、幸せに生きてくれる筈だ、と。それでも、たった一人で、此処で過ごすのは酷く寒くて、寂しくて、たまに微睡んで見る夢は、いつも彼のことばかりで。地の上にいる、自分の半分がこの幸福をずっと味わっているという事実を、いつも突き付けられて。
「あんただけ、榊の傍にいれるの、ずるいのに……!」 
 ぼろぼろと涙を流す幼い自分の前に、樒はしゃがみこむ。ちゃんと大事なことを、伝えないと。
「ごめんね。だから、さきちゃんより先に、ここに来たの」
「……どういう事?」
「さきちゃんが、むくろじ様に怒られちゃうから、代わりに来たの」
 そう言って、彼女の手を握る。すっかり冷えてしまったもう一人の自分に、温もりを分け与えるかのように。
「わたしはしぃだから、しぃが代われるよね?」
「何、言って、」
「わたしの代わりにしぃが此処にいるから、わたしは戻って」
 一生懸命伝えると、もう一人の樒は呆然として。唇をぎりっと噛んで、叫んだ。
「ふざけるな――ふざけるな! 私がどれだけ必死で、此処にしがみついてると思ってる! あんたなんか、あっという間に無患子様に取って食われるだけ! これ以上、榊を悲しませないで……!」
「うん。うん。でも、このままだと――」
「――樒ィッ!!!」
 その瞬間、響いた声に、もう一人の樒が弾かれたように顔を上げ。ああ、自分の役目が終わったのだ、と樒は思った。

 
 ×××
 
 
 息を切らして飛び込む足に躊躇いは無かった。広い空洞の中、白い帯のようなものに戒められている十二歳の頃の樒と、その前にしゃがみこんでいる自分が良く知る樒。その二人を見て、ああ、本当にあいつはふたつに分かれていたのだと、ようやっと納得が出来た。
 こちらを仰ぐふたりの顔は、どちらも同じく、途方に暮れた迷子のような顔をしていたから。ずっと手に持っていた木刀を握り締め、走る。
 ぞわぞわと嫌な気配が暗がりから持ち上がって来る。此処に異物が入ったからだ。お気に入りの人間以外が入り込んだのに気づき、こちらを払いのけようと動いてくる。
「さきちゃん!」
「榊!!」
 ふたりの声が聞こえるが、今は返事を返せない。緩慢に伸びてきたその細長い腕を躱す為に、必死で岩の床を転がる。そしてもうひとつ残していた符を放り投げた。
「駄目、それ効かない――」
 もう一人の樒の声は正しい。無患子に符の効果は望めない。だが、放り投げたことによって散った青い火花に、一瞬腕の動きが止まった。思った通りこいつは、嘗て自分を封じた相手を――山査子を恐れている。そして、その一瞬だけで充分だ。
 広間の真ん中に走り込み、小さな樒を戒めている帯にして毛に向かって、思い切り木刀を振る。再び青い火花が散って、何本かまとめて焼き切ることが出来た。同時に鈍い音がして木刀は真っ二つに折れ、何の音か解らない、敢えて言うなら金属が軋むような音が洞の中に響き渡った。もしかしたら、無患子の悲鳴なのかもしれない。何百年ぶりかで与えられた痛みに、戸惑っているのだろう。
 自分の研鑽は間違いで無かったことによる僅かな高揚を堪えて、漸く解放された小さな手を握り締める。その隣で、どこか諦めたように座り込んでいた樒の手も、同時に。
「帰るぞ、お前ら」
 はっきりふたりに向けて言うと、やはり同じようにぱちぱちと目を瞬かせて。
「だ――駄目だよ。私、残らなくちゃ」
「さきちゃん、代わりに、代わりにしぃが残るから」
「馬鹿野郎!!」
 叫ぶと、びくっと同時に肩を跳ねさせた。違う、怖がらせたいわけではない。彼女達と触れたことで、無患子が迂闊に攻撃できず、うろうろと腕を彷徨わせている内に伝えなければ。
「どっちもお前なんだろうが。俺はお前を、取り戻しに来たんだぞ」
 何故だかこいつらは、己をふたりに分けたことで、何とかなると思っていたらしいが。どちらかを失うなど、榊が出来る筈もないのだ。
「さきちゃん」
 樒は嬉しそうに、無邪気に顔を綻ばせたが、もう一人の樒はやはりまだ戸惑っていた。そりゃあそうだろう、五年も放っておかれた恨み言もあるに違いない。
「……文句は幾らでも聞いてやるから、戻ってきてくれ。頼む」
 そう言ってふたり分あるひとりの手を握り締めて、額づいて祈りのように告げた。何度も後悔して、何とかしたくて、この五年、必死だった。誰にも奪われたくない、ただそれだけでここまで来た。
「……ど、して」
「ん」
 ぽろ、と小さな樒が涙を零した。自分が知る限り、彼女の涙を見たことは一度も無かったので動揺している内、詰るような言葉が彼女の唇から漏れ出た。思わず、という風に。
「どうして、置いていったの」
「すまん」
 本当は、自ら此処に残る選択をしたのはもうひとりの樒だ。しかし彼女自身も苦渋の選択であったことはとうに気付いている。この少女は、何も知らない馬鹿な男が化物の犠牲になることを恐れて、自分を囮にして残したのだから、やっぱり自分のせいなのだ。
「さ、寂しかった。寒かったし、苦しかった」
「ん」
「榊の傍にいるのも、私なのに。どうして私じゃないのって、ずっと思って――もうひとりの私が消えていくのを、私、きっと、どこかで喜んでた」
「うん、うん」
 今度は樒が何度も頷く。もうひとりの樒の心の機微を誰よりも理解しているのは彼女だろう――何せ同一人物なのだから。
「全然、榊のこと守れてなかった、ほ、本当は、」
「言え。全部、言え」
 小さな手を握り締めて、はっきりと伝えると、色素の薄い瞳が瞬いて――またぼろぼろと雫を零しながら、掠れた声で彼女は言った。
「……榊と一緒に、いれるだけで、良かったのに」
「よし」
 それだけ聞けば充分だ。小さい体を片腕でぐいと抱き上げ、もう片方の手を樒と確り繋ぐ。怒りに満ち溢れた何かが、暗闇の奥から這い出てくるのもそう遅くはないだろう。
「逃げるぞ、樒!」
「うん!」
 手を繋いだ樒は元気に頷き、もうひとりの方は何も言わず、ぎゅうっと榊の首筋に抱き着いてくる。もう二度と、どちらも、離すつもりは無かった。


 ×××
 

 ただ只管に、走る。緩やかな上り坂なのだから、出口に向かっているのだと信じて。
 現世と幽世が交じり合い、全てが曖昧な坂の途中。腕の中の重みと、しっかり繋いだ手のぬくもりがあるのが何より有難かった。
「――榊、止まって!」
 腕の中の樒が不意に大声を上げ、考えるより先に足を止める。坂の途中、白い髪を背に流した、美しい美丈夫が立っていた。
「……さんざし様」
 きゅ、と樒が右腕にしがみついてきて、もう一人の樒の手にも力が籠る。やはり役目を果たせなかった負い目があるのか、それとも山査子自身を恐れているのか。何も気にすることは無いと告げる代わりに、目の前の男に向かおうとした時、山査子の方からすいと足を引き、道を譲った。
「……、」
「何だその顔は。どうにかしたのだろう、ならさっさと行け。村に戻るんじゃないぞ、面倒なことになる」
「……いいの?」
 おずおずと聞く樒の頭を笑って撫でて、山査子は坂の下へと歩を進めた。
「充分面白いものは見せて貰った。駄賃だ、足止めぐらいは引き受けてやる」
「……悪いな」
 信じられないまま、それでも思わず詫びを入れると、くは、と面白そうに山査子は嗤って肩を竦めた。
「何だ、いつになく素直じゃないか、気色悪い。……早く行け」
「山査子様! あの、私――」
 抱き上げたままの小さな樒が必死に訴えると、困ったような顔で再び振り向いた。聞き分けの無い幼子を宥めるような声は、いつになく優しい。
「そろそろ坂を抜けるのだから、大人しくひとつに戻りなさい。安心せい、どうやったってもう、坊主はお前の手を離さんよ」
「……、」
「うん。ありがと、さんざし様」
 困ったように俯く小さな樒に対し、樒はにっこり笑って榊に抱き着いてきた。正確には、榊が抱き上げたままの小さな樒に抱き着いてきた。
 その二人の姿は陽炎のように揺らぎ、歪んで――腕の中の重みがずん、と増えて、慌てて両腕で支えた。その時には、もう右手の中の掌は無い。
 代わりにしっかりと、自分よりは背が低いけれど間違いなく、同い年の少女が腕の中に納まっていた。
「……樒、」
「だいじょうぶ。ちゃんと、此処にいるよ」
 絞り出すように、彼女の名を呼ぶ。ほ、と息を吐いて、腕の中の樒が笑った。今までと顔立ちは変わらない筈なのに、どこか酷く、心細げな、それでも安堵をした顔で。
「樒なんだな」
「うん、うん。呼んでくれてありがとう。……嬉しい」
 そう言ってしがみついてくる体をもう一度抱き締めて、後は振り向かずに地上へ向かって、二人で駆け出した。

 
 ×××

 
「やれやれ全く、面倒だ」
 山査子はひとりで、穴の奥へと降りていく。ずるずると緩慢に地下から伸びてきた白い帯は、彼に触れる前に青い炎で焼かれていく。
 まだこの村が村ですらなかった頃の、遠い遠い昔の話だ。この辺りを好き勝手に食い荒らしていた妖が、別の妖に懲らしめられた。殺さなかったのではなく、殺せなかっただけ。妖はどれだけ痛めつけられても死なない――簡単に言うなら、心が折れなければ生き続けるもの。故に妖同士で命を奪い合うこともしない。不毛だからだ。
 だから、懲らしめた方は懲らしめられた方が逃げないように、体を全部燐の火で念入りに焼いて、土に埋めて、その上に石を置いた。するとそこに人間達がやってきて、石をご神体だのと拝みだし、土を耕して暮らし始めた。
 懲らしめた方の妖も、大分力を使って疲れており、人間の動きに興味など無かった。するといつしか、妖の力を恐れた人々は彼を崇めだし、封じられたあれも神として祭り上げた。どちらも人間にとっては、ただ恐ろしいものでしかなかったから。
 人間は臆病だけれど、寿命は短い。どれだけ伝えても、どれだけ残しても、忘れていく。数多の飢饉や災害に襲われた時、誰かが神に贄を捧げれば良いと言い出して、それがたまたま上手くいってしまった。簡単に言えば、久々に餌を貰えたあれが元気になって、土地を肥えさせただけ。しかし人々はそれを喜び、信じ、安堵し、崇め奉った。
 その頃にはすっかり自分も飽きていたし、何をする気も起きなかった。たかが人の数十、数百人があれの餌になっても、封印が解けるわけもなかったので、止めることもしない。
 それなのに、あの身の程知らずの坊主に、人が妖に一矢報いる方法を教えたのは。
「随分はしゃいでいるな。一度吾に負けたのに、まだ懲りないか」
 ゆっくりと歩く山査子の背に舞う白い髪が、別の形を取る。雪のように白いそれはふさふさと毛を纏った尾になり、その穂先に青い燐の火を灯した。
「あのふたりは、お前にやらん。悔しかろうな、腹が減ったろうな」
 無患子の怒りに呼応して、空気が歪む。天にぴんと尖った耳を頭に生やした山査子は、その顔もぐにゃりと歪ませ――九本の尾を蓄えた、巨大な狐と化した。
「人に傷つけられ、気に入りの贄を奪われた。悔しかろうな、無様よなぁ」
 その口から漏れる言葉は嘲りだ。存在自体が気に入らない相手を、今度こそ細切れにして、燃やし尽くしてやれば流石に絶望し、滅されるかもしれないという期待だ。妖は己の欲の赴くままにしか動かない。人の機微など、慮ることはない。
「――無理ならせめて、あのふたりの命が尽きるまでは、大人しくしていろよ」
 その癖、最後に呟いた誰にも届かない言葉には、どこか慈悲の色が含まれていたかもしれない。


 ×××
 

 がしゃん、と耳障りな音を立てる自転車が走る。念のため、神社の麓に持ってきていたものだ。ライトをつけているので尚更ペダルが重いが、足を緩めるつもりはなかった。
 少ない荷物とかき集めた金も用意していて、樒が背負って、荷台に跨った。これからどうするのかなんて何も決めていない。村から出たことのない自分が、どうやって生きていけるかも解らない。
 それでも、腰にしっかりと回った細くて白い腕が、ぎゅっと自分にしがみついてくるから、榊は何も怖くは無かった。
「さきちゃん、榊」
「んだよ」
 呼び方が混じっていることすら、今は心地よかった。樒の小さな声は、背中に唇をくっつけるようにしがみついているおかげで、ちゃんと聞こえた。
「これから、どうしよう」
「離れてから、考える」
 息はあがっていくが、ちゃんと答える。もう二度と彼女の言葉を聞き逃しはしない。
「榊。さきちゃん。……大好きだよ」
 一瞬、ペダルから足を滑らせかけたが、ぐっと堪えて更に踏み込む。応えてやりたいが、村から出る最後の坂道に差し掛かったので、一度だけ腰に回った手をぎゅっと握り締め、すぐ離す。
「下るぞ、口閉じてろ!」
「うん……っ」
「あと、俺もだ!」
 それだけ叫んで、後は必死にペダルを漕ぐのに集中した。耳障りなホイールの軋む音に混じって、本当に嬉しそうな声で樒が笑ったのも、ちゃんと聞き逃さなかった。