時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

タヌキとキツネのスイッチ

 朝起きて、稲見狸子(いなみ りこ)が一番に行うことは、眼鏡を探すことだ。
 瞼を開けても、ぼんやりと霞がかかったままの視界を堪えながら、手探りで探す。
 枕元からベッドの脇まで手を移動させると、もふりとした毛並みの手触りとにゃん、という小さな鳴き声がした。
 あ、と思う間もなく、視界がまるでテレビのスイッチを入れた時のようにぶん、と僅かに揺れ、部屋のものの輪郭がはっきりする。しかし同時に、視点が急に変わって、ベッドの上からひらりと飛び降りた。自分は布団の中からまだ動いていないにも関わらず。
「待って、ハチ丸」
 随分と床に近い白黒の視界に眩暈を起こしながら、必死に手探りで眼鏡を探す。やっとお目当てのものを掴んだのが感触で解り、今度は意識的に、「スイッチを入れ直す」。
 また、ぶん、と視界が歪んだ後、今度はいつも見る普通の風景が割りと解像度高く目に映りこんできた。ほっとした狸子の視界の中に、床を悠々と歩いて窓の桟に飛び上がる愛猫がいる。
 そう、先刻の一時的な「視界」は、この飼い猫であるハチ丸のものだった。触れた瞬間、「繋がって」しまい、慌てて眼鏡に「切り替えた」。
 狸子は生まれつき、視力が悪い。レンズの分厚い眼鏡で矯正して、どうにかこうにか見られるぐらいのものだ。子供の頃から眼鏡が手放せない。
 そんな彼女が、この奇妙な「見る方法」を手に入れたのは、まだ小さな頃だ。
 無作為に触れた「もの」の視界を一時的に借りる力。人や動物相手だと、かなり意識しておかないと触れた拍子に視界が繋がってしまう。物ならば逆に、かなり意識しないと繋げることが出来ず、このことを狸子は「スイッチを入れる」と称している。
 一見便利に見えるかもしれないが、実際はかなり不便だ。一度スイッチが入ると、元に戻るのには数分から一時間ほど、直るまでかなり時間のばらつきがある。それが面倒すぎるのもあり、狸子は眼鏡を手放せない。今のように眼鏡にスイッチを入れれば、かなり本来の視界と近い光景を見ることが出来るからだ。
「ああ、頭くらくらする……」
 視界が切り替わった際の酩酊感も酷い。視界の位置も視力も、物や動物ならば色彩も違う世界を無理やり見せられなければいけない状態は辛い。自分の面倒くさい体質に嫌気が差しつつも、狸子はにゃあにゃあと餌を強請る愛猫を宥めながら、部屋の外に出た。



×××



「いい加減これ、治す方法探したいなぁ」
「なんで? 便利じゃん、俺だったら絶対カンニングとか、相手の弱み握るのに有効活用すると思うんだけどなぁ」
「怖! あんたにこの特技無くて心底良かったわ!」
 学校への道のりをのらくら歩きながら狸子がぼやくと、隣を歩く細目の男がにやにやとした意地の悪い笑いを絶やさずに、恐ろしいことを言う。隣の家に住んでいる、所謂幼馴染の多橋狐一郎――「コウイチロウ」ではなく「コイチロウ」――だ。
 子供の頃から特異体質を、他者に晒すのを臆したせいで友達が居ない狸子と、子供の頃から一言多い偽悪者ぶる性格のせいで友達がいない狐一郎。お互い「相手よりはマシ」だと思っているが、どっちもどっちである。
 ただ狸子としてはどうしても、何かの拍子に触れ合った際、己の特異体質がばれてしまうのではないかという不安から、他者と気安く話すことが出来ないので、幼馴染の面の皮の厚さはちょっと羨ましいと思っている。
 狸子の両親などは、交友関係の狭すぎる狸子を心配し、親しく付き合ってくれている狐一郎のことがお気に入りだ。正直実の娘よりも信頼を得ている感がある。
 勿論狸子としても、子供の頃、唯一自分の特異体質を「信じてくれた」彼のことは親友だと思っているし、大切だ。言うとお互い照れるから、わざわざ言葉にはしないけれど。
 ――昔、自分の視界のことを色々な人に説明したけれど、親には心配され、当時の友達には嘘つきだと言われ、証明しようとして気持ち悪がられ。そのうちどうしようもなくなって、泣いて部屋に閉じこもった自分を、連れ出してくれたことを、本当に感謝していることも。
「……今更なんだけど、狸子ちゃんのお母さんてさ」
「うん?」
 ぼんやりと狸子が昔のことに思いをはせていると、憮然とした声が隣から聞こえたのでそちらを振り向く。狸子よりも頭半分背の高い、細い釣り目の顔が唇を尖らせ、不満ですと言う空気を隠さずに呟いた。
「俺と狸子ちゃん、付き合ってるとか思ってる?」
「ぶっ! あはは、まさかあ!」
 あまりにも不満そうな声に、思わず狸子は声をあげて笑ってしまった。冗談としかとれないその言葉を、だってさ、と狐一郎はなおも続ける。
「毎朝家に迎えにいって学校に行くって、もうバカップルの極みじゃん」
「えっそれぐらいで極みになるの? 当人の心のあり方によるんじゃないのそれは」
「勿論、それに関しては全く有り得ないと自信を持って言えるけどさ」
「……それはそれでちょっと腹立つよね」
 へえー? とからかい混じりににやりと笑われたので、軽く舌を出して応じてやる。これぐらいのやりあいは二人の間で日常茶飯事だ。他のクラスメートにもこれぐらい軽妙なやり取りが出来れば良いのだが、子供の頃の苦手意識を払拭するのは中々に大変だ。そんな葛藤をしている狸子をどう思ったのか、狐一郎はなおも続ける。
「その気が無くても、周りからはそう見られるってことさ。あんまりいい気分はしないけど」
 そこまで話を聞いて、狸子はふと気づいた。こんなことを言い出すということは、彼が自分と一緒に行動することに嫌気がさしているのではないか、ということを。
 彼以外に学校で話す相手などほぼいない狸子にとっては、正直辛いが、彼のためにも距離を置いた方がいいのかもしれない。
「……狐一郎が嫌なら、ちょっとは気を使う、けど」
 思ったよりも沈んだ声が出てしまい、これじゃ拗ねてるのがまるわかりだ、と焦ってフォローしようとするが、その前に。
 無造作にぽん、と頭を狐一郎の手で叩かれて、えっと思った瞬間に視界がぶれる。
 テレビのチャンネルが切り替わるように、視界がぐるんと回転する。やばいと思う前に狐一郎の方を向いたので、「彼が見ているどんぐり眼の自分」が、浮き彫りにされてはっきりと見えてしまう。彼が自分を注視しているのだ。鏡で見るよりもふくよかに見える体型と子供っぽい容姿が嫌で、慌てて両手を振って顔を隠すが、その仕草もまた間抜けに見えてしまう悪循環だ。
「わあ! ちょっと何! やめて!」
「泣きそうになってるブサいところを、見せてあげようかなと」
「なってないし!! さっさと止めて!」
「いや、止めるのは狸子ちゃんでしょ? 早く眼鏡にスイッチ入れなよ」
「解ったから、せめて目、逸らして!」
 きいきい喚きながら両手で顔を必死に防ぐと、はいはい、と言いながら彼の視界が空を向く。それが随分と綺麗な青空だったので、がさついていた心がほんの少し楽になる。
 昔からそうだった。普段狸子がこうやって、落ち込んだり、動けなくなりそうなとき、彼はこうやって混ぜ返すことでその蟠りを無かったことにする。この「特技」は狸子にとって当たり前のことだから、気にしてないよ、大丈夫だよ、そんな言葉を込めて。
 そのことをちゃんと解っている狸子も、それ以上喚くことはなく、やっと戻ってきた自分の少し端が歪んだ視界で、先刻よりもちょっとはっきりしない空を眺めた。
「いい天気だねぇ」
「そうだねぇ。ところで狸子ちゃん」
「うん?」
「今日一時限目からテストだから、早めに行って俺のノート見るんじゃなかったの?」
「! ぎゃあー!!」
 うっかり忘れかけていた現実を突きつけられた、狸子の色気の無い悲鳴が青空に響いた。



 午前中の授業は恙無く過ぎ去り――テスト内容に関して以外は――、かなりの人数でごった返す学食にて。
 芋天しか入っていない天ぷらうどんを啜りながら、狸子は片手で自己採点済みの答案を睨み付けていた。向かい側に座っている狐一郎も行儀悪く片手でほぼ卵の親子丼を摘みながら、自分のテスト用紙を見ている。ちらりとそちらを見て、狸子の方から口火を切る。
「……どんなもん?」
「ぼちぼちかな」
「はっきり言いなさいよ」
「79点」
「嘘ぉおお」
「そちらはいかほど?」
「……」
「俺が言ったのにお前は言わないとか、それはフェアじゃないなぁー」
「……ご、58点」
「うわぁ」
「何その顔! 笑うなら笑えよ!」
「あっはっはっは」
「笑うな!」
「ワガママだなぁ」
 心底楽しそうな狐一郎の笑みを一回睨んでから、狸子は用紙を小さく折り畳み――小テストとはいえ、くしゃくしゃに丸めて捨てられる度胸は狸子にはない――テーブルに置いてから、すっかり衣がしなやかになった芋天を一気に食べた。
 勉強に関して、この二人の頭の出来に関してはそんなに差異は無いはずだが、要領の良さがあるか否かの差は露骨に出る。狸子が頭を抱えて机に向かっているうちに、狐一郎はテストの内容に関し色々な方面へリサーチをかけ、ある程度のヤマを張っている。その結果が非情なる20点強の点差に現れていた。
「二週間後またテストだって」
「最悪だー。今日勉強手伝ってくれない?」
「ごちそうさまでした」
「いろいろすっ飛ばしすぎでしょ! 解ったよ奢るよ!」
 わざとらしく両手を合わせてにやにやする狐一郎に、財布の中から500円玉を取り出して放る。つまり、家庭教師の報酬は先払いしろということだ。必要経費だ仕方ない、とすっかり寂しくなった己の財布をしょんぼりしながら眺める。バイトの出来ない高校生に、急な出費は辛い。
 そして凹みながらお盆を持ち立ち上がろうとした狸子は、いつもよりも周りの警戒を怠ってしまった。
「あ、バカ!」
 強ばった狐一郎の声が聞こえた瞬間、しまったと思うより先にどん! と背中を誰かが押した。ぶん、と視界が歪む。立ち上がった時、丁度後ろを通った誰かにぶつかってしまったのだ。しかも後ろに居たのは集団だったらしく、肩や腕に次々と人が当り、その度にぐるぐると視界が変わり、揺れる。咄嗟にお盆をテーブルに戻すのが限界で、耐え切れず床に尻餅をついてしまった。
 きゃあ、と僅かな悲鳴と共に、かしゃんという金属音。慌てて顔に手をやると、眼鏡がない。視界を戻す為の一番有効な手段を失ってしまい、すっかり慌てた狸子は床に手を伸ばし、探す。しかしそれが仇になり、誰かに手の甲をぎゅっと踏まれた。
「痛っ……!」
 視界がもう一度変わり、恐らく手を踏んだ犯人が慌てて離れていくのが解る。ああもう文字通り踏んだり蹴ったりだ、と嘆きながら、なおも眼鏡を探そうとして――差し出した手を、誰かが掴んだ。
 一瞬驚いたが、咄嗟に狐一郎だと思った。彼には今の自分の状態がどんなものか解っているだろうから、助けを差し伸べてくれたのだろう。だから躊躇い無く、掴んだ手に対してスイッチを入れた。
「――大丈夫?」
 あれっと思った。かけられた声は幼馴染のものよりも幾分低く、穏やかなものだったし、手を掴んでいるだろう人とは逆方向から聞こえた。疑問を挟むうちに視界ははっきりと開き、
「稲見さん」
 自分の名前を呼ぶ男子生徒が、僅かに腰を屈めて、しゃがんでいる自分を覗き込んでいるのだろう光景を、普段より少し高いが、狐一郎よりは低い視界で見た。
 彼の姿に、見覚えはあった。確か同じクラスの、男子の筈だ。しかし当然、今年の春に高校入学してから、一度も喋ったことは無い。女子に話しかけるのも敷居が高いのに、狐一郎以外の男子なら尚更だ。
「大丈夫? 立てる?」
「えっ、えっと」
 すっかりパニックを起こしているうちに、手を引かれたので慌てて立ち上がる。どうやら彼も、この視界の持ち主も何も言わないが、狸子を心配しているらしいことはちゃんと理解したので、とにかく無事なことだけは伝えなければと、引き攣りつつある喉を無理やり動かした。
「だ、大丈夫ですっ、はい!」
「なんで敬語?」
 くすり、と。馬鹿にする風ではなく、ほんの少し面白そうに、目を細めて笑う彼が、「目の前に」いて。
 ぱあっと、世界が明るくなった。比喩でもなんでもなく、視界の明度が増したのだ。
 狸子が驚きに目を見開いている間に、辺りの喧騒がなりを潜め、周りの机や椅子も、沢山居た生徒達も、まるで舞台上の書割のように現実味が薄れた。まるで世界に、彼しか存在していないかのように。
 逆に彼は髪の毛から爪先まで、一挙手一投足が、一回一回フォーカスがかかるようにはっきりと浮き彫りになる。
 まるで、彼自身から光がきらきらと発せられているような眩しさに、狸子は目を瞬かせるが、視界の持ち主はこの輝きを感じていないのか、まじまじと見詰めているようだ。
 初めて見る、今までとは全く別の「世界」に、狸子は戸惑うことしかできなくて。
 どんどん頬から顔全体に熱が上がって火照っていく理由も、全く解らなかった。



×××



「……狸子。狸子ちゃーん。おーいぽんぽんたぬきぃ」
「たぬき言うな! 太ってたのは小学二年までっ!」
「はい、目が覚めたなら続きやりなさい。俺はもう終わったから」
「えっ嘘!」
 気づくとそこは、狸子の部屋だった。年季の入った卓袱台の上に教科書とノートが広がり、母が出してくれたのであろうお菓子とジュースが鎮座しているが、どうもぼんやりとしていたらしい。卓袱台の向こう側にいる狐一郎は、既にノートを閉じて生欠伸をしている。
「いつにも増してボケボケしてるけど、どしたの。昼休みからおかしいよ」
「えっ? そんなことは、ないんじゃないかな、あ?」
「……狸子ちゃん、流石にそこまで嘘が下手だと将来心配になるわ俺」
「狐一郎ほどツラの皮が厚くないんですぅー」
 べっと舌を出して、改めて教科書に向かう。テスト範囲はもう解っているのだからしっかりやらねば、と思うのだが、ふと気づくと視線が字の上を滑っていく。
 思い出すのは、今日の昼休み。あんなにきらきらと輝いている人なんて、初めて見た。同じクラスの人なのに何故今日急にこんなことになったのか、さっぱり解らない。幼馴染以外の男子に優しくされたことなんて今まで一度も無かったからだろうか。それにしたって、
「これは、うーん、そうなのかなぁ」
「何。どこが解んないの、お兄さんに教えてみなさい」
「4ヶ月年下の癖に。いや違う、勉強じゃなくて」
「ほー、暇じゃない幼馴染を無理やり連れてきておいてそれですか」
「ごめんって! でも狐一郎いつでも暇じゃない、私と同じく帰宅部の癖に」
「ま、そうだけど。だから」
 むに、と痛くない程度に頬を軽く引っ張られた。
「狸子ちゃんが俺に嘘吐くなんて不可能なんだからさっさと吐きなよ」
「……」
 上から目線の幼馴染には腹が立つが、事実なので反論できない。ぐりぐりとノートの上に意味無くペンを走らせながら、もそもそと話す。
「……昼間のあれ、声かけてくれた人」
「ん? 立ち上がらせてくれた人じゃなく?」
「え、あれ狐一郎じゃなかったの」
「違うよ。俺机の反対側にいたもん」
 そういえば、とあの時の位置関係を思い出す。転んだり、視界がパニックになった時はいつも彼が手を差し伸べてくれるので、当然あの時もそうなのだろうと思っていたのだが。
「えっ誰。私お礼も言わずに帰ってきちゃった」
「何、俺だと思ってたから何も言わずにぼーっとしてたの? 本当しょうがないな。立たせてくれたのは、同じクラスの坂上さんだよ」
「ええっあの坂上さん!?」
 クラスの女子で一番背の高い剣道部所属の彼女――坂上竜花は、狸子や狐一郎とは別の意味でクラスから割りと浮いている。整った顔立ちをしているがほとんど笑わず、クラスでも誰かと喋っているのを見たことが無い。狸子からの今までの印象は「正直、ちょっと怖い」だったのだが。
「うわあ、明日お礼言わないと……」
「大丈夫? テンパって明後日見ながら変なこと口走らないでね?」
「流石に、そこまでは無いよ!? 違う、坂上さんもそうだけど、声かけてくれた人の方!」
「ああ、加藤ね。今年の新入生では、美術部で期待のエースとか」
「えっそうなの」
「これぐらいの情報、すぐ耳に入ってくるよ、俺狸子ちゃんと違ってぼっちじゃないし」
 さらりと容赦の無いことを言ってくるのは幼馴染の標準装備なので、いちいち反応はしない。5回に3回は反応してしまうのだが、今はしない。ずいと卓袱台の上に身を乗り出すと、危うく丸ごとひっくり返しそうだったのでちょっと戻りながら問う。
「いいから、他に何か知ってることない?」
「他に? えーと、中学は南出身とか、成績はそこそこ、運動はあんまり、でも絵は上手いらしいよ、コンクール出たとか出ないとか」
「へえええ、それで? 他には?」
「……やけに乗り出してくるけど、何? 狸子ちゃんがそんなに他人に興味持つなんて珍しい」
「いや、あのその。お礼したいというか、ちょっと気になるというか……」
 目を逸らそうとすると、頭を触られそうになったのでさっと避ける。スイッチを入れられて自分の姿を目で追われるのは、口を割るよりもっと恥ずかしい。覚悟を決めて、両手の指先を合わせてくるくる動かしながら、ぼそぼそと呟いた。
「なんであんなに、格好良く見えたのか、とか」
「…………はあ?」
 長い沈黙の後、心底馬鹿にした声で言われたので、昼休みの時とは少し違う熱で頬が赤くなる。だからあ! ともう自棄で、思ったままの言葉をぶつけた。
「本当なんだって! 目の前で笑ってくれて、それが眩しくて凄くどきどきしたし、今も思い出すとちょっと苦しいし!」
「……」
「ねえ、これってさ、もしかして――」
「違うでしょ」
 言い募ろうとした言葉が、食い気味に否定された。清水の舞台から飛び降りるつもりで、決定的な言葉を言おうとしたのに出鼻をくじかれた。踏鞴を踏んで止まる狸子に対し、狐一郎はつまらなそうに頬杖をついたまま、片手でペンをくるくると回している。
「初めて俺以外の男子に優しくされて、ちょっと勘違いして舞い上がってるだけじゃない?」
「初めて、じゃない! ……と思うけど、自信がなくなってきた」
「でしょ? おかしいでしょそれだけで、そんな急に。単純に坂上さんが狸子ちゃんより視力が良かっただけじゃない?」
「……そうかなぁ」
「そうだって」
 そう、なのかもしれない。一目惚れなんて、漫画や小説の中だけのことで、まさか自分に起こることだとはとても思えないし。今の浮き立つ気持ちが、所謂恋であるのかは、経験が無いのだから勿論確証が持てない。
「……でも、気になってるのは、本当だよ」
 それでも。今早鐘を打つ心臓だけは、間違いで無いと解るので。ぴたり、と回っていたシャーペンが止まったことに、俯いたままの狸子は気づかなかった。
「明日、お礼言うついでにちょっと話してみたい。何言えば良いだろ……絵なんて全然知らないし」
「……」
「ねえ、何かアイディア無い?」
「なんで俺に聞くの」
「協力してよ」
「は? やだよ」
 狐一郎の口が悪いのはいつものことだけれど、普段よりも随分と突き放す声音だったので驚いた。戸惑った狸子に相手も気づいたのか、気まずそうに頭を掻いて答える。
「……美術部見学したいとか、その辺言えば。部活入りたいんでしょ? どっか」
「あ、それいい! ありがと!」
「どういたしまして」
 高校に入学して三ヶ月、狸子は何か部活に入りたいと思いつつも元来の引っ込み思案で踏み切れなかった。運動部が勤まるとは思えなかったし、美術部というのは悪くない選択肢かもしれない。
 すっかり楽しくなって、改めてノートに向かう狸子の旋毛を、狐一郎はそっぽを向いたまま目の端だけで見ていたようだが、不意にぼそり、と口を開いた。
「……もし、本当に、狸子ちゃんの気持ちが本物だったとしてさ」
「うん?」
「加藤に、目の事、ちゃんと言えるの?」
「……」
 ぴたり、と狸子の指が止まる。熱を持っていた体へ、頭から冷水を被らされたように背筋が伸びた。
 この特異体質が現れたのは、ずっと昔。狸子と狐一郎が、幼稚園児だった頃だ。
 ある夏の日、風邪か何か、とにかく高熱が出る病気にかかり、狸子はベッドから出られない日々が続いた。危ないから、という理由で親は寝たまま眼鏡をかけることを許してくれず、ぼんやりした視界の中、ただ熱でうんうん唸っていた、と記憶している。
 何の拍子だったかはもう覚えていないが、枕元にあった縫いぐるみを抱き寄せて、この子は私より目が良いのかな、と思った筈だ。すると、まるでテレビのスイッチを入れた時のように、視界がぐらりとぶれて、普段の自分よりは大分はっきりと見える視界の中に――自分の顔が、見えたのだ。
 熱も忘れて吃驚しているうちに、視界は元に戻ってしまったのだが、その時丁度お見舞いに来た幼馴染に興奮のまま説明し、半信半疑の相手を説き伏せて、彼の手を握り、試してみた。すると先刻よりも更にはっきりとした視界の中、ベッドの上で寝転がっている自分が見えたので、驚くやら楽しいやらですっかりテンションの上がった狸子は、更に熱が上昇して狐一郎ともども親に叱られた。
 それから勿論狸子は、親や他の友達にもこのことを伝えたのだけれど、親は熱で夢でも見たんだろうと本気にしてくれなかったし、逆に心配されて病院に連れて行かれそうになった。友達は最初から信用してくれず、証拠を見せろと言われたので、目を閉じたまま他の人の視界を借り、見えないはずの本を読んで見せた。
 ――どうせ、テキトーなこと言ってるだけでしょ。
 ――やだ、どうしてわかるの?
 ――うそだあ……きもちわるい! 変だよ!
 皆も、驚くし、喜んでくれると思ったのだ。自慢したい気持ちもあった。勝手に期待して、裏切られた気分になっているだけだと、今なら反省も出来るけれど。それでも、自分のぐしゃぐしゃになった気持ちを、そう簡単に元通りにすることは出来なかった。
 あの時から、信じてくれたのは、目の前のこの幼馴染だけで。
「……言わないと、駄目なのかな」
「黙ってるわけにもいかないじゃない。今日だってそのせいで、転んでパニック起こしてたんだから」
「……うん……」
 事実だ。一緒に過ごす時間が長くなれば、遅かれ早かれ違和感に気づくだろう。その時自分は――ちゃんと真実を、伝えられるだろうか。ゆらりと揺らぐ不安の漣を、狐一郎はかき混ぜて更に煽ってくる。
「言えないんなら、止めときなよ。また無理して傷つくだけだ」
「……言える、よ。もう子供じゃないんだから、傷つかないし」
「嘘だね。どうせまた、べえべえ泣くくせに」
「もう! さっきから優しくない! 少しは味方してくれたっていいでしょ!」
 我慢できずに狸子が顔を上げて狐一郎を睨むと、逆に驚いた。幼馴染はいつものような意地悪な笑いを潜めて、何故か自分よりもずっと――辛そうだった。
「……味方してるじゃん。充分すぎるぐらいに」
 なんで、と問うよりも先に、それだけ早口で言うと、がたりと卓袱台を鳴らして狐一郎は立ち上がった。教科書も仕舞わず手で持ったまま、ドアへ向かう。
「帰るわ。ごちそうさまっておばさんに言っといて」
「狐一郎!」
 名前を呼んでも、立ち止まらなかった。ああいう時の幼馴染に何を言っても無駄なことを、狸子は知っている。お互い長い付き合いで、触れられたくない場所があることも経験から知ってはいたけれど――今回は、彼を怒らせた原因が何だったのか、さっぱりわからない。
「……何あれ。もうー!」
 苛立ち混じりに叫んでベッドにぼすんと体当たりすると、上で寝ていたハチ丸がにゃあー、と不満げに鳴いた。



×××



 結局、一夜明けた朝、狐一郎は迎えに来なかった。相手の家に寄っておばさんに聞いたところ、先に出たらしい。まあ今日は行ってないの、ごめんなさいね、と逆に謝られてしまった。
 子供の頃から小さな喧嘩なんて山ほどしているし、3日以上持続したことはない。何となく、どちらからともなく、ごめんと言っておしまいだ。それでも――気分がいいものではない。
 昨日の反応からして、多分悪いのは自分だと思うのだが、何処が悪いのか解らないうちに謝ってもいいものだろうか。それと同時に、私何もしてないのに、という反感も沸いてくるので、どうもまだ素直に謝れそうにない。
 のろのろと足を進めながら教室へ辿り着くと、やはり既に狐一郎は自分の席に座っていた。ふっと目が合った瞬間、ふいと逸らされる。
 流石にかちんと来るが、教室内で大声で何か言うのも恥ずかしい。そんな悪目立ちはしたくない、と躊躇しつつ自分の席へ移動しようとした時、
「おはよう」
「あ……お、おはよう! 加藤君!」
 丁度教室に入ってきた生徒に声をかけられた。振り向いた狸子は、上ずりそうになった声を必死に抑えて答える。
 目の前にいる穏やかな笑顔の彼は、やっぱりきらきらと輝いて見えて、この気持ちに間違いはないんだ、と後押ししてくれる。昨日よりも視力が悪いせいか、幾分ぼやけてしまうのが残念だ。
「え、えっと。まず、昨日はありがとう」
「うん? 俺は何もしてないよ、稲見さんを助け起こしたのは坂上さんだし」
「あ、うん、そうなんだけど」
 気を使ってくれたから、一応お礼を、とごにょごにょ言うと、ちょっと笑ってどういたしまして、と言ってくれた。熱がどんどん上がる頬を押さえたくて仕方ないが、それを堪えてうろうろと視線を彷徨わせる。昨日の喧嘩ですっかり忘れていたが、折角のチャンスなのだから、ここは言うべきだろう。
「あ、あのね?」
「うん」
「今日の放課後とか、ぶ、部活の見学するとか、して、いい?」
 ふっく、と僅かに噴出す音がした。はっとそちらを見ると、幼馴染がそ知らぬ顔で、口元を押さえたまま窓の外を眺めている。あの野郎、笑いやがった、ばれてるんだからね! と恨みを込めて見ていると、加藤の僅かに戸惑った声が聞こえて慌てて向き直る。
「え、良いけど……うちに? あんまり面白くないよ、幽霊部員ばっかりだし」
「いや、あの、ちょっと興味があるというかね! 私無所属だし、見てみたいなって」
「そう? そういうことなら、大歓迎だよ」
 慌てる狸子の姿をどう思ったのか、くすくす笑いながら答える加藤が、ふと後ろに視線をやった。二人で教卓前の入り口を塞いでいる形のところに、丁度登校してきた女子生徒が一人。長い黒髪が、ふわりと尾のように揺れた。
「あ、おはよう――坂上さん」
「……うん」
 穏やかな加藤の声にも一切愛想を見せず、低めの声でぽつりと頷くだけの坂上は、そのまま自分の席へ行こうとする。それを逃さず、狸子は改めて声をかけた。
「あ、あの、おはよう! あと、昨日ありがとう!」
 思ったよりも大きい声が出たせいか、加藤だけでなく坂上も少し驚いた顔をしてみせたが、すぐにいつも通りの無表情に戻り、「別に。気にしないで」とだけ言って、何事も無かったかのように歩いていく。緊張がとけ、はあっと大きく息を吐いた狸子に、加藤は笑って言う。
「あんまり喋らないけど、優しい人なんだよね」
「うん……あ、あと、じゃあ今日、ちょっと美術室、寄るから」
「ああ、いつでもどうぞ。居るの俺ぐらいだろうけど」
 別れ際に爆弾を一つ持たされ、青くなったり赤くなったりしながら自分の席へ向かうと、ちょうど狐一郎の席に差し掛かったところで、お前にしてはやるじゃん。と言いたげににやりと笑われた。
 まだちょっと怒ってるんだからね、という意味を込めてべーっと舌を出して見せるが、勿論その頃には狸子の機嫌は大分直っていた。



×××



 美術室はあまり日の当らない奥まったところにあって、理科室・音楽室と並んで「結構怖い部屋」の認識があるが、流石に放課後すぐなら太陽の光もちゃんと入り、過ごしやすそうだった。
 油と絵の具の不思議な匂いで満たされた部屋に恐る恐る入ると、すぐに気づいた加藤が出迎えてくれた。
「いらっしゃい。何もおもてなし出来ないけど、ゆっくりしていって」
「お、お邪魔しますっ」
 部屋の中には本当に、加藤以外誰もいなかった。部活用に立てられたイーゼルは何台かあるのだが、キャンバスを立てかけているのは一台だけ。その前に改めて座り直した加藤は、椅子を一脚引っ張り出して狸子に薦めてくれた。きょときょとと部屋を見渡しながら、座って狸子が言う。
「先輩とか、いないんだね」
「学祭が近くなれば、もっと集まり良くなるらしいんだけど……普段は皆自主連だね。鍵もいっつも俺が管理してるし」
「熱心なんだねぇ」
「そんなことないよ、――ここ、居心地がいいから」
 確かに、教室とは違う、喧騒から離れたこの部屋は、いろいろなものがあってまるで秘密基地のような趣もある。絵心には全く自信が無いが、本当に美術部に入ってもいいかもしれないなあと狸子はちょっと思う。
「あ、気にせず進めてて。絵描いてるのとか、見たいし」
「ええ、緊張するなあ」
 狸子は本当に、絵を描く加藤の姿を見たいという下心だけのつもりで促したのだがm苦笑しながらも、加藤はそのままキャンバスに向き直る。絵を描くのが、本当に好きなのだろう。窓の外とキャンバスを何度も往復しながら、白い壁に黒い線を生み出していく。
 大きめのキャンバスに描かれていたのは、まだ線だけのものだったが、多分この美術室の窓から見える一階の渡り廊下だ。色々な木々が生い茂った隙間から、渡り廊下とそこへ続く道場が見える。剣道部と柔道部、空手部が合同で使うにはちょっと小さな代物だが、どこの部活もそこそこ強いらしい。
 その風景とキャンパス、そして彼を交互に見ていると、ふと彼の表情が揺れた。驚いたような、嬉しそうな、どこかほっとしたような。
 どきり、と狸子の心臓が揺れた。そんな目で、いったいどこを見ているのか。狸子も邪魔だけはしないようにそっと立ち上がり窓の外を見るが、眼鏡で矯正された視界では、特に変わった様子は見られない。キャンパスではなく、何かを見つけた瞳が気になって、狸子の心に邪念がわく。
 ――自分なら、彼が何を見ているのか、知ることができる。
 そんな顔をさせたものが何なのか、知りたい。彼が見ているものと、同じものが見たい。
 こく、と乾いた喉を唾で無理矢理潤し、加藤へ向けて一歩近づく。こんなのダメだ、卑怯技だ、と解っているのに、そっと伸びる手指を止められない。
 ほんの爪先が、気づかれない程度に、彼の背に触れた瞬間――狸子はぎゅっと目を瞑って――スイッチを、入れた。
 ぶん、と視界が切り替わる。先刻とそう変わらない筈の、緑が生い茂っているガラス越しの外。――否、変化はあった。自分よりとても良いのだろう視界は、そこにやってきた人影を捕らえていた。
 袋に入った長物を肩に背負い、渡り廊下を歩いていく背の高い影がひとつ。外での稽古が終わったのか、ジャージのままだが、頭の上で高く結い上げられた長い黒髪は、それが女性であることを伝えてくれた。
 緑の隙間からちらちらと見えていた人影が、丁度はっきり見える位置まで辿り着いたとき――無造作に、こちらを向いた。
 息を飲んだのは、狸子だったか、加藤だったか。窓の外の彼女は、こちらの動揺などは当然気づいていないようだったが、教室からこちらを見下ろす視線をまっすぐに捉えていた。
 不意に、視界が揺れる。狸子が驚く間もなく、加藤が立ち上がったのだということが解った。彼は恐る恐る、と言いたげに一歩前に出て、窓ガラスを隔てて外を見る。
 立ち止まりこちらを見上げていた彼女の周りが、不意にきらきらと輝き、狸子は動揺した。他のすべての物体が無意味であるかのようにあっと言う間に色彩を無くし、彼女だけがはっきりと浮かび上がってくるようだ。
 この光景を、狸子は一度見たことがある。まるでこちらの精神までが高揚するような、とても綺麗な――
 外の少女が見ているのは、当然狸子ではない。きっと窓ガラス越しに見える加藤に気づいているのであろう少女は、僅かに目を細めて――ほんの少し。注意していなければ気づかないであろう程度に、横に引き結んでいた唇の両端をふわりと緩めた。
「っ!」
 その瞬間、彼女はよりいっそう輝きを増して、狸子は耐えきれずに眼鏡に振れ、スイッチを切り替えた。目の前にいる彼の背中は僅かに強ばっていて、誰の声も聞こえないようだった。
 振り切るように狸子も窓の近くまで近づいた時は、もう彼女は道場へと入っていってしまった。――昨日食堂で、狸子を助けてくれた、女子生徒、坂上竜花は。
 はあ、と僅かなため息を隣で聞いた瞬間、狸子はつとめて明るい声で話しかけた。
「加藤君……坂上さんのこと好きなの?」
「っえ!!?」
 我ながら気遣いのない直球だと思うが、そこまで慮る余裕が無かったので許してほしい。加藤の方も、紅潮した顔を隠せず戸惑っていたが、誰を見ていたのか気づかれたと思ったのだろう、やがて諦めたようにもう一度息を吐く。
「もしかして、もう付き合ってる、とか?」
「な、ないよ! 坂上さんが俺になんて――」
 なるほどつまり、片思いということか。それなのに、だからこそ、あんなにも相手が輝いて見えたのは。
「……個人的な感想だけど、脈、かなりあると思うよ?」
「えっ、え!?」
「頑張ってね!」
 じん、と目の端が熱くなったので、慌てて取り繕い、それだけ言って美術室を飛び出した。



×××



 ゆっくりと、狸子は帰り道を歩く。じりじりという目頭の熱さは、学校からずっと収まらない。
 ちょっと油断すると、頬が濡れる感触がして、もう面倒臭いと眼鏡を取ってしまった。慣れ親しんだ道だし、車もほとんど通らない細道だから関係ない。
 ぐしゃぐしゃと揺れて潰れる視界の中、やっと家までたどり着いたところ、見慣れた人影が家の前で待っているのが見えて、足を止める。いつもなら軽く挨拶するところだが、昨日の今日で気まずいのと、何とも情けない後ろめたさがある。
 多分、あの優しさのわかりにくい幼馴染は、彼が懸想している相手も知っていたのではないだろうか。脈がないから止めておけ、という遠回しな心配だったのだろう。それに反発して、暴走して、この有様なのだから笑うしかない。涙がまたでるかと思ったが、逆に笑えてきてしまった。
「……狸子ちゃん!? ちょ、どうした!」
 泣きながら笑っている自分が不気味だったのだろうか、大慌てで狐一郎が走ってくる。目の前まで駆けてきたあまりよく見えない幼馴染に対し、精一杯の強がりを込めて答えた。
「狐一郎、昨日ごめんね」
「え? あっいや、俺も――」
「すごい早く、失恋しちゃった」
「――え」
 絶句した相手に、何とかフォローしようと掠れた喉で矢継ぎ早に言う。
「たいしたことないよね、本当昨日好きになって今日失恋とかさ。ダメージなんて微々たるもんよ、本当。これはちょっと、浸ってたというか、勝手に盛り上がっちゃったというか、そんな感じで――」
「狸子!」
 名前を呼ばれた瞬間、視界が暗闇になる。ぎゅうっと肩と背中を締め付けられる感触に驚く前に、かちんとスイッチが入る感覚がした。
「あっばか、待って! やだ、自分の泣き顔なんて見たくない……!」
「見てない! 見てないから、大丈夫だよ!」
 そう言われて、目の前がずっと暗闇なことにようやく気づけた。きっと彼が、両目を瞑っているからだ。こんな時まで、間抜けな自分に対して彼が優しすぎて、細かい皹が入っていた狸子の心に少しずつ染みこんできて。
「ぅ、ぅうえええぇん……!」
 耐えきれず、子供の頃と同じ泣き声をあげて、狸子は泣き出してしまった。狐一郎は宣言通り目を閉じたまま、ずっと彼女の頭を包み込むように抱きしめて、撫でていた。



×××



「落ち着いた?」
「うう、ごべん。あいがと」
 すっかり涙と鼻水でずるずるになった顔が恥ずかしくて、ある程度落ち着いたところで狸子の家に二人で上がった。
「うわあ、制服テッカテカになってる」
「だからごめんって! 今布巾水で濡らしてくるから!」
 大惨事の服と顔をお互いごしごし拭いて、冷蔵庫から持ってきた烏龍茶を二人で飲み、ようやく人心地ついた。ベッドを背もたれ替わりにして、隣に並んで足を投げ出す。狐一郎は懐いてきたハチ丸を撫で、狸子はもう一度鼻をかんでから、掠れた声で呟いた。
「はー……なんかすっきりした。これって、憑き物が落ちた感じ?」
「……そういうもん?」
「うん。ちょっと恥ずかしいけど、恋に恋してたような感じだったんだと思う」
 彼のことを好きになったのは、彼に恋していた彼女の視線で、彼を見たから。彼女の気持ちに勝手に相乗りして、浮き立っていただけなのだろう。そう考えるとどうにも恥ずかしい。
「狐一郎も知ってたんでしょ? 加藤君が、坂上さんのこと好きなの」
「えっ」
「えっ」
 驚愕の声をあげられたので、吃驚して隣を見る。細い目を限界まで見開いている狐一郎がいたので、もう一度吃驚する。
「え、なにそれ。加藤が言ったの? その、告白の時とか」
「ああ、違う違う! ほら私、坂上さんの目で加藤君を最初に見ちゃったでしょ。んでその時、加藤君のこと凄く素適に見えたって」
「……うん」
「つまりさ、坂上さんは加藤君のことが好きだから凄く素敵に見えてたし、加藤君の方もこっそり……見ちゃったら、同じだったの。つまりこれって、両思いってことでしょ。……やっぱり、この目を悪用しようとしたから、バチが当たったのかもね」
 バチって思うのもこっちの勝手な言いぐさだけど、と笑っていう狸子に対し、狐一郎の声は一段低くなった。
「何それ。じゃあ結局、狸子ちゃんは自分の気持ち、伝えてないの?」
「伝えられないよー。はっきり解っちゃったんだから」
「そんなの、解らないじゃん。加藤に告白したら、また変わるかもしれないでしょ?」
「狐一郎だって、見たら解るってば。もう、この気持ちだって、本当に恋してたのかも解らな――」
「じゃあなんで俺のは解んないんだよ!」
「……」
「……」
「……えっ」
「……」
 沈黙の後、心の底から訝しげな声をあげた狸子に対し、狐一郎は口元を手で押さえて俯いている。その顔は、頬どころか耳まで赤くなっていて、狸子もつられるように頬が熱くなった。
「えっ、えっ、それって、え?」
「……だから! 自分の顔なんて、俺の目通してよく見てるんでしょ! それならなんで――俺の視線、気づかないんだよこの鈍感!」
 普段狸子の言葉を手玉に取ってからかってくる男が、相当テンパっているらしく、自棄糞の様に叫ぶ。かなり罵られている筈なのだが、狸子もそこまで情報が咀嚼できていない。最初にぶつけられた爆弾を解体するのに手一杯だ。
「だ、だって、そんな素振り一回も見せなかったし」
「見せてたよ! お前が気づかなかっただけだよ!」
「き、昨日だって絶対有り得ないって言ってた!」
「俺の性格知ってるでしょ照れ隠しだよ!!」
「気づかないって! だって私そんなナルシーじゃないし!」
 自分の顔が輝いて見えたら気持ち悪いだけじゃないか、と主張したのだが、狐一郎は羞恥に耐えられなかったのかがっくりと、立てた膝に顔を埋めてしまった。先刻まで慰めてくれていた幼馴染に対し、流石に酷いことをしたか、と狸子にも罪悪感が沸くが。
「……知ってるじゃん。私馬鹿だし、鈍感だし。言ってくれなきゃ、わかんないよ」
「……ん。知ってる」
 ぐしゃ、とくせっ毛の頭をかき混ぜて、狐一郎が呟く。顔は見せてくれない。狸子がどうしよう、と考えているうちに、向こうは腹を括ったらしく、細い目をさらに細めて藪睨みしてきた。
「じゃあ、返事は?」
「へ?」
「俺の気持ちは、もう解ったでしょ。返事は」
「え、えええ」
 困った。心底困った。昨日初恋をして、今日失恋をしたかと思ったらさらにこの有様だ。並のジェットコースターでは太刀打ちできないレベルで波瀾万丈だ。とても何か、思考できる余裕などないのだが。
「……か」
「か?」
「……考え中」
「何それ!」
「だって!」
 狐一郎の方はどうだか知らないが、狸子にとっては紛れも無く晴天の霹靂なのだ。いきなり言われても想像が全くつかないし、子供の頃から一緒にいた相手を急にそんな目で見ろと言われても難しい。
「だ、だって、じゃあ狐一郎は私のこと恋人にしたいわけ? き、キスとか出来るの? 無理無理私絶対笑っちゃうから――」
「出来るよ」
「えっ」
 言われた途端、ぐいと狐一郎の顔が近づく。咄嗟に逃げようとして、両腕を捕まれてしまった。当然、その瞬間にスイッチが入り。
「っ――ぎゃー!!」
「ふがっ!?」
「あっごめん!!」
 全力で、目の前の顔を掌底で押し退けてしまった。当然実際に押し退けたのは狐一郎の顔だったのだが、狸子が押し退けたかったのは、目が真っ赤に腫れて鼻の周りもかぴかぴで、さらに頬も真っ赤にしていた自分の顔だった。近すぎたせいで、魚眼レンズのようになっていたのも更によろしくない。
「嘘だ! 絶対私のこと好きって嘘でしょ!?」
「失礼すぎるだろ! いくら温厚な俺でも怒るよ!?」
「だ、だって私の顔今酷かったもん! やだやだもう見たくない!」
 ぎゃあぎゃあどたばた、まるで子供の頃と同じように半分取っ組み合いの喧嘩になり、まるで色気のない追いかけっこがしばらく続く。やがて二人とも体力の限界を感じ、どさりとベッドに体を預けた。
「……俺たち馬鹿だなぁ……」
「うん……我ながら酷いね……」
 感情は肉体を引っ張ってくれるが、肉体の疲労は感情を押しとどめてくれるらしい。混乱と衝動が納まってくると、やけに冷静になれてしまった。
 ごろりとベッドに横向きになりながら、狐一郎がぽつりと呟く。
「……なんかごめんね。今日辛いの、狸子ちゃんの方なのに」
 いつになく素直に謝ってきた幼馴染は、どうやら本気で謝意があるらしい。随分としおらしくて、悪いけれど狸子は笑ってしまった。こちらも寝転んだまま、小さく首を横に振る。
「んーん。もうだいぶ平気になった。本当だよ」
「なら、いいけど……」
「……狐一郎のほうこそ」
「うん?」
「こんなんで、いいの? 馬鹿だし顔もよくないし、視力に関しては変なオプションつきだし」
 ベッドの上に寝転がったまま、横を向いて問うと。子供の頃から変わらない、細い目を限界まで細めて笑う、ちょっと意地の悪そうな顔がある。
「そんなの、小さい頃から全部知ってる。……それでも狸子ちゃんがいいんだから、しょうがないでしょ」
「う、うん」
 いつも通りの顔の筈なのに、何故だか随分居心地が悪くなってもぞもぞと布団に沈んだ。そんな狸子をどう思ったのか、そっと肩に狐一郎の手が触れそうになり、慌てて身を捩るが、相手の声は随分と宥めるように聞こえて。
「や……」
「練習、させて」
「れ、練習?」
「うん。目閉じたままでも、キスが出来るように」
「――っ」
 それなら出来るでしょ? と言外に言われ、頬がかっと熱くなった瞬間、視界が暗闇に落ちる。スイッチは入っている、狐一郎が目を閉じているせいだ。ずるい、こんなの、眼鏡はどこだ、と焦っているうちに体温を近くに感じ――唇の端に、柔らかい感触が、一瞬だけ。
 耐えきれずに目を閉じたが、彼は目を開けてしまった。頬を真っ赤にしたまま、布団にしがみついている自分の、強ばったやっぱり変な顔が、見える。
「やっぱ、難しいね」
「な、なんで」
「ん?」
 いつも通り。そう、いつも通り、自分の顔の隅から隅まで、はっきりと見える。もう夕暮れで電気のついていない部屋は随分暗い筈なのに。
 もしかして。自分も相手も、それがずっと普通すぎて、当然と思っているだけで。
 彼の前で私はいつも、こんな風にはっきりと見えていたんだろうかと、思った瞬間。
 限界まで赤くなってしまった自分の顔がばっちり見えて。狸子は耐えきれず、布団を無理矢理引っ張り、その中に潜ってしまった。
「狸子ちゃん?」
「無理! 見ないで! 本当無理!」
 包まったままじたばたして叫ぶと、くぐもった声で布団の向こうから、見てないよ、という声が聞こえ、同時に狸子の視界は完全に暗くなる。
 子供の頃からやっぱり良く知っている、彼が作って自分にだけ見せてくるその暗闇を、心地よいと感じてしまうのにも今は気づきたくなかった。


fin.