時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

歌を掲げよ、剣を紡げ

 ――瞬間。
 二人は同時に、ぱきん、と何かが砕ける音を聞いた。
 反射的に、安綱は振り向く。音のした先へ、化物に向かって背中を晒す事も厭わずに。
 錫ははっと目を見開き、砕けた壁にそのまま飛び込む。中から伸びてきた、負の音ではない、自分を呼ぶ声を、一本の糸を、しっかりと掴んで。
 そして安綱は手を伸ばす。暗闇の中から伸びてくる、傷を負っているけど、自分よりも小さな掌を掴む為に。
「っよいしょお!!」
 手が届いた、と思った瞬間、思い切り引っ張る。振り下ろされる蜘蛛の足を掻い潜り、安綱はしっかりと、小さな体を抱き締めた。
「あ……、」
「ミモリさん!」
 はたと上げた錫の顔と、仰向けに倒れたまま首を持ち上げた安綱の顔は、随分と近い。一瞬状況を忘れ、ぱっと錫の頬に朱が散るが、安綱は間近で彼女の顔をまじまじ見れたことが嬉しかったので、気にしない。
「助けに来てくれて、ありがと」
「――ぅ、ち、ちが」
「うわ、手、怪我してる!? これ、血!?」
 そこで初めて、掴んだ彼女の掌がぬかるんでいることに気付いた安綱が大慌てになる。ハンカチを取り出してせめて巻こうとする安綱の手を、汚すことに申し訳なくなりながら、錫はぎゅっと掴む。
「た、たすけて、くれたのは! 貴方の、ほうっ。あの時も、今も」
「ミモリさん」
「ごめ、んなさい……なにも、できなく、て」
 身体の力が抜けて、彼の胸にもたれかかってしまう。己を叱咤するのだけれど、朝からずっと歌い続け、剣を振るい続け、体力も限界だ。
 荒い息を堪えて、どうにか立ち上がろうとする錫の背を――ゆっくりと、暖かな手が撫でて、止めてくる。
「……どうして、謝るの」
「だ、だって」
 彼の声は随分困っているようで、その意味が解らなくて顔をあげると。何故か、彼の方が泣きそうな顔をしていた。
「俺が、君を助けるのは、謝られることなの?」
「っ、え、ぁ」
 それを聞いて。錫は自分が、随分失礼な事をしていたのだと、ようやっと気がつけた。彼の優しさも、好意も、あれだけ嬉しかったのに、それを全て無下に捨てていたのだと。
 また、ごめんなさい、と出そうになって、慌てて唇を噛む。何度も兄に叱られたのに、直せない自分が情けない。
 気まずさから、どちらからも言葉を出せず、あたりはしんと静まり返る。聞こえるのは、蜘蛛の呼吸音だけ――
「「あ」」
 そこで、二人ともはたと気がついた。自分達のいる場所が、かなりの危険区域であるということに。
 がしゃあ、と音を立てて、蜘蛛の顎が大きく開き――
「「うわああああ!!!」」
 同時に悲鳴をあげ、矢も盾も堪らず、二人で逃げ出した。何とか蜘蛛の足の間から転がり出て、只管走る。
「びっくりした! びっくりした! 忘れてたー!!」
「あ、れがっ、指針!? 飲まれ、たの!?」
 安綱に手を引っ張られて走りながら、状況を問う錫に対し、安綱ははたと足を止める。彼女の言っている、指針というものが四方谷であることは、多分間違いないのだけれど。
「ミモリさんっ」
「っ、何?」
「あの中に、俺の妹と、その友達がいるんだ」
「えっ……!?」
「……あれに飲まれたら、もう助からない?」
「……、ふ、負の音に、魂まで、飲まれてなければ。斬り祓えば、助かる、かも」
「よし! じゃあ俺がまた剣を――あ」
「ぇ……何?」
 妹が助けられるのならと、息巻いた安綱が、不意に顔を曇らせる。不思議そうに首を傾げる錫の、繋いだままだった掌が少し緩められ、安綱の指でするりと撫でられる。まるで、豆が潰れて血の滲んだ掌を癒すように。
「だって、その手じゃ――」
「だ、大丈夫、これぐらい」
「駄目だよ、嫁入り前の手は大事にしなきゃ。何かさ、手で振らなくても、出来る攻撃って無いかな?」
「ぇ……えと、」
 言われて、思いだす。下の兄が使う、風呼びと刃吹雪の歌だ。かなり昔に教わったが全く形にならず、役に立たずと罵られただけだったけれど。
「し、知ってる、けど。私の、歌じゃ」
「教えて」
 ぎゅっ、と手を握り締められる。その手は大きくて、温かい。
「教えて。一緒に歌おう。大丈夫、俺の歌は結構上手いよ」
「し……知って、る」
 こんな状況なのに、錫は自分の顔が綻んでいることに気付いた。今まで、祓いといえばがちがちに緊張して、焦りだけが先に出て、結局失敗ばかりしてきたのに。
 何故だろう、彼の声を聞くと、ずっと詰まっていた自分の喉が、すっと通るような気がするから。
「う……歌が完成されるのに、必要な事。音程と、強さと、魂」
「前二つは解るけど、最後は……心を込めて、ってことかな?」
 話している間にも、大蜘蛛は指針を飲み込んで馴染ませたのか、じわじわと歩を進めてくる。もう一度しっかりと手を握り直し、二人で敵を見据えた。
「ど、どれだけ出来るか、解らないけど。私の後に、続いて」
「うん!」
 彼の答えを受けて、大きく深呼吸。子供の頃聞いた音程を、思い出す。頭が忘れていても、喉は覚えている筈、あれだけ厳しく教えられたのだから。
「――そは、風の如く、水の如く――凪がれ払い、流れ祓い、空を呼ぶ――」
 さわり、と辺りの空気が震え、錫の周りに渦を作り出す。ほんの弱いものであったけれど、風を呼べたことで錫の顔に安堵が浮かぶ。
「そは、花の如く、刃の如く――咲き、散り、舞いて、遊べ――!」
 歌声が、小さな欠片となって空に散り、風によって巻き上げられる。だが、まだ足りない。錫の歌声だけでは、敵に届くほどの力は込められない。もう一度。
「「――そは、風の如く、水の如く――」」
 驚いて、一瞬歌を止めそうになった。錫の声よりも一段低く、それでも音階は完璧に、重なる声を聞いたから。
 本当に、彼は一度聞いただけで、歌詞も音も、全て覚えてしまっていた。悔しさが沸くかと思ったけれど、それ以上に頼もしい。彼と一緒に歌えば、きっと成功すると、解ったから。
「「咲き、散り、舞いて――」」
 同じフレーズを繰り返す。辺りに逆巻く風はどんどん強くなり、それの孕む音の刃も鋭くなる。蜘蛛もそれに対して脅威を覚えたらしく、音を止めるべく猛進してきた。だが、二人の歌が完成される方が、早い!
「「遊べ――!!」」
 二人の声が完全に重なった瞬間、辺りの刃は一斉に、風に散らされた木の葉や花弁のように、蜘蛛へ向かった。咄嗟に蜘蛛が防御の為かありったけの糸を吐き出すが、それすら切り裂き、蜘蛛の身体に肉薄する。
「ギイイイイイ!!!」
 金属を思い切り掻き毟ったような、不快な悲鳴に安綱は思わず肩を竦める。
 彼等の産み出した刃の風は、蜘蛛の身体を蹂躙し、八つ足のうち半分を、途中から切り飛ばしていた。がさがさと蠢き、立ち上がろうとするも、減った足ではその巨体を支えきれないらしい。
 そして、それ以上に切り裂かれた蜘蛛の腹の中に、二人の少女が見え隠れしていた。二人とも、目は閉じたままだが、傷ついてはいないようだ。
「だ、大丈夫。祓いの刃は、ひとの肉体を傷つけない」
「本当? じゃあ――」
「ああ。剣、を」
「……うんっ」
 真っ直ぐ自分を見上げてくる錫の透き通った瞳に、安綱は力強く肯く。もう一度、二人で前を見据え、剣の歌を紡ぐ。
「「――この身に沈む、魂持ちて――」」
 彼等の周りを、音の糸が回る。それは口から零れる歌声が、形を成すもの。 
「「――この地を歩く、道へ進み――」」
 蜘蛛は先刻以上の脅威を感じているのだろう。断ち切られた糸を集め、己の身体を治そうとしているが、遅い。
「「――この命、須らく燃やし――」」
 極自然に、錫も、安綱も、繋いだままの手を前に出す。そして二人の掌をゆっくり広げると、そこに音の糸が集まり――
「「――己が炉より、刃を取出さん!!」」
 次の瞬間。安綱の手の中に、剣の柄が納まっていた。
 大きさは、今まで安綱が見たどのものよりも長大だ。幅広で、本来両手で振るうサイズの剣だというのが解る。それでもまるで、羽根の様に軽いのは変わらないのだが。
 そして、刀身の色が違った。今まで安綱の作り出した剣は、角度によって様々な色に見える、美しい銀色の刀身だった。しかし今のものは、形こそ変わらないが、色は錫の剣のように闇を固めたような黒。それにも関わらず、刀身からはまるで輝くような光を放っているように、ぼんやりと明るい。
 安綱は勿論、錫も今まで見たことの無い剣の形態に驚くが、それでもこの剣が非常に強力なことは解った。自分の歌が入ったのなら弱体化してしまう可能性もあったのに、と。
「こ、これなら――祓える」
「……ミモリさん、俺――」
「うん。――だいじょう、ぶ」
 何かを訴えようとした安綱に答えて、錫は剣の柄を、安綱の手の上から握り締めた。驚いたように安綱が、顔を錫の方に向ける。
「貴方、わ、私の願いを、叶えてくれた、から。今度は――私の、番」
 安綱を促すように、錫は彼のもう片方の手も取り、剣の柄を握らせる。
「貴方の妹、助ける。貴方の、手で」
 そしてその上から、もう一度しっかりと彼の手を握った。
「……どうすれば、いい?」
 自分の望みを先読みされて随分と吃驚した安綱だったが、蜘蛛が再び動き出そうとしているのを見て、ぐっと手に力を込める。錫の手は、まるで彼を導くように、僅かに力を込めた。
「このまま、真っ直ぐ。剣、使ったこと、ないでしょう」
「うん――」
「振ったら、払われる。振っちゃ、駄目。真っ直ぐ――突いて」
 剣の修行なら、嫌というほど兄達に仕込まれた。歌が全く駄目だったので、せめてこれぐらいは出来なければと、己に只管課したので。だから、最初に習った調律士としての基礎の基礎、恐れずに敵の懐へ剣を突き立てることだけを考える。
 と、自分の掌の下が、僅かに震えている事に気付く。
「……怖い、の?」
「うん……そりゃね。大丈夫、足は引っ張らないように、するから」
 腕も、肩も震えている。それでも、彼は逃げない。自分の手で、妹を助けるために。ほんの少し、場違いにも羨ましいと思ってしまった。彼のような兄がいたら、きっと自分は。
 埒も無い事を考えてしまった己を叱咤し、鈴は改めて蜘蛛を見据える。足はまだ修復は終っていないが、あまり時間は無い。
「こ、この剣なら、届く。真っ直ぐ走って、突く。それだけで、いいから」
「うん……!」
 僅かに、安綱が腰を落す。錫も同じく、剣と彼の手をしっかり握って、構える。
「あと、ひとつ。い、妹さんの――名前を、呼んで」
「え……?」
「祓いの剣に、名を込めて。そうすれば、妹さんの、魂を震わせて――負の音から、切り離せる」
 名を呼ぶのは、最も古い呪術の形だ。何ものでもないものに、それを現す名をつけ、存在を縛る。同時に、何ものでもないところから、存在を掬い上げることが出来る。
「あ、貴方が、私を呼んでくれたから。同じように、して」
「――……解った」
 安綱が、錫を呼んだように。錫が、安綱を呼んだように。真っ直ぐ自分を見詰めてくる少女の瞳に、理屈ではなく感覚で、安綱は理解した。
「行こう!」
「うんっ……!」
 どちらからともなく、声をあげ、走り出す。切っ先がぶれないように、錫がしっかりと片手を剣の腹に添え、支えたまま。
 蜘蛛は怒りと恐怖に震え、無事な足と牙を振り上げて威嚇するが、二人の足は止まらない。
 巨大な剣の切っ先が、正に蜘蛛の顔に到達しようとする瞬間、安綱は叫んだ。
「――すーこっ!!」




 菫子の意識は、ずっと混濁していた。
 教室に入ってから、何故か四方谷がちょっと不機嫌な顔になったから、どうしたのかと尋ねた後の記憶が、曖昧だ。
 確か彼女が、「邪魔なものをちょっと避けてくるから、すーこ待っててね!」とか言っていた気がするが、あまり覚えていない。
 後はただ、ぎしぎしと軋む音の中に、放り出されていた。
 酷く不快だった。まるで金属と硝子が引っ掻きあう音のような、鳥肌が治まらない音。自分よりも音に数倍敏感な兄だったら、ぎゃーと叫んで転がりまわるレベルだと思った。
 兄の事を考えると、ざわついていた心がほんの少し穏やかになる。彼女にとって、兄とはそういう存在だった。
 自分の性格が随分ときつく、冷たいものだということを菫子は知っている。だからこそ、友人が少ない。四方谷はそれを、自分が兄の面倒を見ているからだ、といつも見解を述べるが、それは間違いだ。単に、自分の人当たりが悪いのと、友人を作る努力をしていないせい。
 寧ろ、兄に頼って、甘えているのは自分の方なのだ。言い方がきつくても、冷たく拒絶しても、兄は鷹揚に肯いて、全て受け止めてくれる。飾らなくても過ごせる日々が居心地良くて、兄の傍から離れたくないのも、自分。
 でも、兄が自立をしたがっているのも良く解るから、それは言わない。もし言ったら優しい兄の事、自分を甘やかし尽くしてしまうだろうから。母の勝手な計画に乗りたくないという意趣返しも確かにあったが。
 いつも迷惑かけてごめんね、といつしか兄は言わなくなった。小さい頃は良く言っていたけど、その度に迷惑じゃない、とずっと言ってきたから。
 代わりに、いつも助けてくれてありがとう、というようになった。そうすれば自分も気持ち良く、どういたしましてと言えるから。
 ――……本当に助けて貰っているのは、いつも私の方なのに。
 ほら、今だって。兄が酷く心配そうな顔をしている。私の姿が見えるわけがないので、きっと私が変な声を上げてしまったんだろう。大丈夫だと、伝えたいのに、雑音がいっぱいで上手く行かない。
 四方谷が何か叫んでいるような気がする。その度に、雑音が増えて、まるで体中が音に食い潰されていくかのような錯覚を覚える。だってもう、腕も足も動かない。
 嫌だな、怖い。このまま、雑音だらけの世界に落ちてしまうんだろうか。せめて、何か、兄に伝えたくて、どうにか唇を開く。
「たすけて。おにいちゃん」
 恥ずかしい言葉を使ってしまった。お兄ちゃんなんて、小学校に上がった頃にはもう使わなくなっていたのに。仕方ない、今ちょっと意識が飛びかけてるし。ノーカンだノーカン。
 だって兄は、こう言えば、必ず助けてくれるから。
 ほら、今だって――
「すーこっ!!」
 四方谷はちょっと間抜けな徒名だと笑ったくせに、そのまま使い続けてるけど。
 小さい頃、自分の名前が変だ、嫌だと駄々を捏ねた時から、ずっとこう呼び続けてくれているのは、兄だけなんだから――



 巨大な剣は、真っ向から蜘蛛の頭に深々と突き刺さり。
 その瞬間、まるで花が蕾から一気に散るように、無数の針金と糸となって、弾けて散る。
 そして転がり出て来た二人の少女を、剣を捨てた安綱と錫が、しっかりと抱き止めた。