時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

歌を掲げよ、剣を紡げ

 針金で出来た木が乱立する森。
 安綱が最初に抱いた感想は、そんなものだった。
 手の中のお守りが消えてなくなった瞬間、周りが一気に暗くなった。そして気がつけば、あちこちに針金で出来たオブジェのような――
「……っ!」
 それの正体に気付き、息を飲んだ。ただの針金の塊、ではない。――人だ。
 沢山の生徒や教師が、針金にぐるぐる巻きにされ、生きているのか死んでいるのかすら解らない様で、固まっている。辺り一帯にそれが広がっていることを己が目で確認する事が出来、安綱は叫ぶ。
「っ……すーこ!! すーこ!?」
 もしかしたら、妹もこの状況に巻き込まれているのか。そう気付いたら矢も盾も堪らず、駆け出しながら叫ぶ。
「大丈夫ですよ、お兄さん。私がすーこを、傷つけるわけないじゃないですか」
「っ!?」
 不意に、真横から声が聞こえて仰け反った。慌てて距離を取ると、口の両端を上に持ち上げて、目を弓なりに細めている少女がいる。
「……四方谷、さん?」
「はい、いつも元気なよもちゃんですよっ?」
 勿論、初めて見る姿だ。聞こえてくる声は、いつもと全く代わりが無い。それなのに、目の前に見えている少女は例えようもなく不気味で、安綱は思わず一歩後退った。
「これは、君が、やってる、の?」
 無様に引き攣った声で、問う。そんなことはありえないと、必死に思っていたのに、少女はあっさりと首を縦に振ってしまった。
「はい。便利ですよね、これ。まさかこんなに簡単に、私の夢がかなうなんて」
「夢、って?」
「えへへ、お兄さんに聞かれるのはちょっと恥ずかしいですねぇ。すッごくシンプルですよ、私の夢」
 彼女の声は変わらない。彼女の笑顔は揺らがない。それが、何故こんなにも、恐ろしいのか。
「すーこを幸せにしたいんです。そのためには、お兄さんが邪魔だから」
 笑顔のまま、明るく、突きつけられた悪罵に、安綱の呼吸は一瞬止まった。
 沈黙の中。きしきし。きしきしと。針金だけが軋んでいる。
 いつのまにか、壁も、床も、天井も、針金ででたらめに覆われている。そうすると、何処に教室の扉があるか、机があるか、解って来て――この世界がどうしようもなく、現実である事が否でも知れた。
 そして、その針金をまるで蜘蛛の糸のように、ゆるゆると手先で操っている四方谷亜衣。
 彼女が糸を紡いでいるわけではない。あちこちに絡まり這う糸を、自分の手で解しているだけだ。
 それなのに、はらはらと落ちる糸は、組み合わさり、針金となり、まるで生きているかのようにその切っ先を全て安綱に向けてくる。
 信じたくはないが、信じざるを得ない。彼女が――今この状況を作り出している、原因なのだろう。
「どうして」
 思わず、そんな何の面白みもない言葉が口から零れてしまう。はらりと散った糸は、太い針金に絡まるようにして消えた。ネガティブな言葉はやはり、この針金の栄養になってしまうらしい。何とか震える唇を閉じて、歯を噛み締める事で押さえた。
「ううん、やっぱり泣き叫んだりはしないですよね。お兄さん、精神的にタフそうだし」
 その様子を見て、四方谷は仕方ないなぁ、と言いたげに首を振ってみせる。まるで仕方が無いから、道を塞ぐ石をどけないと、と言いたげに、安綱の方を見てくる。
「疑問、バリバリって感じですね?」
「そりゃあ、もう」
「じゃあちょっとだけ解説してあげます。元々私、喋るの大好きですし」
 ふふん、と何故か勝ち誇ったように胸を張ってから、でも、と四方谷は言う。
「実は私、この力が何なのか良く解ってないんですよね。何でか使えるし、便利だから良いんですけど」
 くるくると彼女の指が動くと、まるでそれに合わせるように針金が形を返る。正しく己の手足のように、彼女は負の音を御していた。
「邪魔する人とかは簡単に捕まえられるし、別人の振りして電話もかけられるし、本当有り難いですよー。日頃の行いが良いからですね、きっと」
「凄い自信だね……」
 半分怯え、半分呆れで思わず安綱が呟くと、彼女は心外だ、という顔をして、
「自信ありますよ! だって、堂々と外に愛人囲ってる父親とか、それが腹立つから好きでもないのにずっと離婚しない母親とか、世間体だけ考えて責めて来る爺婆とか、お金にしか興味ない親戚とか、そういうのの面倒ずっと見てきたんですから」
 立て板に水のように、笑顔のまま口から怨嗟を垂れ流す。それに呼応するように周りの針金は、まるで花が開くように動き四方谷を囲んでゆらゆらと揺れる。
「ニコニコ笑ってハイハイ言う事聞き続けるっていうのも、意外と大変なんですよぉ。まあ子供の頃からのルーチンワークですから、もう慣れましたけどね」
 しかし針金は、彼女を飲み込まない。逆に彼女を守るように、頭を垂れるように、傍から離れない。
「日々明るく元気に過ごしてたからこそ、こういうご褒美をもらえたんですよ、私。他人に迷惑かけず、ずっと頑張ってきたんだから、これぐらいは当然だと思いません?」
「――ッ!」
 何か、反論しようとした瞬間、ぞばっ、と針金が一斉に安綱の喉に殺到した。鋭利な先端が何十本も、真っ直ぐ安綱の喉に添えられて止まる。ごく、とどうにか唾だけ飲み込んで、恐怖を堪えた。
「言っときますけど、お説教なら聴きませんからね? お兄さんみたいに、他人に迷惑かけて当たり前の人には、私の気持ちなんて解らないでしょう」
「……、」
 今度は、完全に喉が枯れた。物理的に止められたわけじゃない。図星だ、と他ならぬ安綱自身が思ってしまったから。
 他人の我慢の上に自分の生活が成り立っていることを、安綱は良く解っている。だからこそ、他者に対して何か還元したいと望み続けていたけれど、上手くいかないのが現状で。
「だってすーこが幸せになるには、お兄さんが一番邪魔なんですもん」
 やっぱり軽く言われた言葉は、安綱の心の一番柔いところを、深々と抉った。
 その次の瞬間、ありったけの針金が、安綱の四肢を、身体を、首を締め上げた。
「かっ、は……!」
 一瞬呼吸が止まり、掠れた悲鳴が漏れる。幸い、首の拘束はすぐに緩んだが、他はそのまま、まるで安綱の腕や足を千切らんとばかりに、ぎちぎちと軋んでいる。
「私、すーこの気持ちようっく解るんですよ。出来損ないの家族のせいで、我慢して、我慢して」
 ゆっくりと、四方谷が安綱の傍を離れていく。その理由に気付き、安綱の血の気がさっと引く。
「甘える事も出来ないし、楽しい事も出来ないし、自分の力は全部搾取されて」
 四方谷の肩越し、その向こう、自分と全く同じ形で針金に拘束された小さな体。
「このまま一生、それが続くなんて、絶対に嫌」
 辿り着いた四方谷の手が、まるで子供を慰めるように、拘束の中でかくりと垂れた、暗い色の髪の頭を撫でる。
「だから私、すーこを助けたいんです。協力してくれますよね、お兄さん? ――貴方がすーこのこと、本当に大事に、思ってるなら」
 眠っているのか、気を失っているのか。ぴくりとも動かない少女の傍に立ち、四方谷はやっぱり、満面の笑みで、笑う。
 そして安綱は、妹の姿を、初めて、見て。場違いな状況にも関わらず、妹の姿すべてをその目に焼き付けようとした。この世界から出たら、もう二度と見ることが出来ないのだと解っているから。
「……ああ、もしかしてお兄さん。見えるんですか? すーこのこと」
 反射的に肯こうとしたが、首はしっかり固定されて動かない。四方谷は、それなら! と何故かとても嬉しそうに笑い、
「じゃあお兄さん、これからずーっとこの世界にいましょう! 目が見えるようになったんだから、もう一人でも平気ですよね?」
 ぎしぎし、ぎりぎり、と不快なノイズの中、四方谷の声だけは何故かはっきりと聞こえる。まるでその音をBGMにして、歌っているようだ。
 指を動かそうとすると、逆方向に捻じ曲げられる。痛みに悲鳴をあげると、すぐさま針金に食われる。
 否、既に安綱の目の前には、負の音がカタチを成していた。世界全てを締め上げる、針金を紡ぎ続ける――八本足の巨大な蜘蛛。ぞわりと全身に鳥肌が立つが、悲鳴は何とか堪えた。
「お兄さん、こういうの嫌いなんですよね? すーこから聞いてますよ。ちなみにすーこと私は、足が無いほうが気持ち悪いと感じる派です」
 大きく膨れた蜘蛛の胴体の上に、四方谷は座ってにこにこ笑っている。その隣に、寝転がった菫子の体を磔にして。
 妹の胸は僅かに上下を繰り返していて、安綱は安堵する。四方谷が、妹を傷つけるつもりがないことだけは本当だろう。そんな表情の動きを見て取ったのか、四方谷は心外だと言いたげに眉を顰め――その瞬間、四肢を同時に思い切り捻り上げられた。
「あ、ぐ……ぁっ」
「今失礼な事考えましたね? まあ大人しくしてなくても、別に構いませんよー。この子が元気になるだけですから、すーこの為にもなるし」
「た、めって」
「だってこれぐらい大きい子じゃないと、すーこのこと守れないでしょう? ただでさえ今、滅茶苦茶凶暴な人を閉じ込めているんだし」
「……ミモリさん、は?」
 凶暴な人、が誰であるのかは当然安綱には解らなかったが、彼女に危険が迫っていないかが気になった。
「ああ、あの人も何だか一生懸命、こっちを探ってたみたいだけど、全然見当違いばっかりでしたね。今も何だか無理しちゃってるし……どうせ何も出来ないんなら、止めればいいのに」
 ぴくり、と安綱の腕が動く。当然針金でぎちりと締め上げられたけど、悲鳴をあげるのは堪えた。
 四方谷が何故こんな風に、負の音を手に入れて、こんなことを仕出かしたのか――その理由は、安綱にはさっぱり解らない。
 彼女自身にも色々と思うところがあり、譲れないところがあり、それの結果的な集大成が今なのだということは、彼女の満足げな顔を見ればそれなりに理解できた。
 だが、だからこそ――安綱にも、譲れないものはある。
「決め付け、は良くないよ、四方谷さん」
 意味が解らなかったのか、四方谷は首を横に傾げている。じわじわと喉を締め上げてくる音に恐怖を感じつつも、安綱は言葉を止めない。
「ミモリさんは、強いよ。俺を二回も、助けてくれたから」
「ここまで来て他人の自慢ですか。本当、神経太いですね」
 今まで笑顔だった四方谷の顔が、僅かに崩れる。誰かの手を借りなければ生きていけない己は、彼女にとっては随分と、不愉快な人間なのだろう。今まで隠し通されていたのが、奇跡なのかもしれない。
 しかし安綱だって、その程度では凹まない。昔から、お前は変だと言われることには慣れている。向こうは聞こえていないつもりでも、自分の耳は随分と良いのだ。
「俺は」
 大きく息を吸い、身体を締め上げる音に負けないよう、声を張り上げる。
「すーこを幸せにしたいよ。そのためには、俺が邪魔だって、言うのも解る」
 四方谷は満足げに、肯いている。妹の方も、一瞬ぴくりと動いたような気がするが、安綱の希望が見せた幻かもしれない。
「でもさ。俺がいなくなったら、すーこは泣くよ」
 四方谷の眉間に皺が寄る。怒っているのではない、訝しげに見えた。彼女にとって、安綱が言った言葉の意味は、瞬間理解できないほどありえないことだったらしい。
 だとしたら、この子は――俺の妹を馬鹿にしているんじゃなかろうか。
「俺はね、見えなくたって、俺の事を好きでいてくれる人の好意ぐらいは、解ってるつもりだよ。すーこのなら、特にね」
「嘘。それじゃあなんで、すーこを苦しめるんですか」
「俺がいないと、すーこがもっと苦しむからさ」
「なんで! そんなことが解るんですか!? 勝手なこと言って、何も知らないくせに!!」
「こっちの台詞だよ。――君とすーこは、全然違う。俺やすーこや、ミモリさんのことを、勝手に解った振りしないでくれる?」
 悲しくは無い。寧ろ、安綱は怒っていた。普段飄々と生きている彼にとっては、珍しいほどに。
 四方谷が、菫子のことを好きなのだと、大切にしてくれているのは解る。しかし故に、四方谷は菫子のことを、自分と同じ立場で、自分と同じぐらい理不尽を与えられて、自分と同じぐらい助かりたいと思っているのだ――と、思い込んでいるらしい。
 安綱にとっては、それこそが理解出来ない。自分と、菫子は、別人だ。好きな食べ物も、好きな音楽も、何もかも違う。だからこそ、お互いの好みは良く知っている。これをやっちゃいけないという線引きだって、しっかり解っている。15年以上、一緒に過ごしてきた兄妹だからこそ。
「あなたに! 私達の苦しみなんて、解る筈ないわ!!」
「君の苦しみと、すーこの苦しみは別物だ。それだって、解る筈ないじゃないか!」
「違う! 違う! 私とすーこは、特別なんですっ!!」
 いつの間にか、針金たちの動きは止まっている。御していた筈の四方谷が、必死にかぶりを振って動揺しているからだろうか。安綱は何とか身を捩り、拘束を振り解こうとするが、流石にそれは許されない。
「愛されるって、凄く幸せなことでしょう? だから私は、すーこを愛するの。そうすればすーこだって、私の事いっぱい愛してくれるんだから!」
「誰かに愛されるのは、幸せさ。でも、愛が届かない場合も、いっぱいあるよ」
 母親だって、自分を愛してくれている筈だ。ただ、愛し方がちょっと自分と合わないだけ。気持ちだけ有り難く受け取って、従わないのも安綱の自由だ。――四方谷は、それすら許されなかったのかもしれないけれど。
「嘘、嘘、嘘! そんなことない、あいつらは私を愛してくれなかったけど、すーこなら!」
「だったら、聞いてみなよ! すーこ自身に!!」
 安綱の真っ直ぐな言葉が、四方谷に突き刺さった。すっかり笑顔を無くし、動揺したまま、隣の少女を見下ろした四方谷に、
「……ぁ、」
 いつから目覚めていたのか、まどろんでいたのか。菫子の睫が震え、瞼がゆるゆると開き、その目は――安綱を、真っ直ぐ見ていた。四方谷の方は、見ない。だからしっかりと安綱は、視線を合わせる事が出来た。
 そして、僅かに震えて、菫子の唇が開き。

「……た、すけ、て。……おにぃ、ちゃん」

 虚ろだが、それでも。兄に向けての言葉を、紡いだ。
 それは小さな光の欠片になって、ふわふわと飛び――安綱の鼻先に届き、ぱちんと弾ける。
「――嘘だああああああああっ!!!」
「う、あ!?」
 四方谷が、血を吐くような叫び声を上げた瞬間、安綱の身を拘束していた針金が一斉に暴れ出した。身体を捻じ切られるのかと思わず竦めた安綱に対し、針金たちは一斉に引いていく。それを訝しく思う間もなく、原因が解った。
 辺りを拘束していたありったけの針金や糸が、四方谷と菫子の周りに集まっていく。ぎちぎちと絡まり、蜘蛛は膨れ上がり――菫子の隣に、四方谷すらも飲み込んだ。
「すーこ!! すーこっ!!」
 必死に声をかけるが、もう妹の答えはない。針金によって編み上げられた大蜘蛛は、その身をひとつぶるんと震わせ、安綱に向けて牙をがちがちと鳴らしている。
 生理的な嫌悪感を無理やりねじ伏せ、立ち上がる。ゆっくり、悟られない程度に深呼吸を繰り返す。これを倒す為には、剣がいる。あの歌を、歌わなければ。
 だが――歌わせてくれるだろうか? 蜘蛛との距離は近い。ちょっとでも足を動かしたら、爪が届く距離だ。いつの間にか、宝石のように爛々と輝く八目が、安綱を見下ろしている。
 ぎしぎし、ぎりぎり、心を引っ掻く不快な音。その中に、四方谷の声が混ざっている事に、安綱の耳は気が付いた。
『誰かに甘えなきゃ生きていけない奴等なんて、大嫌い』
『皆私に荷物を渡して、誰も取りに来ない。どんどん荷物を増やすだけ』
『苦しいって言っても、もう嫌って言っても、誰も助けてくれない』
『だから、だから、すーこだけは、私が助けるの――』
 悲痛な声に、思わず安綱は眉を顰めた。彼女の事がどうしても許せなくて、強い言葉を吐いてしまったけれど。彼女は彼女なりに、正しいと思ったことをしただけだ。――自分の心に渦巻くものが、負の音であると気付かないままに。
 彼女にとっては、怨嗟も悪罵も、全部心の中に止めて置くのが当たり前で。だからこそ、外に零れ出そうな負の音に、煽られるようなことは無かった。それが、当たり前だったから。
 勿論、それは彼女が、ずっと我慢していたことと同義で。
 安綱の言葉に、最後の箍が外れてしまったのだろう。ずっと表面張力で堪えていた水が、たった一滴加えるだけであふれ出してしまうように。
『何も出来ないくせに、何も出来ないくせに、何も出来ないくせに!!』
 少女の声に呼応するかのように、蜘蛛は腕を大きく振りかざす。あれが真っ直ぐこちらに向かってくれば、あっという間に串刺しだろう。それでも、安綱は動かない。
「そうだね、俺には何も出来ない。だから、そういうときには、助けを呼ぶんだ。出来ない時には、誰かに手を伸ばすんだ。そうしないと、俺は生きていけない」
 一瞬、雑音が止まる。その後、ぽつりと呟くような、少女の声。
『また、甘えるんですか。最低ですね』
「そうかもしれない。でもね」
 ほんの少し、安綱は笑う。絶体絶命には違いは無いのに、最早恐怖を忘れたかのように。
「すーこは、俺に助けて欲しいって言ったんだ」
 雑音が止まる。蜘蛛の八つ目が、四方谷の怒りが篭ったように安綱を睨みつける。それでも、彼は引かない。
「助けを求めていないひとに、助ける手を伸ばすのは、そりゃあ傲慢だよね。でも、助けを求めてるように聞こえたら、俺は助けにいきたいし、何より今、助けて欲しいって言われたんだから」
 嫌悪や嘲笑、忌避が篭った声達の中で、それでも自分に真っ直ぐ向けられた声は、ちゃんと掴める。
 だから、安綱は耳を澄ます。17年生きる為、ずっと信頼している己の耳を。 
 雑音が途切れる中に、全く別の小さな声がする。
 小さな小さな、泣き声のようなもの。聞き間違いじゃない、確かに聞こえる。
 向こうの声が届くなら。――自分の声だって、届く筈だ。
「絶対すーこを助けるには、俺だけじゃ無理だもの。誰かの助けが必要なんだ」
 蜘蛛が牙を振りかざし、威嚇音を上げる。八本の足のうち、前の二本を振り上げ、安綱に向かって振り下ろす。その瞬間、安綱は声を思い切り張り上げた。
「助けて――ミモリさんっ!!」




「っ、あ……!」
 声が、聞こえた。校門の前で何も出来ず、座り込んでいた錫の耳に。
 気のせい、かもしれない。聞き間違い、かもしれない。彼女はそれぐらい、自分の能力を信用できていなかった。
 それでも、聞こえた。彼の、声が。
 昨日出会ったばかりなのに、自分の心配をしてくれた少年。
 目が見えないのだと、何の気負いも無く笑った彼。
 今まで知らなかった事を、教えてくれた。
 助けて欲しい時には、助けてと言って良いのだということを。
「た、……けて」
 酷使しすぎた喉は掠れて、上手く声を出せない。なんとか、一言だけでも、届けなければ。
 彼を助けたいなんて、なんて傲慢。本当に助けて欲しかったのは、自分の方だ。
「す……けて、」
 でも、彼の声が、聞こえたのだ。助けて、と。
「たすけて……!」
 彼が助かりたいと、自分を呼んでくれたのなら。自分が助けて欲しい時に、彼が助けてくれるなら。
「助けて、――やすつなぁっ!!」
 力を振り絞って、彼の名を、呼んだ。