時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

歌を掲げよ、剣を紡げ

 いつも通りの朝。
 奉来兄妹は、あまり人通りの多くない早い時間に登校する。人が増えると、安綱が道を非常に歩きにくくなるからだ。
 まだ朝練の運動部ぐらいしか通らない道を二人で並んで歩き、校門へ一歩入り込んだ、瞬間。
 ぞわり、と安綱の背筋に怖気が走った。
 まるで、今まで二回味わった経験のある、あの扉の中に入った時と、同じような空気の変化を感じたからだ。
 慌てて、辺りを「見回し」てみる。当然、世界はいつものように白い靄に覆われていて、何も見えることは無い。すぐ隣に立っているはずの妹の姿すら。
「どしたの、兄貴」
 その妹は、何の違和感もないらしく、声はいつも通り平坦だ。気のせいなのか、と上擦った心臓を深呼吸で押さえこみ、胸を撫で下ろす。
 すると、掌の中でちりり、と音がした気がした。右手の中に入っているものを、親指で撫でて確認する。昨日錫から貰ったお守りだ。何となく手の中に入れるのがしっくり来て、朝家を出る時からずっと握り締めていたものだった。
 背骨に走っていた不安が、するりと大人しくなる。お守り凄いなぁ、とこっそり思いながら、改めて錫に感謝をする。たとえ気休めにしかならなくても、本当に気が休まるのなら有り難いことこの上ない。
「すーこー! おっはよー」
「ああ、おはよう」
「おはよ、四方谷さん。四方谷さんも早いね?」
「ちょっと今日用事があったんですー。これぐらいにくればすーことも長く遊べるし」
「お前昨日アレだけつるんでおいて、まだ足りないのか」
「足りないね! 足りないね全然! というわけでさー教室行こう!」
「元気だねぇ」
「だから、引っ張るなって……!」
 朝から元気な友人に引き摺られていく妹を笑顔で送り、改めて錫の教室に向かう。また怒られても今度はちゃんと答えられるように、色々とシュミレーションしながら。
 しかし、彼の用意は全くの無駄になる。
 始業時間ギリギリで彼女の担任から聞かされた答えは、「未森錫は本日急病の為病欠」とのことだった。



×××




 錫は走っていた。仮寝宿から学校まで、急げば五分とかからない。
 昨日の夜遅く、窓硝子を叩いた夜闇に不似合いな姿に、色々思うところがあって眠れずにいた錫は飛び上がった。刃金の写し身であるその鸚鵡は、「学校が負の音に飲み込まれたこと」と「未森白銀が行方不明であること」を、実に冷徹な口調で告げた。
 そして、新しい手練れの調律士が今日中に到着するまで、何もせずに動くなという命が下された。今回の失態については追って沙汰する、と付け加えられて。
 最初は、とにかく凹んだ。結局自分には何も出来なかったと。
 次に慄いた。あの下の兄がお役目でしくじるほどに、今回の相手は強いものだったのかと。
 そのまま眠れずに一夜明け――登校時間になっても、錫は動かなかった。動けなかった、とも言える。これ以上自分に出来ることは何も無いのだから、後はただ兄の命に従っていれば良いと。
 それでも。
 負の音に飲み込まれた場は、物質と音の関係が逆転する。今まで扉の向こうへ人間を引きずりこんでいた負の音が、大手を振って扉のこちら側へ現れてくる。そうなれば、片端から負の音を集め、更に膨れ上がっていく鼠算だ。尚更、錫に出来ることは何も無い。
 それでも。
「――ッ!!」
 錫は走っていた。息を切らせて、全力で。
 どうしようもないのだと、自分の部屋で膝を抱えていたとき、ぴちりと右手親指の爪が割れた。幸い、血が出るほど深いものではなかったが、それが起こった原因について気付き、はっとなった。
 錫が安綱に託したお守り袋は、気休めぐらいにしかならないもので、大きな負の音の負荷がかかれば、お守りの方が弾けて力を失う。その際に、揺り返しとして作った当人の体が傷つく事もあることを、錫も良く知っていた。
 彼が。あのお守りを持ったまま、学校に行っている。そして多分もう、その守りの力は殆ど尽きてしまっている。
 そう気付いた瞬間、頭の中は焦燥で一色になった。早く行かないと、早く助けないと、と。自分に出来る事など何もないと、あんなに解っていた筈だったのに。
 もう既に登校するものが居なくなった通学路を駆け抜け、既に門が閉まっている校門を乗り越え――中に転がり落ちようとした瞬間、ばつん! と弾かれた。
「うあ!」
 当然、バランスの悪い校門の上から錫の身体は落ちて、地面へ強かに身を打ちつけた。痛みを堪え、もう一度潜ろうとするが、同じ。
「……これはっ」
 もどかしさに歯噛みする。不快な、金属が軋むような音が、学校の敷地内全域で響いている。まるで巨大な蜘蛛の巣のように、負の音の糸で全体が覆われているのだ。
「――己が炉より、刃を――!」
 錫は歌う。歌い、己の身そのものである歪な黒い剣を作り出す。音に飲み込まれた世界を破るには、音しかない。いつも見るたびに己の不甲斐なさを感じて嫌になるが、今はこれしか使う手立てが無い。
「――っあああ!」
 裂帛の気合と共に、剣を糸の網へ叩きつける。金属同士がぶつかる不快な音が響き、剣は少し刃こぼれしたものの、網には傷一つついていない。
 それでも、錫は剣を振るう事を止めない。どうか、どうか、間に合ってくれと必死に願う。
「無事で、いて……!」




×××



 一体、この違和感は何だろうと、安綱は朝からずっと考えていた。
 いつも通りの授業、いつも通りの喧騒、それに包まれている筈なのに、何故か尻の座りが悪いような違和感が消えない。
 耳を澄ますと、またあの針金の擦れる音がずっと続いているような気がして、思わず自分の手で腕を擦った。
 どうにも不安で、机の中に入れた手の内で、お守りをずっと撫でていた。
 ……もし彼の目が見えていたら、そのお守り袋がまるで火の中にくべたように、真っ黒になっていることに気づいただろうが、残念ながら手触りは全く変わっていなかった為、安綱には気付けなかった。
 一時間目が終ったあたりでいよいよ不快感に耐えられなくなり、せめて風に当りたくて教室の窓を開ける。
「――あれ……?」
 薄ぼんやりと。遠くに何か、影が、見える。見えている。安綱に。
 ごし、と自分の目を擦る。いつも通りの真っ白な視界の中に、ほんの小さく揺れる影がある。
 如何すれば遠くのものを良く見れるのか解らなくて、とにかく身体を乗り出してみる。周りのクラスメートが危ないぞ、と言ってくれているが、今はそちらに心を割く余裕が無い。
 ……見えた。白い靄の向こうで、何度も何度も、剣を振る影が。
 そして気付く。この白い靄はいつも安綱が囲まれている風景ではないことを。
「う、わ……!」
 銀色の針金が網目のように細かく、辺り全てを覆っていたからだということを。
 一体何が起きたのか、当然安綱には解らない。
 でもきっと、あそこにいるのは未森錫なのだろうと解ったから。あの世界で2度も「見た」姿を、忘れることなど出来なかったから。
 周りの机を蹴飛ばす勢いで走り出し、扉にぶつかってから思い切り引きあける。クラスメートから驚きの声をかけられたが、構わない。
 廊下に飛び出し、階下へ向かって駆け出そうとした時、不意に「目の前に姿が現れた」。
「え、え」
 完全に機先を制され、安綱は踏鞴を踏む。目の前に、誰かが、立っているのが、見える。反射的に何故、と考えてしまい、状況把握が遅れた。
「あ、お兄さん。丁度良かったです」
「その声は――」
 かなり聞きなれた部類の声だ。今朝も、聞いた。妹と話しているとき、本当に嬉しそうな声だった。
「それ、そろそろ限界だと思うんですが、中々しぶといので――えいっ」
 そして今、やっぱり彼女は心底楽しそうな声で。
 安綱の片手を無造作に引っ張り、その手の中に握り締められていたお守りに触れた瞬間。
 まるで焼け落ちたかのように、安綱の手からぼろぼろと灰のように崩れ去った。



×××



「うっ、ぐ!」
 不意に手に痛みが走り、錫は悲鳴を上げる。割れた爪の間から、じわりと血が滲み出ていた。
「っ、早く、はやくしないと……!」
 泣きそうになりながら、錫は剣を構える。もう何十合目かの一撃を、まるで利いた風も無い針金の網に叩き込む。
 何も出来ない。何にもならない。全く変わらない現実に、絶望が雪達磨式に襲ってくる。
「だめ。助けないと――助けないと」
 目尻に涙が浮かぶ。負の音が作り出した繭は強固だ。白銀が生きているとしても、内側から破ることは難しいだろう。錫の剣の腕では、尚更。
 もう既にぼろぼろになった、刃こぼれだらけの剣へ向けて、それでも錫は歌う。
「わたしが、助けないと、いけないのに」
 歌が泣き言に変わっても、止めることが出来ない。それ以外に、出来る術が無い。
 ばりん、と何度目かの剣が砕けた。
「はっ、は……は……!」
 息が上がり、喉が引き攣る。一体何合叩きつけたか解らないが、相変わらず繭には僅かな傷がついただけ。
 かくり、と膝から力が抜けて驚く。立とうとしても、動かない。
「動、け、ばか……!」
 血の滲んだ掌を握り締め、自分の腿を叩く。目の前がじわりと歪み、慌てて擦る。
 嘆いている暇があるのなら、剣を振るっていた方が余程有為だ。何度も息を吸い、どうにか呼吸を整えて、再び歌を紡ごうとした瞬間――
『……か、聞こえ……! 応…………ろ!!』
「っ、んぐ、げほっ!」
 酷いノイズの中から僅かな声が聞こえたと同時に、何度も剣を叩きつけていた眉の壁に、びすん! と細い刃が内側から突き立った。驚いて咳き込んでしまう錫の声が聞こえたのか、壁近くまで近づいたらしい男の声が、先程よりは聞き取りやすくなった。
『ッチ、てめぇかよ愚図が……!』
「……白銀、兄様!?」
『そう呼ぶなっていつも言ってんだろがァ!!』
「ご、ごめっなさ!」
 反射的に謝ってしまったが、行方知れずだった兄が無事だったことによる安堵で、錫の顔と声は自然と綻んだ。負の音の壁の向こう側ででも、白銀の優秀な耳はそれを聞き届けたらしく、一瞬言葉が止まる。それに気付き、また怒られる! と慌てて首を竦めた錫に対し、しかし兄の声は意外と落ち着いていた。
『……そこにいんのはてめぇだけか?』
「あ、は、はいっ。刃金兄様が、応援を寄越すまで、待てと――」
『待てるかボケェ!! 俺がどんだけ祓ってると思ってんだあの阿呆兄貴がァ!!』
 怒号と共に、再び繭から刃先が飛び出す。しかしそれは再び針金にじわじわと飲み込まれ、僅かに開いた隙間もすぐに修復されていく。
「し、白銀様、あまり怒ると、負の音が」
『だったらテメェが苛つかせるんじゃねぇよッ!! ――やっと少し大人しくなりやがった。中に指針と、餌がいるな。まだ食われちゃいねぇようだが、時間の問題だ』
「……!」
 兄の言葉に、息を飲む。正体不明だった「指針」と、彼が。焦りが背筋を走り、震え出す錫に対し、荒い白銀の声は続く。
『指針の奴は俺にはビビってやがる。とっととこんな壁ァぶち壊して、指針の野郎を引きずり出してやらァ! てめぇは其処で蹲ってろ!!』
「でっ、でも!!」
『あァ!?』
 今度こそ完全に苛立ちだけの兄の言葉に、足が竦むけれど。今だけは、その言葉に従うことは、出来なかった。
「だ、っめ、です! わ、私が」
『――』
「私が、助け、ないと! こ、声に出して、約束、しました!」
 調律士にとって、全ての契約は文字を使わず、声によってのみ行われる。音を操り奉じる彼等にとっては伝統であり、また彼等にとって非常に口約束が重くなる。錫も、勿論白銀もそれを知っているのだが。
『――黙れよ、出来損ない』
「っ、……」
 兄の声は、いつに無く静かだった。これ以上負の音を活性化させないためもあるだろうが、それは普段の罵声よりも強く鋭く、錫の胸に突き立った。
『てめぇに何が出来る? いつもいつも碌な祓いも出来ず、兄貴に尻拭いばっかりさせてる糞餓鬼が。てめぇ風情が、この俺を、未森白銀の身を案じるつもりか?』
「っ、ぅ……ぅ」
 兄の言葉には、怒りしか込められていない。まるでその声に呼応するかのように、繭の壁がぎちぎちと軋んでいる。兄の発する負の音を、食って育っているのだろう。
 その奥に篭められているほんの僅かな心配に、やはり完全に萎縮してしまった錫は気付く事が出来ない。
『解ったらさっさと――チッ、またきやがったか!』
「っ、白銀様っ!?」
 罵声と共に、金属がぎしぃ! と軋む音がして、兄の声が聞こえなくなった。恐らく兄の力を警戒した指針によって、厳重に隔離されているのだろう。
「……あ……ぁ」
 ずっと堪えていた、涙が溢れた。兄の言っている言葉は、錫にとっては全て正しい。もしこの繭の中に入れたとしても、自分は何の役にも立たない。
 完全に思考が停止してしまった錫は、これからどうすればいいのか解らない。上の兄も下の兄も、他の家族も、一族も皆、今まで彼女が出会ってきた人々は、誰一人――昨日初めて顔を合わせた、暢気な少年以外は。
 彼女が何も出来なくなった時、手を貸したことなど、今まで一度も無かったのだから。