時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

歌を掲げよ、剣を紡げ

「あー……」
 時間は既に、夜の9時を回った頃。リビングのテーブルにべったりと突っ伏し、安綱は重い溜息を吐いた。掌の中で、貰ったお守り袋を弄びながら。
「どしたの。結局、転校生と会えたの?」
 放課後は友人に振り回されたのだろう、少し前にやっと帰ってきた菫子の声がする。先刻脱衣所の扉が開いた音がしたから、多分風呂上りなのだろう。ぺたぺたという妹の足音が、一旦遠ざかり、冷蔵庫を開ける。
 テーブルに片耳をつけて、そこから響く音と空中の音を同時に聞く。何かを冷蔵庫から取り出す、コップを置く、注ぐ音が二回、キャップをあける音はしなかったから多分牛乳だ。
 そして自分の手の横に、こん、とコップの底が叩く音。掌をそちらに向けると、妹はきちんとそこにグラスを納めてくれる。起き上がって、中身を一口。やっぱり牛乳だった。
「ちょっと色々、反省中」
「セクハラを?」
「そうじゃないっていうか、それどころじゃなかったっていうか」
「ふうん?」
 菫子が椅子に座る音がする。今日は兄の愚痴を聞いてくれる気分のようだ。やっぱり普段のストレス解消って大事だよな、としみじみ思いながら、少しだけ妹に甘えることにする。
「ミモリさん、色々と大変そうでね。何か助けようかって言ったら、素人が何言ってるって怒られちゃった」
「物凄いはしょりっぷりだけど、大体解った。兄貴の言った台詞が、すっごい傲慢だってこともね」
「うん。だから尚更反省中」
 安綱は生まれつき、自分だけで出来る事、というものが少ない自覚はある。卑下だとも思わない、純然たる事実だから。だから、自分が何か力になれるのならば、それを出来る限り行いたいという希望が常にある。
 自分も生きていけるという安堵が欲しいのか、他者の驚きと賞賛が欲しいのか。多分両方だ。己は俗物であり、世間が障害者に求めていると思われる、聖人紛いの気骨は持てない。
 でも、たった一人で、あんな恐ろしい場所に赴いて、戦っているのだろう少女を思う。
 彼女にとっては自分など、足手まといにしかならなかったのだろう。――それでも。
「反省、長いね」
「え?」
 牛乳を一気に飲み干したのか、かつんと硬い音をテーブルに響かせてから菫子が言う。一瞬意味が解らずに首を傾げると、いつも通り妹の訥々とした声が聞こえた。
「いつもなら、せいぜい1分ぐらいで『はい反省終わり! ひゃっほーポジティブ!』って叫びながら、反省した事を微塵も無く忘れるくせに」
「忘れてないよ! ちゃんと覚えてるよ! えーとまあ、確かに」
 容赦の無い妹に反抗しながらも、安綱にも自覚はあったので納得の意を返す。元々人間が軽いのだ、悩むのも迷うのもあまり性に合わない。
 コップをちょっと離して置いて、またべたりと突っ伏する。頬からのひんやりした感触が、ごちゃついていた脳味噌を冷やしていってくれるようだ。
「……うん。納得がいってないんだね、俺」
「具体的には?」
「……言葉の内容と、声の感じが、ちぐはぐに聞こえたから」
「……もっと具体的に」
 妹にはいまいち解り辛かったらしい、不機嫌な声が降って来る。ごめんと言いつつ、彼女の声を思い出した。
 安易な安綱の言葉が、彼女の誇りを傷つけてしまったのだろう、馬鹿にするなと叫んだ彼女の言葉は、しかし。
「言葉が怒ってるのに、声が泣きそうだったんだよ」
「ふうん。……女には割とありがちなことだけど」
「えっそうなの」
「感情が昂ぶると、悲しくも無いのに涙が出る場合も、ある」
「おお……懐かしアニメの歌詞は、あながち間違って無かったのか……」
「でも」
「うん?」
 今まで知らなかった知識に安綱が驚愕しているうちに、妹が前言を翻した。
「兄貴の耳は、信用してるから。多分当ってると思うよ。知らないけど」
 無責任な事この上ないという自覚ゆえの最後の言葉まで、きちんと聞いて。
 なんとも面映くなって、安綱は両腕の中に顔を埋めた。
「ありがと、すーこ」
「どういたしまして」
 お礼を言ってから、ずっと閉じたままだった片手を開く。お守り袋は入っているものが柔らかいのか、ちょっとひのってしまったようで、慌てて指で伸ばした。妹がその手を覗き込んでくる気配がする。
「なにそれ?」
「ミモリさんに貰ったんだ」
「ご利益は?」
「ええと……、悪い夢を見ない」
 咄嗟に吐いた嘘だが、内容的には間違っていない筈だ。昨日の出来事も、菫子はほぼ夢だと思っているわけだし。事実、妹はふーん、と流してくれたようだ。
「じゃあ、そのお礼にかこつけて、改めて謝ってきたら? その上で、兄貴がしたいことすればいいよ。セクハラ以外で」
「いい加減セクハラから離れてください! 兄の威厳がゼロどころかマイナスに!」
「何を今更」
 手厳しい妹の声に泣きつつ、せめて洗い物をしようと、自分も牛乳を飲み干して菫子に手を伸ばす。妹も承知の上で、その掌の中に自分のコップを入れてくれたわけだが。
「――菫子! 何してるの!」
 上擦った悲鳴のような声に、安綱は驚くが、コップを落とすことは堪える。その内に、荒々しく近づく足音の後に、手の中のコップが二つとも奪われる。指に紐を引っ掛けていたので、お守りは落さずに済んだ。
「お兄ちゃんにそんなことをさせるなんて、何考えてるの! 貴女がやらなきゃいけないことでしょう!」
 丁度、喋っている最中に外から帰ってきたのだろう。玄関が開く音に気付かなかったのは、迂闊だった。母が仕事から帰ってくる時間を、失念していたのも。
「母さん、いいよそれぐらい、俺出来るし」
「駄目よガラスなんて、怪我をしたら如何するの! 菫子、早く洗いなさい」
「……過保護ババア」
「なんですって!?」
 ぼそりと呟いた妹に、母の声はヒステリックさが増す。
 安綱と菫子の母――奉来桜子は、離婚した父に代わり、一家の大黒柱として夜遅くまで仕事をしている。幸い、実家が裕福な為、子供二人が大学へいけるぐらいの援助は受けていられる。それでも今のご時世、稼ぐに越したことは無いという持論により、並みの男性ぐらいには給与を稼いでいる。
 それだけならば、真面目でしっかり者の母だ。しかし、母による兄妹間のどうしようもない扱いの差には、二人とも辟易としている。
 ……母の名誉の為にフォローを入れるのならば、仕方が無い部分もある。生まれつき盲目の安綱を生んだ時、自分のせいだと己を責め続け、自分の子だと認めなかった夫には絶縁状を叩きつけた。
 彼女にとって、安綱はどこまでいっても「可哀相な子」であり、「庇護対象」なのだ。
 その皺寄せが――全部、妹の方へ向かってしまっても。
「我侭言うんじゃありません! 貴女がお兄ちゃんの面倒見なくて、如何するの!」
「アンタに言われなくても、あたしはちゃんとやってるよ! そんなにやりたきゃアンタがやれば!?」
「母親に対して、何て口の聞き方なの!」
 女性二人がヒートアップしてきたのが解ったので、安綱は手を伸ばし、母の肩と妹の腕を同時に掴む。そうすれば二人とも、取りあえず言葉は止めてくれるからだ。
「母さん、俺がやりたいって言ったんだから、すーこを怒らないで」
「まぁ、いいのよ安綱、貴方はそんなこと――」
「一人でこれぐらい出来ないと、駄目でしょ。高校卒業したら、多分家出ることになるんだし」
「でも安綱、貴方はね」
「母さん」
 少し強く言って、肩を掴む手に力を込める。次に来る言葉が、何かはもう解っている。何度も言われてきたからだ。小さな頃なら「貴方はずっと家に居ていいのよ」、最近は「それなら、菫子と一緒に暮らしなさい」だ。
 母が己に向ける感情が、愛情であるのは解っている、解っているけれど。
 それはまるで甘ったるい蜂蜜のように、どろどろと自分に被さって動けなくなる気がする。
 そして蜜の沼の中に、優しい妹まで引きずり込む気は微塵も無いから。
「すーこの花嫁修行ならもう充分すぎるぐらいでしょ。……見てもらってるからさ、母さん風呂入ってきなよ、冷めちゃうよ?」
「そ……そうね。それじゃあ菫子、ちゃんとお兄ちゃんの傍にいるのよ?」
 笑顔を作って妥協点を出すと、母も一旦矛を収めてくれた。ダイニングから出て行く背中を見送り、兄妹、どちらからともなく溜息を吐く。
「……ごめん、兄貴」
 母に対する反発心が、兄まで巻き込んだことを詫びているのだろう。それと同時に、兄の傍にずっといられないという当たり前の事実に関しても謝辞を向けている。いつになく小さな妹の声に、今度は心から微笑んで、頭を撫でてやる。いつもなら振りほどかれるそれは、抵抗されなかった。
 この優しい妹を、自分の人生の犠牲になんて、絶対させられない。こんな面倒な兄の事なんて、全部とは言えないけど適度に放って置いて、友達と沢山遊んで、いずれはきっと恋をして。その時自分は多分泣くだろうけれど、それ以上に祝福したい。
「なんですーこが謝るの。言っとくけど俺の夢は、すーこの結婚式ですーこに手紙読んでもらうことなんだからね?」
「え、それはやだ。恥ずかしい」
「えええー俺の夢一撃粉砕!?」
 容赦の無い切り捨てに叫ぶと、僅かに噴出す声が聞こえた。妹の復調に安堵して、今度は両手でわしわし頭を撫でてやろうとして。
 お守りを持ったままの手の中から、ぱちん、と僅かな音がした。
「っ? 今の何? 静電気?」
 驚いた妹の声に、先刻の音が聞き間違いでないことを知る。慌てて手を引き、お守りに触れてみるが、何も変わった様子はなさそうだ。
「すーこ、このお守り何かさっきと変わってない?」
「何で? ……何にも変わってるように見えないよ。私は久しぶりに母さんとやりあったせいかな、なんかすっきりしたけど」
「そ、そう?」
 今の音はもしかして、「負の音」とやらを退けた音だったのだろうか。菫子の吐き出した悪感情を、このお守りが祓ってくれたのだろうか。いつもなら、母親と言い合いした後の妹は、一晩中不機嫌が治まらない筈だから。
 ――やっぱり明日、もう一度ミモリさんに会いに行こう。聞きたいことが、まだ沢山ある。
 決意を込めてお守りをぎゅっと握り締めてから、安綱は改めてコップを洗うことにした。



×××



 夜の学校の屋上で、響く声がひとつ。
「――来たれ来たれ、我が風。この響きを轟かせ、祓い、掃い、払え」
 朗々と響く男の声に従うかのように、風が巻く。まるで学校全体が竜巻の中に飲み込まれるように、轟風が荒れ――
「――聞け、我が名は――白銀なり!」
 歌が止まった瞬間、男は天に突き上げた拳を握る。すると同時に、今まで吹き荒れていた風が、ひたりと止んだ。それを面白くも無さそうに一瞥し――ふん、と未森白銀は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
 この学校に溜まっていた負の音は、殆ど祓った。錫が一月以上かかっていたことを、たったの一時間でやってのけるだけの実力が、彼にはある。彼にそんなことを言ったら、あの愚図と比べるなと激昂するだろうが。
 しかし、彼の顔は晴れない。何故なら、状況は全く好転していないからだ。
 と、闇夜にも関わらず鳥の羽ばたきが聞こえ、ますます白銀の眉間に皺が寄る。それは鮮やかな黄色の羽根を持った鸚鵡であり、彼の近くの柵へその足を止まらせる。
 それに合わせるように、白銀は己と鳥の周りに音の壁を張り巡らせた。今日、妹に対して使った時よりも、幾分広い。かなり高度な術式である筈なのだが、彼は眉一つ動かさずそれをやってのける。
 当代の調律士でこれだけのことが出来るのは、僅か一握り。そのうちの一人が彼であり、また彼の兄でもあった。
『――白銀。首尾は如何だ』
「チッ。相変わらずお山に引き篭もりかよ、糞兄貴」
 露骨な悪態に、艶のある声で答えた鸚鵡は怯まない。彼の兄――未森刃金が作った声の分身だ。洞のような黒い瞳で、じっと白銀を見上げている。
『質問に答えろ』
「へいへい! ――如何にも、妙だな。あの愚図がどうっしようもねぇ愚図のせいかと思ってたが」
『――「指針」が見つからないのか?』
「あァ。場はこの学校だ、そりゃ間違いねェ。んで今、大体のモンは取っ払った。にも関わらず――親玉が、何処に潜んでんのか解んねェ」
 不機嫌そうに柵へ寄りかかり、取り出した紙巻に火を点ける。音が聞こえたのか、兄の不機嫌な声が僅かに低くなった。
『煙草は止めろと言った筈だ。喉を痛める。それと迂闊に感情を垂れ流すな、何度言えば――』
「いっちいちっせーんだよ糞がァ! 食いついてくんなら寧ろ御の字だァ、どうなってんだ此処ァ!」
 苛立ちのままにだん! と床をブーツで踏み鳴らし、白銀が叫ぶ。
「昼間此処に集まる人間は全員調べたぞ!? なのに、負の音を呼ぶほど溜まっちまってる奴が一人もいやしねぇ! これだけ餌撒いてやっても食いついてこねェ!」
 白銀は、この学校に通う生徒、勤める教師や事務員等、全ての人間に、負の音の指針となるほどの鬱屈した者は居ないという結論をつけた。彼の耳ならば、己が内に溜め込んだ負の音すら聞き分けられる筈なのにも関わらず、だ。十の齢から調律士としての役目を果たしてきた白銀にとっても、これは初めての経験だった。
 苛々と煙草のフィルターを噛み潰していた弟に、黙考していたらしい金の鸚鵡は漸く言葉をかけた。
『――非常に例は少ないが、無くもない』
「あァ!?」
 荒げた己の声に全く煽られず、ただ冷静に言葉を紡ぐ兄の声に、苛立ちつつも白銀は耳を欹てる。祓い歌の腕に関して負ける気はしないが、戦況の分析や知識量に関して、白銀は兄に敵わない。粗野で短絡的な男であったが、それを理解するだけの頭の回転は持ち合わせていた。
『……負の音を呼ぶは、己が中の負の音。飲まれた魂は、震えて、堕ちる。それが常道だが……極稀に、如何なる負の音に触れても、それに犯されぬ者がいる。決して、負の音を忌避しているわけではない。寧ろ、逆だ』
「チッ、いちいち言い回しがくどいんだよ。結論言えや」
『……幼い頃から、己が負の音を全て飲み込み、飼い殺していた場合だ。それにとって、負の音は異変ではなく、常態。負の音の溜まりに漬かっても、指針にはならず、寧ろ負の音を手足として動かす事になる』
「ッそれなら、聞き取れないわけァねェ! 俺の耳を舐めるなよ!?」
『無理だ。我等の耳に届くのは、負の音に揺れる魂の音。最初から負の音に満たされていれば、揺れる事もあるまい』
 兄が淡々と語る事実に、白銀も僅かに顔を青褪めさせる。
 負の音は、誰の心にもある。耐え切れずに口から零してしまうのも、当たり前だ。しかしそれは、負の音を内に篭らせることが、とても苦しいから吐き出さざるを得ないのからなのだ。だからこそ魂は揺れ、調律士の耳にその音を届かせる。
 もし、それに苦しみを感じていない――正確には、あまりにも負の音に慣れすぎて、溜め込んでいる事に気付いてすらいない者がいるとしたら。
 偶さかに顕現した負の音を捕え、共鳴してもおかしくはない。その時点で負の音は只の現象ではなく、明確な意思を持った人間の武器となる。その危険さは同じでも、どちらが御し辛いかは容易に知れた。
『無論、負の音が増え続ける限り、いつかは御しきれずに飲まれるであろうが、そこまで待つ理由も無い。この推論が事実であるなら、錫には荷が重過ぎる。――お前に任せた』
「ハッ、元からそのつもりだったぜェ?」
『……また錫に勝手な命を与えたな?』
「兄貴だって同じじゃねぇかよ」
『私は未森頭領代理だ』
「所詮代理だろうがよ、親父が死ぬまではなァ」
『……』
「……」
 ぴしり、と空気が沈黙する。白銀は露骨に眉根をぎりりと寄せ、金の鸚鵡はその視線を弟から逸らさない。
 未森家の次期頭領に関しては、刃金派と白銀派にそれぞれ沢山の賛同者がつき、真っ二つに分かれている。度量に関しては刃金が、実力に関しては白銀が、一歩も譲らない。故にこの二人の兄弟も非常に仲が宜しくない、と思われがちで、それは間違いでも無いのだが。
『……あれに足りないものは多いが、この家で生きる為には己が技を磨くしかあるまい。お前のしていることは只の甘やかしだ』
「は! あんな役にたたねぇ愚図な餓鬼、現場に出せるわけねぇだろうが! とっととお山に引き篭もらせとけよ、兄貴みてぇにな!」
『他家の頭領達はそれで納得すまい。未森の調律士に相応しいだけの技量を得ねば、嫁の貰い手も無くなる』
「嫁ェ!? あの愚図がンなもん、それこそ夢物語だろーがッ!」
『既に幾つか、縁談は来ているのだ。滅多な相手には出来んが』
「……マジかよ」
『何だ、錫が嫁ぐのが寂しいか』
「ッッッんなわけねえだろがッ!!!! そんなん、兄貴の方だろうがよ!」
『――何?』
「はッ、なんだかんだ言って、錫を自分の手元に置きたいから無理難題ふっかけてんだろうが! 現場に出られねぇからって私情混じりすぎなんだよ!」
『黙れ』
「図星かァ? お兄ちゃん?」
 勝ち誇ってふふん、と鼻を鳴らす弟と、相手が弟でも構わず刺し殺しそうな目をする鸚鵡。
 調律士の役目自体に関して、この兄弟がいがみ合うことは、実は滅多に無い。彼等がこうやって露骨に反発し合うのは――どうしようもない出来損ないと口さがなく言われ続けている、彼等にとってたった一人の、妹に関することだけだった。
 上の兄は厳しく役目を命じることで、下の兄は貶して現場から遠ざけることで、彼等は彼等なりに、妹を守っているつもりであるらしい。自覚があるかどうかは、お互い別にして。……錫本人にとっては、その本意が通じない限り、どちらも怯えの対象にしかならないのに違いは無いが。
 さて、このように埒も無い兄弟喧嘩をしていても、白銀は全く油断していなかった。ここは調律士にとって敵地であり、常に警戒の網を張り巡らせていた。己が負の音を迂闊に振り撒かぬよう、音の壁も念入りに張っていた。
 ――それなのに。
 ぎしぃ! と不意に、空気が軋む音。何の前触れも無く、突然に。
「! ――来いッ!」
 反射的に白銀は宙に飛ぶ。声をかけたのは兄の分身ではなく、その場に広がる風そのもの。答えるように巻き上がった風により、身体を空に浮かせ――
 銀色の針金が、その足に巻きついた。
「何だとォ!?」
 いつの間に、と驚愕する。何度でも言うが、彼は全く油断していなかった。負の音など、今の今まで、全く耳に届かなかったのだ。
 ならばこれは一体何だ? いつの間にか物質の世界を侵食するほどに、音の世界から漏れ出て来た負の音ではないのか――!?
 逡巡が、完全に彼の勝機を奪った。屋上のタイルの隙間から、見る見るうちに銀糸が溢れ出し、まるで花が開くように広がっていく。白銀を飲み込むために。
 そこで、気付く。学校のグラウンド、校門近くに誰かが立っている。白銀に今の今まで、その存在を感じさせないほど、静かに。
 しかしその影から、きらきらと輝く糸が、四方八方に伸び――いつの間にか、学校の敷地内を覆い始めている。
 白銀は、己の油断を心底悔やむ。そして、風一つであっさりと吹き散らされたこの場の負の音、その理由に気付く。
 もう既に、この場の負の音は殆ど――あれが取り込んでいたのだと。
「――糞がァ!!」
 結局、敵の明確な姿すら掴む事が出来ないまま――未森白銀は、音の世界へと飲み込まれた。